塩田城(長野県上田市塩田)
建治3年(1277)頃、執権北条時宗の一族、北条義政がこの地を領土とし城を築いたと言われる。
以後、塩田北条氏三代の居として栄えたが、元弘3年(1333)塩田北条氏は新田義貞の鎌倉攻めで北条一門とともに自刃し、滅亡した。
塩田領は村上氏に与えられ、城代として福沢氏らが置かれた。
武田氏の信濃侵攻は、上田原合戦、戸石崩れで村上氏に一時的に阻止されるが、この時塩田城は福沢氏の下、村上方として行動する。
村上氏は結局、武田氏に敗れ、上杉謙信を頼ることとなる。
天文22年(1553)上杉氏(当時は長尾氏)の援軍を得て、一時的に村上義清は旧領を回復し塩田城に篭るが、武田氏の攻撃を受け奪回され、越後に逃れる。
その後、飫富兵部少輔虎昌が城主となり、小県地方は完全に武田氏の支配下となる。
天正10年(1582)武田氏が滅亡すると、塩田城は真田昌幸の支配下に入るが、上田城築城により塩田地方も上田城からの直接支配が可能となり廃城となった。
塩田地方は塩田北条氏三代がもたらした鎌倉文化が花開き、今でも「信州の鎌倉」の名の通り、前山寺や安楽寺といった国宝建築が見られるなど、当時は文化の先進地帯であった。
初期の塩田城は、山麓の裾野部分だけであったと考えられ、そこに居館や政庁があったと言われる。
背後の山々まで城砦化したのは戦国期になってからであり、村上氏によるものと思われる。
構造的には山麓の居館、政庁を周囲の山上の複合城砦群が守る信濃の山城特有の「根小屋形式」であり、規模としては信濃の山城の中でも最大規模を誇る。
山麓の部分には多くの郭が段々状に見られ、その数20程度と言われる。
最も奥には北条国時の墓所がある。
その周囲の尾根には数箇所の砦が点在する。
どこまでが城域であるかは明確ではないが南北600m、東西300m位は有にある。
この山麓の部分と山岳城砦群の境界には、石積の虎口遺構が残る。
この遺構は村上氏時代のものと言われる。
塩田城の主要部分は北側斜面に展開している。
しかし、北側斜面に展開する城は余り多くはない。
現在は鬱蒼とした杉の大木に覆われジメジメしていて暗い。
所々には湧き水もある。
当時は、杉の大木はなかったと思うが、北斜面であり、東も西も山が遮っている。
地形的にも日当たりが非常に悪いには変わりはない。
要害性は確かに良いが、なんでこんな日当たりが悪いジメジメした場所に城を築いたのか疑問である。
一番北側にある堀跡。非常に浅い。 | 堀跡の上に曲輪群が展開する。 | 政庁跡があったという曲輪。 | 政庁跡の上は段々勾配が急になる。 これは石垣跡か? |
曲輪の切岸。ここにも石がある。 | 良く映っていないけど曲輪の切岸 | 曲輪群最上部にある枡形の石垣。 | 同左。ここを過ぎると山城部になる。 |
三島社。北条氏当時は城域は ここまでであったという。 |
三島社付近から見た西側の曲輪。 |