染谷城(上田市古里)
染屋城ともいう。
慶長5年(1600)の第二次上田合戦において徳川秀忠が本陣を置いた場所がここであったと推定される。
実際には染谷城に置いたのかどうかは分らない。
染谷台地に陣を敷いたとだけが「異本真田軍記」に記録される。

その染谷台地を見てみると、大軍で上田城を攻める場合、やはりここが一番合理的な場所なのである。
第二次上田合戦においては徳川軍は上田城を見下ろす東に位置するこの染谷台地一帯に布陣し、一気に踏みつぶそうとしたらしい。
大軍なら当然そうするであろう。

↑染谷城から見た西方向、上田城は右の木の陰になっている。中央右の三角の山は「子檀峯岳」。この山上にも城がある。
遠く北アルプス「常念岳」が見える。

しかし、攻撃の指示を出す前に真田氏の得意技である挑発に乗って、各部隊が統制もなくバラバラに攻撃を開始し、
挙句の果てには城下の要塞化した寺社を防御ポイントとした市街戦に引きずりこまれ、停滞する最前線部隊と後続する部隊が大渋滞を起こし大混乱のうえに撃退されるという敗戦を喫する。

大軍という油断に付け込み、城下に誘導し、防衛ポイントで拘束して粉砕するという見事な戦術である。
おそらく秀忠はその様子をこの場所で地団駄踏んで見ている以外なかったのであろう。

この染谷城は西南西約2qの距離にある上田城が眼下に望むことができ、しかも台地縁部にあり、谷津が東側に入り込む要害性もある場所に立地しているのである。
城のある場所の標高は503m、比高は約30m。
一方、上田城の標高は456m、染谷城から50mほど低い。城内が見える。

染谷台地の西側の縁部にある染谷城であるが、農村が一気に都市化ような場所であり、道が狭く見通しが悪い田舎道の周囲が宅地化したような感じで車で行きにくい。
一方ですぐ東側は水田が広がる農村地帯である。
北側のみが台地に続く豊染英(はなぶさ)神社のある地が主郭であり、その北側に2つの曲輪を展開させる梯郭式の城だったようであるが、外郭部の堀は埋められ、道にその痕跡を残すに過ぎない。
遺構が残っているのは神社の場所@とそこにある土壇(櫓台?)Aそして、その北側の堀切と竪堀B程度である。
神社がある場所は一段高くなり、石垣があるが、これが当時のものか分らない。
この部分は25×15mの広さがある。
神社西側の畑Cが主郭である。50×30mの広さを持つ。

@主郭部東に建つ「英神社」の社殿 A神社社殿の北に櫓台がある。 B Aの北下には竪堀が残る。
C神社西側に広がる曲輪。ここに居館があったのか? D Cの北側には堀があったが埋められている。 E 北側の曲輪の北の堀は道路になっている。

北側に堀Dがあったが埋められている。
かなり遺構が少なくなっているが、当時の姿を再現すればそれなりの規模を持つまずまずの城だったようである。
主郭の西の縁からは上田城が見えるはずであるが、木々の葉に遮られ見れなかった。

城自体は真田氏が上田に入る前の領主常田氏家臣の城だったようであり、真田氏時代は家臣の大熊氏の城だったという。
このため「大熊屋敷」ともいう。上田城の東を守る出城だったようである。

徳川軍来寇で上田城に籠城し放棄状態になっていた空城のを徳川軍が本陣として使ったのではないだろうか。
・・ではなく、戸石城同様、放棄しておいて油断させ、城下に引き込む餌に使ったのかもしれない。
真田昌幸ならそれくらいやっても不思議ではない。

岩門城(上田市古里)
上田市街地と東の神川間に染谷台地がある。台地西側に染谷城があるが、その台地の反対の東側にこの城がある。
上田市街から国道18号線の1本北の道、県道79号線を東に進むと神川を渡る。
岩門城は神川を渡る手前、県道79号線が大きく北にカーブする場所の南に位置する岩門神社の南側にある。

神川を臨む標高523mの台地縁にあり、神川からの比高は約30mである。
城址には大日堂跡があり、ここにあった大日堂は佐久間象山の師の活文禅師が文政7年(1824)に寺子屋にし、その後、弟子が運営し1000人もの人材を教育したという。
その大日堂あった場所が主郭であり、現在は公民館を兼ねて大日様が安置されている。
神川の渓谷に面する東側以外の3方向を「コ」字形に堀が覆っていたらしい。

