三水城(坂城町網掛)

擂鉢山から少し室賀峠方面に戻ると三水城方面に向かう尾根が派生する。
この尾根をアップダウンしながら1.5qほど歩くと三水城である。
別名は福沢城。

右の写真は西側、擂鉢山(竹把城)から見た三水城である。

1.2qとはいえ、このアップダウン、並みではない。
しかし、尾根上の道はよく整備されている。
三水城までに標高793m、760mの2つのピークを越える。

この2つのピークも出城を置いてもおかしくはないが、明確な遺構は確認できない。
おそらく物見はあったのではないかと思われる。

下右上の写真は麓の村上大国神社前から見た三水城(右のピーク)と狐落城(左のピーク)である。
高さは写真からは感じられないが撮影場所からでも三水城までは300m以上ある。

下右下の写真は南東にある太郎山城砦群の西端、和合城から見た三水城、狐落城である。
山下を千曲川が流れ、和合城と三水城、狐落城で千曲川沿いの交通を遮断していることが分かる。

三水城西の標高737m付近の鞍部から堀切が現れ始め、登りになって行く。
そのうちC、Dの堀切が現れ、ピークがある。
このピークも曲輪である。
ここから尾根が東に曲がるが、その先にあるのが、この城の最大の見所、6重堀切@、Aである。

これでもか、これでもかと長さ50mの尾根にわたり造られている堀切と下る竪堀、まさに心配性の極致である。
この堀切群を越えると本郭Eである。
一辺20m程度三角形をしており西側に土塁があったと思われる。
この場所の標高は789.5m、麓の千曲川からの比高は390m。ここのピークを前山と言う。
ここからの眺望は素晴らしい。

南から北に流れる千曲川と坂城、戸倉上山田の町、対岸の山には上信越城車道、北方向には葛尾城、荒砥城、その彼方に川中島。
南東方向には太郎山城砦群、その南に上田盆地、西には竹把城が望まれ、ここに城が置かれた理由が理解できる。
この景色が見れるだけでもこの城に来る価値がある。

@本郭西側の6重堀切最西端の堀切 A6重堀切を写したのであるが・・分からん! B 北東側の岩盤堀切
C竹把城に続く尾根上の堀切 Dこの堀切から城域となる。 E本郭内部。ここからの眺望は抜群。 F狐落城側の竪堀

周囲は細尾根であるが、到底人が来るとは思えない南東側の尾根にもちゃんと堀切が2本ある。
そして、狐落城側の尾根には二重の岩盤堀切Bがある。
岩をくり貫いて造った堀切、幅は10mほどある。
いったい、これを造るのにどれくらいの労力がかかっているのか?
さらに狐落城側にも何本かの堀切、竪堀Fがある。

狐落城(坂城町網掛)
三水城から尾根を比高で120mほど下って行くと狐落城である。別名は網掛小屋。
下りの道は急勾配であり、ロープを伝わって降りるのであるが、足に衝撃が来る。
標高は665m、城のあるピークは狐落城山と言う。
千曲川からの比高は260m。

堀切Cがありさらに幅10mの二重堀切@で三水城側を遮断しているが、三水城とは一体の城であり、信州に数多い上の城、下の城、あるいは大城、小城の関係にある。

狐落城は三水城より、石垣を多用しており、本郭D周囲は二重の石垣Aで補強されるが、この石垣は土留め用であろう。
本郭は15m×5mほどの広さ。
西側に土壇があったようである。
東下5mに二郭に相当する曲輪がある。
三水城から見下ろした狐落城と千曲川
撮影位置からは120m下、千曲川が近くに見えるが川からの比高は260mもある。

ここは1辺15mほどの三角形。その周囲は石垣になっている。
北側には石垣の枡形虎口Bがある。
かなり石が崩れており写真に撮ると良く分らない。
ここから麓までの尾根の勾配も急であり、ロープ伝いである。
それでも何度か落ち葉で滑り転ぶ有様。狐が落ちるほどの山だから「狐落城」とは納得がいくネーミングである。尾根の途中に木戸跡らしい場所Eがあり、道がS字になっている。

さらにその下の尾根筋にも曲輪状の場所、竪堀等が各所に見られ、この尾根筋自体が城域である。
麓の村上大国魂神社付近の上付近の平坦地も曲輪状である。
おそらく、麓のこのが城将の駐屯場所であり、山の上の城には普段はわずかの数の城番がいた程度であろう。

@本郭背後の堀切 A本郭周囲の石垣 B二郭の枡形虎口であるが、分からん!
C三水城側にある堀切 D本郭内部 E木戸跡?

