中山城(上田市(旧武石村)武石小沢根)

旧武石村の中心部、武石支所の南に見える標高756mの山が城址。
この山は西から東に尾根状に張り出し、南北を武石川と小沢根川が流れ、天然の水堀の役目を果たしている。
城はこの尾根の先端部に位置する。東の山ろくに子檀嶺神社があるが、この神社の脇から登る。
この道は道とは言え、かろうじて人の踏み跡がついている程度であるが、藪でないのがせめてもの救いである。
急坂できついが、
15分くらい登ると素晴らしい遺構に出会える。
それでも比高は120mほどあるので登攀のきつさは想像できるであろう。
途中に
3段ほどの平坦地がある。いったいこれは何だろうかと思ったが、どうもこれも遺構であるらしい。


尾根が平坦になると小曲輪と小さな堀切が2つほど確認され、そこを過ぎると東の大堀切が現れる。
堀底はかなり埋没しているが、それでも本郭側からの深さは7mほどある。
竪土塁を伴う竪堀が豪快に山を下る素晴らしい光景である。
ここを過ぎると本郭下5mに腰曲輪があり、本郭の北側を覆っている。
東の堀切に面して土塁があり、その土塁の西に本郭の虎口が開いている。
切岸は崩れているが、全体が石垣で覆われていたようである。
虎口を入った本郭は東西
25m、南北15m程度の広さであるが、ぐるっと1周、高さ1.5〜2mの土塁が覆う。
所々に石が見られるので石垣で補強されていたらしい。
内部には秋葉神社の石の社があり、地元の人により草もなくきれいに管理されている。

西側の土塁上に登って、西下を見ると予想どおりの堀切である大二重堀切である。
深さは
10m、幅は15mほど。
2
つ目の堀切は深さ5m、幅10mほど。
ともに竪土塁を伴い斜面を下る。
この二重堀切の西側には井戸とも思われる直径
15mほどの窪みがある。

その西側は登りとなり、小曲輪、物見台と思われる岩があり、西端の堀切で城域が終わりとなる。
尾根上、全長
200m程度が城域と言えるであろう。
本郭部付近に戻るが、本郭北側の腰輪の北下に横堀が存在する。
この横堀は西側の二重堀切の竪堀と東側の堀切の竪堀を結んでいる。
非常に小さな堀切であり、斜面を登る敵に対する投石陣地ではないかと思われる。
(しかし、こんな急斜面、武装して登って来れるものか?)

一方、本郭の南側にも腰曲輪がある。
この腰曲輪の切岸を見ると崩れていない石垣がちゃんと残っていた。
基本的には
3040人程度しか篭城することが出来ない単郭の小さな砦に過ぎないが、堀切等の遺構はメリハリが効いて、石垣もあり素晴らしく、お勧めできる城である。
この城は、今の武石支所の地にあった武石城の詰の城として、大井氏一族の大井大和守が整備したものという。
(東の山ろくに子檀嶺神社付近の台地の方が居館を置くのにふさわしいようにも思えるのだが?)


この地は、戦国時代前期、
1530年代以前、大井氏領の最西端にあたり、長窪城の支城として、そして府中(松本方面)との街道筋を抑えていたものと思われる。

なお、『小県郡誌』によれば城址より鉄製の刀柄・鍬などが発掘されたという。
大井氏が武田氏の侵略を受けた後、この城がどう扱われていたのかははっきりしないが、武田氏も長窪城を上田小県地方侵略の拠点にしていたので、同様な理由で重視していたのではないだろうか。
ただし、武田氏が村上氏を追った後は、この城の重要性は減少して行ったものと思われる。

東から見た中山城 東の山ろくに子檀嶺神社がある。
この社殿の裏から道がついている。
子檀嶺神社がある下の台地。切岸のような段差があり、
居館があったように思えるのだが?
東の堀切 東の堀切と竪堀。竪土塁を伴う。 本郭周囲を土塁が覆う。内部に秋葉社の祠があり、
きれいに管理されている。
本郭西の土塁上に上り、西下を見ると・・。
予想どおり豪快な二重堀切が。
本郭西下の堀切から竪堀が山を下る。 二重堀切の西側に井戸跡のような窪みがある。
本郭南下の腰曲輪。 本郭南下の腰曲輪は石垣で補強されている。 本郭北側にある横堀。

根羽城(上田市丸子町小屋坂)