この堀Bは土塁を崩して埋めたというが、若干の窪みとしてその跡が確認できる。
幅は10m以上あったようである。
北側の堀に面して、土塁の一部が残存する。
大日堂跡の東側に稲荷社が祀られた土壇Aがある。一見、古墳かと思ったが、これは土塁の残痕なのだそうである。
同様に西側の秋葉神社のある土壇@も土塁の残痕という。
土塁は北側に存在していたようであるが、西側と南側の堀に面しても存在していたのかもしれない。
しかし、その痕跡らしきものは確認できない。

@本郭から見た秋葉社が建つ土塁の残痕 A東側の稲荷社がある土壇は土塁の残痕。左が堀跡。 B稲荷社の建つ土塁残痕上から見た大日堂跡と堀跡。

なお、堀は水を引き込んだ水堀であったようであり、現在も北側から小川が城内を流れている。
東側の崖に面した部分には土橋を兼ねた堰があったようである。
この構造、上田城の本丸の水堀の堰兼土橋と同じ構造のようである。

北側の土橋の東には「宮の坂」Cという下にあった水田に通じる小道があるが、これは竪堀であろう。
北東側に岩門神社Dがあるが、ここが城域であるかは分らない。

C「宮の坂」は竪堀を利用したものという。 D北側にある岩門神社は城域か?

城のある場所は南側に緩やかに傾斜している扇状地であり、岩門神社の北側が高い地勢である。
しかし、神社北側には堀があった感じはない。
結局は単郭の城であったようである。

城の歴史は不明であるが、この地の土豪の城であったのであろう。
おそらくは真田氏のルーツでもある海野氏一族の城ではなかったかと思う。
南側にある国分寺に向かう街道を扼する城でもあったようである。

いつ築かれ、いつ廃城になったのかも分らない。
武田氏の侵略時に機能していたのかも分らないが、もし、機能していたとしてもこの程度の防御力では太刀打ちできないであろう。
天正13年(1585)の第一次上田合戦で徳川軍が一番損害を受けたのはここの南1qの神川の渡河地点であるが、その戦いにも係っていた可能性もあろう。

三日城(上田市生田)
この城に到達するのには2時間もかかった。
まともなルートなら精々10分もあれば行けるのであるが・・・。

だいたいにおいて、丘や山などにある城は高い場所にあるのが常識である。
その常識という潜在的な思い込み、先入観が思わぬ誤算を招くのだ。

この城、ネットで検索すれば「らんまる殿」以外に取り上げていない。
まあ、あのらんまる殿と管理人程度しか取上げていないということは、その程度の城ということである。

そのらんまる殿、管理人と同じチョンボをしていた。
それを知ったのは訪問後だった。

訪問前にそれを把握しておれば良かったはずではあるが、だいたい、ここに行こうとしたのは、近くを通り、地図を開いてみたら城のマークがあり、それが目にとまったからに過ぎない。
思いつきであるから予習もへったくれもない。
無計画の報いなのだが、それはいつものこと。
「人生に、計画性などない!」・・・って、開き直りか?

その誤算の要因、この城、一見、山城なのだが、尾根の末端のかなり低いところにあったのだ。
言わば、「穴城」である。でも低地側から見れば完全に山城なのである。
これは意外であった。

さらにこの近くには、猪を防ぐための鹿垣があちこちにある。
それも石で補強されているこれは城が城の遺構に見えてしまい惑わされるのである。

 上田市街地の東、しなの鉄道「大屋駅」前から千曲川をわたり国道152号線を依田川に沿って丸子方面に向かうと、長野新幹線の高架の下をくぐる。
この西側にはなだらかな丘が広がり、丘の下を新幹線がトンネルで通過する。
この丘には信州国際音楽村があり、多くの溜池がある。
その溜池の1つに「上池」がある。地図を見ると「上池」から千曲川の方向に城がある。

実際は「上池」の北東に「新池」がある。ここの標高は648m。
この新池の脇に城の入り口の案内があるのだが車なので見逃しているのである。

城は高い場所という先入観から「上池」の北の山の先端部であろうと推察、そこに向かう。
途中に鉄塔があり、その先に進んでみるが特段何もないが、尾根先端の標高683m地点の北端部が平坦になっていた。
これが遺構かどうか分からないが、本物の城はこの場所の下にあった。
あの平坦地は三日城の上の城であった可能性がある。
ここからさらに下れば大正解だったのだが、それが分かったのは後のこと。

「上池」に引き返し、地図を再確認して「新池」の先であることが分かる。
しかし、そのルートを進むと、途中に土塁のようなものがあり、それに迷わされ、先に行ってみる。
結局、尾根を1つ間違えていたわけであるが。途中に土塁状のものや、堀状の溝や石組みはある。
でも行けども行けどもなにもない。
そのうち民家にでてしまう。
それで再度Uターン。
既にこれまででロスタイム1時間半。