三水城のある山と太郎山城砦群で村上氏本領の坂城の谷の南側を遮断すれば、千曲川沿いからの侵入は防げることは間違いない。
しかし、当時は千曲川沿いのルートはなく、室賀峠越え、太郎山山系を越えるルートであったという。
そうは言っても、千曲川が蛇行して道が付けれなかったとしても、川であるため、舟、筏で上田から坂城への侵入は可能と思うのだが。
ともかく、この山越えルートも千曲川東西の山城群で抑えることができる。

逆に千曲川東西の山城群のいずれかを落とせば、坂城の谷の防衛網は崩壊する。
この方面の守備担当は北の山麓に居館を構える村上氏重臣の福沢氏であったと思われる。
三水城の別名が福沢氏であることから推測される。
武田信玄の侵略に晒されるれたころ、福沢氏は塩田城の城主であったので、三水城の管理が福沢氏であったかは分からない。
天文22年(1553)、武田信玄は村上属将の寝返り工作を行い、大須賀氏、室賀氏などの諸将を味方につける。
これにより、室賀氏の城、竹把城から尾根沿いに三水城を攻撃することが可能となる。さすが武田信玄である。

武田軍は三水城と狐落城を攻撃、守将の児島兵庫介兄弟を討ち取り両城は落城、坂城防衛網は崩壊。
荒砥城も武田方の攻撃で城将の山田国政(砥石崩れの時の砥石城の城代として武田軍を撃退した戦歴を有する猛将)が討死して陥落。
村上義清は越後に逃亡する。
・・これが定番のストーリーであるが、おそらく、武田軍の三水城攻撃は奇襲であり、三水城には城番程度のわずかな兵しかいなかったのであろう。
それなら簡単に陥落させることは可能である。
もし、攻撃を察知していたら、それなりの兵で固め、そこを攻撃するとなると地形自体が要害であり、そんなに簡単には落とせないと思うが・・・。

戦死した児島兵庫介兄弟、不幸にも、その日の城番だったのかもしれないし、城代であったとしても戦死したのは麓であったのかもしれない。
討ち取られた敗将とは言え、こういうことで歴史に名を残すのもねえ・・・良いのか悪いのか?

竹把城(上田市室賀/坂城町上平)
山城に行く場合、登るより下る方が時間的には効率的。
山の上の方にまで道路が通っている場合、2台の車があれば、山の麓に1台、山の上の方に1台を置いて、山を下って来るのがよい。
これを「デポ戦法」と言い集団で山城を攻める場合に有用。


↑ 三水城から見た城址、すりばち形をしている。

その戦法を「らんまる殿」「馬念殿」と行った長野県坂城町の西の山にある「竹把城」「三水城」「狐落城」攻略に適用した。
まず、県道160号を駆け上がり、標高760mの室賀峠付近で車を止め、尾根伝いに 標高880.8mの摺鉢山に。
ここが「竹把城」である。千曲川からの比高は470mである。

峠付近からの道、多少のアップダウンはあるが、尾根幅も広く、凄く快適。よく整備されたハイキングコースである。モトクロスバイクなら走れるんじゃないかと思う。
20分ほどで摺鉢山に到着。

城と言っても曲輪は山頂の平坦地と北下にも小屋があったのではないかと思われる平坦地が1つあるだけ。これだけを見ると物見、狼煙台程度に過ぎない。
@本郭北直下の岩盤堀切 A西下に延びる横堀

しかし、この城の特徴は北西の斜面部に縦横無尽に張り巡らされた横堀群である。総延長は500mはあるだろう。
北西の斜面以外の斜面は急勾配であり、防御設備はいらない。
南側が室賀方面に通じるため、南に延びる尾根が大手だったと思われる。
山頂の曲輪には東側を迂回して入ったようである。

山頂部の平坦地の周囲は石垣で土留めをされていたようである。
特徴である横堀群、幅は5m程度。深さは1.5mほどに埋まっているが、当然当時は深かったと思われる。
尾根の堀切から延びる竪堀がそのままで、あるいは横堀となって合流、分岐を繰り返し、まさに巨大迷路である。
でも、この遺構、現物を見ると病的以外何者でもない。

