笹洞城と原畑館(上田市上室賀)
山城の笹洞(さぼら)城と、麓の室賀氏の居館、原畑館の2つを総称して室賀城という。
このうち、詰めの城、山城の笹洞城は、原畑館の北側、標高
693m、比高140mの西から室賀の谷に突き出た尾根先端部にあり、館跡からは本郭の石垣が見える。
この地は上田市から西の青木方向に向かい、小泉地区から北西の室賀地区の谷に入り、
3.5km進んだ上室賀地区という山間の地である。
この地の土豪、室賀氏が築いた城である。

この室賀氏は、源氏の流れを組む村上氏と同属であり、紋も丸に上の村上氏と同じである。
室賀氏が古文書に登場するのは、鎌倉幕府が成立して間もない頃である。

室賀盛快(室賀次郎)和田義盛の謀反の時、北条方として討死したとの記述があり、すでにそのころ、室賀城(笹洞城)を居城にしていたという。
室賀信俊の代に武田氏の調略で降り、その先方として三水城、狐落城を攻略して村上氏の本土坂城に武田軍の侵攻路を開く。
それが村上氏没落につながる。

その後、信州先方衆として遠州の城に派遣され、こきつかわれる。
武田氏が崩壊するとそこで徳川氏に降伏、ようやく帰国を果たす。
その時、徳川氏とコネクションを作る。

信濃に戻った室賀氏は真田氏と抗争して破れ、徳川氏に身を寄せそのまま家臣となり、江戸時代は
5500石の大身旗本になる。
結果からすれば幸運な一族であったと言える。

原畑館は笹洞城の南の山麓、原組地区が館跡に当たる。
残念ながら畑と人家になっていて明確な遺構は確認できないが南北に川が流れ、台地が切岸になっており、西の原田橋がかかる切通しが堀切である。

山城の笹洞城へは、原田橋から
50m西から山に入っていく道が最も整備された道であるが、入口が細く、廃屋に庭先を通ったりするのでまず、分からないだろう。
途中に「西澤家墓地」があるので、その場所を住民に尋ねるのが良いであろう。

そんなことは知らずに、管理人と同行のウモレンジャー殿は、山方向に道があるので、猪突猛進で突撃。
しかし、直ぐに道はなくなり、倒木による逆茂木地獄と「たらの木」に行く手を遮られる。
悪戦苦闘の末に見たものは、本郭東の石垣である。

まるで「ここまで来てみろ」と挑発しているかのようである。
すぐそこに石垣が見えるのであるが、障害物が多すぎ、なかなかたどり着かない。
それでも途中の尾根筋に曲輪を2つ確認。

山頂東側に堀切があり、そこを突破すると、ようやく北東側の曲輪U@である。
長さ
25m、幅10mほど。北側に竪土塁を伴う竪堀Aが下っている。
この曲輪から6mの切岸をよじ登ると本郭Bである。
この切岸には石があり、石垣であったらしい。


本郭は30m×10mの広さで、南に1m下がって12m×7mの曲輪がある。
東に土壇があり、それが麓からも見える石垣である。
この南側が虎口であり、下の幅2mほどの腰曲輪が廻っている。
ここには石祠がある。

本郭の周囲、南から西にかけて石垣で補強されている。
本来は本郭の周囲全てに石垣CDEが廻っていたようである。

そして尾根続きの西側にはおなじみの大堀切Fである。
本郭からの深さは8m程度。その先に小さな
2重堀切があり、城の西端となる。

一方、南東の西澤家墓地方面への尾根を下って行くと、中腹に突き出し15mほどの曲輪Gが4mの高さで4つ連続しているのが確認できる。
城の規模としては小さく、尾根先端に主郭を置き、尾根続きの背後を大堀切で分断するオーソドックスな構造の城であるが、石積みを多用しており、ピリッとした城である。
この石垣も細長い板状の石を使っているが、もともとこの山には石が多く、素材には不自由しなかったのであろう。

原畑館跡から城址がある山を見る。
目が良ければ本郭の石垣が見える。
@曲輪U内部。笹の葉が生い茂っている。 A曲輪Uの北側に竪土塁を持つ竪堀Aが下る。
B本郭内部。ここはちゃんと草が刈られている。 C本郭東側の石垣 本郭から見た南方向、室賀の谷、先が上田盆地。
D本郭下、腰曲輪の石垣。 E本郭南側の石垣。 F本郭西側にはおなじみの大堀切がある。
G南に延びる尾根に小曲輪が4つ存在する。 原田橋の東側の台地が館の主要部らしい。 原田橋がかかるこの切通しが館の堀切らしい。

岡城(上田市岡)

知名度がある城のわりには現状は嘆かわしい状態にある。
何と主要部は市営住宅なのである。
昭和37年ころ主要部分が破壊されてしまったという。
おそらく、当時は高度成長が始まったころ。
日本全国、文化財保護などの概念が失われていた頃である。
その市営住宅もすでに老朽化しており、時代から取り残されたようである。

それでも一部は公園化され、大きな土壇は残っているし、その北側の堀跡も健在である。
そのほかにも良く探せば、断片的ではあるが、堀や土塁の遺構は散見されるし、丸馬出と三日月堀も何とか確認できる。
この城は浦野川を外堀として、その河岸段丘に梯子郭式に築城された平城である。