そして「新池」から再チャレンジ。
このしつこさ、自分でも呆れるが、こうなると意地。

1時間半のロスタイムをリカバリーしないと元が取れん!それが理由である。
道(いや、道などない。道の痕跡である。)を行くと途中に平坦地がある。

@これが主郭なんだが・・藪にしか見えんなあ。 A主郭の背後、南側にある堀切。 B城背後の堀切?右下に古道が延びていたという。
C城域背後にはかなり平坦で広い場所がある。
ここは兵の隠れ駐屯地か?
D沢をせき止めた「新池」。城は右方向。
正面の山にEの平坦地がある。Cは右下に位置する。
E「上池」から北に延びる尾根先端の平坦地。
ここも城の一部ではないかと思うが?

始めに行ってしまった尾根先端の平坦地の下である。
ここは小屋かなにかあった場所だろうか。
さらにその先の竹林を抜けると「あった。」堀切が見えた。

その先を登ると低い土塁がある山上の平坦地が。
ここの標高は623m。新池よりも25mも低い場所である。

15m×8mほどの広さに過ぎない。
ここから北の千曲川までは直線で約400m、川面からの比高は約170mもある。
結局、これが三日城のすべてであった。

主郭にいると「ゴー」と微小振動と音が。そうこの下が長野新幹線のトンネルなのだ。

城の歴史は今一つ明確ではないが、この城の西側に千曲川方面に下る古道があり、その道を監視する城であるとともに、千曲川上流方面も監視したのであろう。
主郭部は狼煙を上げる場所だったと思われる。
その情報の伝達先はおそらく上田城であろう。
したがって真田氏が運用した城である可能性が大きいと思われる。
しかし、こんな訳の分らん城を造るのはさすが「真田」である。
昌幸親父のなせる技だろう。
(「信濃の山城と館」を参考にした。)

孫台(上田市生田尾野山)
信州国際音楽村(標高586m)の北西の丘、標高618mにある「下ノ池」の東の丘が遺構である。
「城」とか「館」とか名前がついてはいないが、一応、城館に分類されている。
この丘、緩やかな丘陵地帯の中の盛り上がり部であり、標高は644.6m、直径は300mほど。
斜面は緩やかな勾配である。
眺望は良いが攻められたら防御するには適さない場所である。
丘の上は畑などになっており、北側から登る道がある。


南東下「信州国際音楽村」の裏の丘が孫台である。
斜面は緩やかであるが、頂上部は広く眺望が抜群である。

頂上部は100m×50mほどの広さがあり、平坦である。
東端に古墳と思われる土壇が3基ある。
平坦地に兵を駐留させ、この古墳を物見に使っていたようである。

ここが使われた時期は天正13年(1585)の第一次上田合戦の第二ラウンドの時という。
上田城で惨敗した徳川軍は今度は矛先を変え、丸子城を攻撃する。
1城くらいは攻め落とさなければメンツに係ると考えたのであろうか。
いや、そうではなく、後詰めに真田軍を上田城から出撃させ、野戦で叩こうとしたのであろう。
その戦術は定石どおりである。普通ならそれが通用する。
しかし、相手が悪い。・・・並みの武将ではない。

想定どおり丸子城の後詰めに上田城を真田軍は出撃するが、昌幸親父を舐めていたようである。
その真田軍が尾野山城を中心にこの一帯に布陣したというが、その陣地の1つであったようである。

@孫台の頂上部、広く見通しが良い。
かなりに軍勢を駐屯させることが可能である。
A東端部には古墳が3基ある。物見台に使ったのだろう。

結局、徳川軍は丸子城と後詰めの真田本軍の連携プレーに翻弄され、丸子城を落とせず撤退という恥をかくことになる。

なお、この地にはもう1つの戦いに係る伝承があり、解説板が掲げられていた。
その内容は「平将門戦跡 天慶2年(939)関東を平定した平将門はなお勢力を保つ従兄弟の平貞盛が上京するのを追って信濃路に入り当高台(俗称 高孫台)を背に北向の斜面に布陣する貞盛勢を信濃国分寺から千曲川を渡って攻め登り激戦の上敗走せしめた。
(H27年3月尾野山史跡巡り協議会)」と書かれていた。
これはどこまで本当のことだろうか?
信州に将門伝承があったとは知らなかった。果たして将門が信濃に軍を進めたことはあったのだろうか?
(「信濃の山城と館」を参考にした。)