B本郭内部、周囲は石で補強 C @の堀切から下る竪堀 D 横堀は途中で急カーブする。 E横堀は竪堀と合流して下っていく。

この城の機能は狼煙台であろうが、築いたのは村上氏一族、室賀氏、はじめは対武田氏防衛網の1つであった。
室賀氏を調略し、ここから三水城を落とすことにより、村上氏の西の防衛網は崩壊、村上氏を越後に追うこととなった。
室賀氏が武田氏に寝返り、村上氏を越後に追うと、対上杉用の狼煙台として川中島の異変を甲斐に伝える役目となった。
さらに武田氏が滅び、川中島が上杉氏に占領されると、この城は徳川氏に付いた室賀氏の対上杉氏の最前線であった。

この横堀群、構築するとすれば想定の敵が北方の場合、すなわち室賀氏が武田氏に従っていた頃、または徳川氏に従っていた頃の2通りが想定される。
前者の場合ならこの付近が最前線であった第1回川中島合戦の頃が最も緊張感に包まれていた天文22年(1553)ころが横堀群の構築時期であろう。
後者なら天正10年(1582)頃だろう。両説には30年の差があるが、いずれも想定は上杉氏である。

上杉軍、(いや室賀氏が怖れたのは海津城代で復帰した村上国清の復讐だったかも?)に対する異常なまでの恐怖感がこの横堀群から見て取れる。
結局、室賀氏は真田氏が上杉氏と結ぶと、この地にいられなくなり、徳川氏の元に亡命、その後、大阪の陣で活躍し、大身旗本となって続くのである。
波乱に満ちた室賀氏の歴史、結局、勝ち組と言えるだろう。

(参考:らんまる攻城戦記  宮坂武男/信濃の山城と館)

福沢氏館(坂城町大字綱掛字福沢)
福沢さん、どこかで聞いたような・・・そう、福沢さんて言えば、思い浮かべるのが、あの1万円札の・・・。
諭吉さんのご先祖様有力候補(福沢さんのルーツは信州らしいが、その信州にはいくつかの候補地がある。
必ずしもこの地とは断言できないが、最有力候補の1つがこの地である。)の居館跡が坂城町の千曲川西岸の網掛地区、「びんぐしの里公園」の南西、字福沢地区の福沢公民館付近にあった。
残念ながら館の遺構は民家や畑になって分らない。

段丘が館の切岸のような雰囲気があるのみである。
実際の居館の比定地は写真右奥付近だったが、宅地で何も痕跡がなかった。
今は山間の谷間の田舎にすぎないが、当時の主要街道であった室賀峠越えの街道筋に当たる場所であり、村上氏領の南の玄関口を守る要衝の地であった。
三水城、孤落城はちょうど真南の山である。
三水城の別名が福沢城というので、この城の城主であったと思われる。

館主の福沢氏は村上一族であり、代々村上氏の重臣を務めた。
居館はここであったが、村上氏の勢力が上田にまで伸びると塩田城の城主を務め、武田の侵略が活発化した天文年間も塩田城の城主であった。
武田氏関係の信頼度の高い資料である高白斉記や妙法寺記等によると天文22年(1553)8月6日、村上義清を越後に落ち延びさせる盾となり福沢氏以下、城兵は全滅したとされている。

しかし、福沢一族は滅亡した訳ではなく、何らかの形で生き延び、武田氏滅亡後の北条氏、徳川氏、上杉氏の信濃争奪戦が始まり、天正10年(1582)に起きた岩井堂合戦で福沢氏の名が登場している(小野沢家文書)。

その後、福沢氏がどうなったかよく分らないが、長野県内にはけっこう多い姓であり、土着した一族も多いらしい。
諭吉さんは豊前中津出身であるが、徳川氏の支援でこの地に勢力を伸ばした小笠原氏が後に豊前小倉藩藩主となり信州由来の家臣も多く同行しているので、家臣の1人として九州に渡った可能性もある。
中津藩も最後の藩主は小笠原氏であった。
まあ、この辺は全く推測の域は出ない。
諭吉さんとこの地、何の関係もないのかもしれない。

館跡の田舎の風景と1万円札、やはりイメージが一致しないなあ。


左は国土地理院が昭和50年に撮影した航空写真に写る館跡である。
当時は果樹園、畑であるが、現在は宅地になっている。