右の写真は浦野物見砦のある山の中腹から見た岡城である。
北側の二郭の土塁と堀はしっかり残っているが、郭内部は市営住宅になっている。
北の丸馬出の跡は、水田がUの字を描いているのが痕跡。お分かりいただけるか?
現地説明版では、
「天文
20年代に武田信玄が川中島進出にあたって村上義清・上杉謙信との戦いの備えた前線基地」という。

村上氏を追って、この地の支配のために築いた常備兵を持つ政庁的性格を持つ海津城のような城だったのであろう。
そのため、兵士の居住、政庁、倉庫を置くために、広大な広さが確保できる深志城、海津城と同じ、平城である必要があった。
特徴は丸馬出と三日月堀という武田式城郭の要素が強い点であり、この様式を伝えている城は、この付近では海津城(復元)と牧野島城くらいである。
現存壇は二郭北側に位置するが、高さは8mほどある巨大なものである。東側に道路があるが、これも堀跡であり、その東の人家と畑の中に丸馬出と三日月堀が確認できる。
二郭西側の堀もその痕跡が確認でき、本郭西側の堀も残存している。
本郭西側の土塁は、なんと民家の盛り土となり、上に民家が建っている。

本郭の大きさは80m四方、幅20mの堀を介し、二郭となる。

二郭は東西350m、南北最大150mの台形。
その外側に最大幅25mの堀があり、南を除く3方に径50mの丸馬出があり、全体の城域は東西450m、南北210mという。

@の位置、二郭北側の土塁(左)と堀跡。 東の丸馬出Dでなのであるが・・。分かるかな? Cの位置、二郭(右)東の堀は道路になっている。
写真左が丸馬出である。
Aの位置、本郭西側の堀跡。 Bの位置、本郭北西側に残る堀跡。 二郭北側の土塁の一部は櫓台のようになっている。

浦野物見砦(上田市岡)
岡城の北側の山が城址である。
城のある場所の標高は
626m、比高130m。
ウモレンジャー殿と岡城を見たついでにちょっと立ち寄ってみるか、という軽い気持ちでチャレンジ。
しかし、それが地獄の始まり。物見の砦というので宗安寺の裏の山の中腹じゃないのか、という地図の読み間違いがそもそもの失敗。
大体、予定にもなく、下調べもしていない山城に軽い気持ちでチャレンジするものではないということであるが、そこはいつものことで一々、反省していたら山城には行けん。
まず、城址と目した場所は、宗安寺背後のお姫さまの墓であった。
田藩の藩主の
7歳で亡くなった娘の墓だそうであり、とてもここは城址ではない。
それじゃ、もっと上の方か?ってことで藪に突入。
悪戦苦闘の末、登って行くと、目の前にちゃんとした道が、そこを登るとちゃんと城跡に出た。
ここで第二の勘違い。ここを浦野城自体と思い込んだのである。
すなわち、物見末砦は通り越したか、違う峰にあったのではないかと・・。
しかし、そのたどりついた場所が浦野物見松砦であったのだ。
この勘違いにより浦野城を見損なったのである。すぐ下の尾根にあったのに!
(本来の登城路は麓の東にある宗安寺の駐車場西側の小道を行けば良いのだが、この道は分かりにくい。
この場合は地元の人に「山の上の秋葉社に行く道は、どこ?」と尋ねるのが良い。
秋葉社については地元の年長の人は、大体知っているようである。この道は結構、急であり頂上の城址まで
20分程度はかかる。)
なお、宗安寺の地が岡古城の地であるというが、城址らしい遺構は見られない。

浦野物見松砦は、典型的な尾根末端に築かれる城郭であり、背後に多重に堀を配置するタイプである。
構造的には小坂城、鷲尾城とそっくりである。南東側に馬出のような曲輪があり、その上、5
mに突き出し8m位の腰曲輪、さらに7m上に30m×15mの広さの本郭がある。
内部には例によって秋葉社の小さな石の祠があり、きれいに草が刈られている。
北西側は一段高く、直径
15mほどの土壇になっている。ここに物見の井楼櫓が建っていたのであろうか。
そしてその背後が
70m位の長さにわたり、4重の堀切と竪堀が展開する。4重目の堀切は本郭より10mくらい高い場所となる。
本郭側の竪堀は、竪土塁を持つ。いずれの堀切も土橋があるが、これは本来あったものではないと思われる。
この状態では背後の防衛には何の役にも立たない。
この
4重堀切もかなり埋没が進んでいるようである。この城には、この付近の城に見られる石垣は見られなかったが、落ち葉が堆積していて確認できなかった可能性もある。
なお、浦野城には石垣があるという。(後世のものではないかとの指摘もある。)
岡城の詰めの城であったのかもしれないが、整備された感じは受けない。

この地の土豪、滋野氏の流れを組む浦野氏代々の城であり、背後の山の中腹にあったという浦野城の出城であると言われている。
浦野氏は上田原の合戦に村上方として参陣、村上義清が越後に逃れると武田氏に従うが、武田氏が滅亡すると、上杉景勝に従う。
上杉氏の会津移封には同行せず、帰農したようであるが、後、真田氏に仕え、真田信之が元和
8年(1622)松代へ移った時に同行したという。
松代周辺には浦野姓が多く、子孫であろう。

岡城から見た城址。一番左のピークである。 東端にある馬出。本郭側は竪堀となっている。 馬出の5m上に幅8mの腰曲輪がある。
本郭内。秋葉神社の石の祠があり、
きれいに管理されている。
本郭背後の堀切。 2つ目の竪堀は竪土塁を伴い山を下る。