茂沢城(上田市生田尾野山)
信州国際音楽村の南東下に明賀池(標高552m)がある。
この付近に多い溜池の1つである。
その南側の標高561mの丘が城址である。
城域は東西約120m、南北約60m程度である。
「信濃の山城と館」に掲載されているイラストを見ると、多段に曲輪が展開し、3重堀切も見られるなかなか見事な姿が描かれている。


これを見るとかなり良さそうな城に感じる。右の写真は北側の明賀池越しに見た城址。
しかし、実際は・・・確かに多段に曲輪は展開していた。
でも切岸が明瞭なのは下の方の曲輪のみ。

@一応、頂上部の主郭なのだが・・ここも藪! A東斜面には曲輪が重なるが切岸は不明確である。

主郭部付近は切岸が極めて不明瞭であり、若干の凹凸がある緩斜面程度でしかない。
風化により切岸が崩れてしまっているような感じもする。

主郭部は35m×20mほどの広さ、その背後に3重の堀切があるが、埋没しているのか小さい感じである。

この城も孫台同様、第一次上田合戦で真田軍が布陣した城と推定されるが、孫台がほぼ自然の山であるのに対し、小規模ではあるが遺構はある。
おそらくもっとも低い場所にあり、徳川軍に最も近い位置となる最前線の城なので防御も意識したのであろうか?
(「信濃の山城と館」を参考にした。)

市の町砦(上田市塩川)
天正13年(1585)に起きた第一次上田合戦の第二ラウンド、丸子城攻防戦で真田軍の最前線の陣所がここである。
場所は依田川が千曲川に合流する地点の約700m南、丸子地区への入口部、依田川にかかる東郷橋の南東にある向陽院の南の丘にある市之町神社のある場所である。
・・と説明するより、「蛍の名所」としてここは有名である。

砦と言っても、陣所を置いた程度の場所であるためか、遺構らしいものは確認できない。
堀もあったようにも思えない。

ここは依田川の東の段丘の西側の縁に位置し、南から狐塚沢が流れ、東側が谷津になっており、南側のみが台地に続いている。
その南側は水田が広がっているだけである。

この場所の標高は502m、西側からの比高は約22mである。
陣地として使っただけなので台地続きの南側に柵列を作っただけだったのではないだろうか?

第一次上田合戦の第二ラウンド、丸子城攻防戦で真田軍は依田川の西側の尾野山城付近に陣を置き、依田川東岸は徳川軍が布陣していたという。
このことは徳川軍に従軍していた大久保彦左衛門こと大久保忠教の「三河物語」に登場する。
@主郭部に建つ市乃町神社 A社殿北下にある平坦地は腰曲輪か?

ここに出てくる「手塚城」がここを指すと思われ、地元にも伝承があるという。
「手塚」は神社南側にある五輪塔がある場所「白塚」らしい。(多分、「白」は「城」の意味か。)
しかし、この砦は依田川の東岸に位置する。

B社殿南側の五輪塔がある場所が「手塚」「白塚」らしい。 C南側から見た北の神社方向 D砦東側を流れる「狐塚沢」。ここは蛍の名所でもある。

徳川軍が駐留していたのは、ここの南東の陣場山と東の芝宮砦だったらしいが、徳川軍の横腹に刃を突き付けた感じである。
しかも防御施設らしいものはない。
まるで徳川軍を舐めきった行動である。

この砦を徳川軍が攻撃したことが「三河物語」に書かれているが、威力偵察程度のものであったろう。
上田城での惨敗で徳川軍は罠が仕掛けられていると思い疑心暗鬼になっていた可能性がある。


芝宮砦(上田市塩川)
県道147号線沿いにある塩川小学校から東に延びる道を真っ直ぐ500m行くと、道は台地端で行き止まりとなる。
そこには稲荷神社と民家がある。

↑ 西側、塩川小学校側から見た芝宮砦。撮影方向の反対側に真田軍が陣を置いた市の町砦がある。

その場所が芝宮砦である。

ここの標高は514m、東側は南から北に流れる塩川沢川が東にカーブする。
その川面からの比高35mあり、この方面は崖を伴う急斜面になっている。

北には千曲川が流れる。塩川沢川が合流する。
西側のみ塩川小学校方向に平地が続き、この方面に堀と土塁があったという。

詳細な歴史は不明であるが、天正13年(1585)、第一次上田合戦で徳川軍の陣を置いた場所の1つがここという。
土豪の居館を利用したようである。

しかし、東西60m、南北80mの三角形をした単郭に過ぎず精々徳川軍の1部隊100人ほどが駐屯していた程度であろう。

@砦の中心部に位置する稲荷社 A南側のこの場所に堀があったらしい。 B北側は水色の場所に堀があったらしい。