矢沢城(上田市殿城矢沢)
築城に関する時期等は不明であるが、海野氏か村上氏が戸石城の支城として築いたものと推定される。
資料に登場してくるのは真田幸隆の弟、矢沢綱頼(頼綱とも)の居城としてである。
矢沢氏も真田氏同様海野氏の流れであるが、綱頼がどのような経緯で矢沢家を嗣いだか等は不明であるが武田信玄の指示によるものではないかと思われる。
ちなみに矢沢家は諏訪大社の神官の家だそうである。
矢沢城に居城した時期もはっきりしないが、この地が真田氏の領土になったころであろう。
矢沢城が歴史の舞台に登場するのは、武田氏滅亡後、真田氏の重臣となった矢沢氏が第1次上田合戦で徳川軍の攻撃を受けた時という。 この時、矢沢城には矢沢三十郎頼康ら城兵800(ほとんど農兵であろう。)が立て籠り、徳川の攻撃を退けたと記録されている。 その後起きた関が原の戦いでは、矢沢氏は東軍に付いた信之に属していたといわれ、このことは、松代真田藩の家老として矢沢氏の名が見えることからも裏付けられる。 矢沢城は関が原の戦いの後、廃城になったと思われ、仙石氏が上田城主になった後、一族の仙石政明の代に旧矢沢領は仙石旗本領となる。 仙石氏は城下に陣屋が設け、明治の廃藩置県まで続いた。 矢沢城の築城は不明であるが、真田郷の入り口東にあり、西の対岸には伊勢崎城とともに、真田郷全体の入口を守る役目があったと思われる。 おそらく、真田氏が歴史に登場する前の海野氏の時代ではなかっただろうか。 時代が進むと上田城の背後の守り、戸石城の支城の役目が課せられていたと思われる。 矢沢城は現在、矢沢公園となっているが余り管理された状態にはない。 丘陵の端に城はあるが、比較的小規模であり、構造もそれほど複雑なものでない。 西側、北側斜面は比較的勾配が緩やかであり、ここに数段の曲輪を設け、一部、石垣も確認できる。 一番東の高所が本郭になる。 その東は深い谷となっている。 東北側の尾根伝いに行くと詰城と推定される矢沢支城(古城)に至る。 |
@西側斜面の曲輪 | A本郭下より西側斜面の曲輪を見る。 松の木付近に石垣と堀がある。 |
B堀?跡。ゴミ箱が放置されており 分かりずらい。 |
C西側斜面の曲輪の1つ。 |
D石垣。 | E本郭西下の石垣。 | F本郭内部。 | G本郭の北側の郭から本郭を見る。 |
H本郭から見た北側の郭。 | I北側の郭のさらに北下にある 曲輪。 |
西側にそびえる伊勢山砦。 手前に神川が流れる。 |
伊勢山砦(上田市上野)
上信越自動車道を長野方面に走り、東部湯の丸ICから上田ICに向かう。
上田ICに近づくと左にカーブを描きながら道は山を下り、神川にかかる上田ローマン橋を渡る。
この正面には岩山が立ちはだかり、その向こうに砥石城が、そして三角形をした太郎山が見えてくる。
この正面に立ちはだかる岩山が伊勢崎城または伊勢山砦という城砦である。
通称、この岩山の名前を虚空蔵山という、標高は672m、神川からの比高は100mである。
神川の対岸600m東には矢沢城があり、この城とペアで真田の谷の入口を抑えている。
城は1辺が700mある上部が平坦な三角形をした独立台地の一段高くなった東端の山にあり、西側は緩い斜面であるが、北側、東側、南側は岩だらけの崖である。 神川は渓谷を作りながら、この城のある山(岡?)の下を北側から東側を回り込むように南流する。 上信越自動車道はこの山の南の山麓を通っている。 この山は非常に目立ち、素人目にも城があって当然という感じを受けるであろう。 しかし、実際登ってみると、城らしい目だった遺構はない。 傾斜の急な北、東、南は自然地形で十分であるので、そのままでも特に問題ない。 しかし、西側斜面は傾斜が緩く横堀や土塁程度は欲しいものである。 しかし、そんなものはない。 西側には曲輪が2段あって、直ぐに本郭になる。 本郭の北側3m下は腰曲輪があり、虎口がある。 |
南から見た城址。 西側以外は崖である。 |
本郭の土壇。中央部が窪んでおり 狼煙台であったと思われる。 |
西側にある石垣。城郭遺構なのか 畑作に伴うものか判断できない。 |
南東直下を通る上信越自動車道と 神川にかかるローマン橋。 |
本郭は東西30m、南北50m程度である。東側に高さ50cm位の土塁跡が見られる。
また、土壇があり、中央部が窪んでいる。
これは狼煙台の跡と思われる。
本郭南側は緩斜面になっているが、ここが二郭であろうか。
西側に石垣があるが、城郭遺構か分からない。
石垣はこの南西斜面に数段あり、現在、藪の中であるが、これはどうもかつての桑畑の跡のようである。
城とは言え、砦レベル、物見台、狼煙台程度のものである。
砥石城の出城として使われたものであろうか。
この城は資料には登場しないが、第1次上田合戦で上田城から撤退する徳川軍を横から攻撃し、大損害を与えた真田信幸率いる部隊は、砥石城から出撃したのではなく、この城から出撃したという説がある。(砥石城からでは遠すぎる。)
それ以前に砥石城を巡って砥石崩れという武田信玄が最大の敗北を喫した戦いがある。
この戦いにおける主戦場はこの付近であり、上田方面から攻撃する村上軍と砥石城守備隊がこの城の直下付近で武田軍を挟み撃ちにして大損害を与えたという。
この戦いにこの城がどう係ったのかは不明であるが・・・。