内村川が流れる上田市霊泉寺地区と依田川が流れる谷の間に鳥屋山から丸子方面に半島状に張り出す尾根がある。
この尾根の先端部近くに丸子城があり、尾根を横断するように国道
254号線「小屋坂トンネル」がある。
このトンネルの上、やや東の標高
695mのピークにこの城がある。
麓からの比高は、
130m。別名、小屋城、高松城ともいう。
この半島状の尾根の依田川に面する側は岩の崖であり、東から丸子城、この根羽城、鳥屋城の3城が
1km位の間隔で並ぶ。
この城については『長野県町村誌』は、鳥屋城の支砦で、物見場の跡としている。
しかし、現地を見てみると鳥屋城の物見というのは疑問が残る。
この城は石垣を持つが、その石垣は鳥屋城側に構築されており、堀切も鳥屋城側に多く構築されている。
このため、尾根末端にある丸子城の出城として、真田氏と徳川氏が戦った第一次上田合戦の時に真田氏によって丸子城の背後を守る砦として改修されたと考えられる。
当初は、鳥屋城の出城であったのかもしれないが、丸子城の重さが増すに従って、防衛方面が変更されたと考えるのが妥当であろう。
この城、素直に登れば比較的容易に到達できる。「小屋坂トンネル」南側出口のところに階段があり、ここを上がり、鞍部を目指す。
鞍部には電線を通すような堀切(これは本物の堀切を拡張したものかもしれない。)に出る。
ここから尾根上に上がり、尾根上を東方向に歩けばよいのである。
ところが、同行のウモレンジャー殿と管理人はそうは採らなかった。
この階段は単なるトンネルメンテナンス用のものと勝手に解釈した。それが地獄の始まり。
岩だらけの崖をよじ登るはめになった。
おかげで転倒して爪が割れてしまった。悪戦苦闘の末、やっと尾根に出て城址を目指すが、途中に堀切はあるのだが、なかなか城らしい場所に出ない。
大きな岩を越え、何もなかったらもう帰ろう思った時、目の前に石垣が・・。やっと主郭部到達である。
主郭部といっても、西側に突き出し幅8mほどの腰曲輪が2つあり、さらに北側に1段の腰曲輪があり、虎口がある。
曲輪の切岸が土留め用または修飾用の石垣になっているだけ。
本郭は長さ
25m、幅12m程度で北側を除いて土塁がまわり、東に櫓台がある。
その東に深さ5mの堀切を介して馬出のような曲輪があるだけの城である。
精々、
2030人が入れる程度の砦である。
右の復元想像図は、第一次上田合戦丸子城攻防戦時、真田軍が丸子城の出城として使った時をイメージしたものである。この時がこの城が使われた最後であったと思われる。
西側の腰曲輪の石垣 本郭内部。 本郭東下の堀切。

丸子城(上田市丸子町丸子)
丸子城は実戦を経験した城である。
 しかも落城していない実績を誇る。
 おまけに撃退されたのが戦国の一流ブランド徳川軍である。
 余り有名な城ではないが、信州ではまさにミニ上田城でありミニ戸石城である。

城は丸子町中心部の南西方向、依田川と内村川に挟まれた細い尾根上にある。
 両河川が堀の役目を担っている。
 城のある尾根は南西方向に1km程度続き、尾根伝いに城郭遺構が展開する。
 尾根全体が城郭である。

 この尾根には2つのピークがあり、そこが核としての城となっている。
 通常は2つの城を併せて「丸子城」とは言うが、2つの城を別々に「飯盛城」、「丸子城」と言うこともある。
 すなわち、この城も信州の山城特有の「複合城塞」形式である。

 尾根の先端、北端には安良居神社があり、現在その付近は「丸子公園」になっている。
 かつては館などが置かれていたと思われる。
 ここから遊歩道を通り城に登る。少し登ると尾根の先端部に東屋がある。
 ここが物見台跡と言われる。

飯盛城までは公園から600mあり、そこまでの道は細尾根上を通る。
 道の両側は急斜面である。
 道にまで岩が剥き出しになっており、この尾根が侵食により残った岩盤であることが分かる。

 飯盛城付近に近づくと、斜面が急になる。
ここには郭は3つ程度しかない。(1城と見た場合、飯盛城を丸子城二郭と言っている。)城の西側斜面には石垣がある。
 北端の最高地点が本郭に当たり、そこに展望台が建つ。

 地盤は岩盤であり、岩を削ったような石塁がある。
この展望台も戦国期の城の櫓を模した感じのものである。
ここからの眺望は抜群である。南西側には丸子城のあるピークが望まれる。
 ここから丸子城までは400m程度の距離であるが、岩がごろごろした痩せ尾根をたどる。
 

 尾根の西側の傾斜はこの付近から緩やかになる。
 丸子城にまでの間に竪堀が4条見られ、丸子城近くの尾根には物見台のような盛り上がりがある。
 最後の堀切を越えると丸子城の主郭部である。

その堀切はそのまま竪堀となって斜面を下る。
 丸子城の本郭は2段よりなり、平坦である。
 井戸跡があるが雨水を貯めておく池に過ぎないものと思われる。
 岩盤の上に築いた城であり、水にはかなり苦労したと想像される。

主郭部の裏は岩が剥き出しの崖であり、南西方向の尾根筋にも堀切と竪堀があり、南西方向と遮断される。
 主郭部の西側斜面は勾配が緩く、そこには曲輪が数段作られている。
 曲輪には石がゴロゴロしており切岸は石垣であったと思われる。
依田川に面した東側は崖である。

この城を攻めるとしたら東側からは崖のため不可能である。
 痩せ尾根である北側、南側からも難しい。唯一、傾斜の緩い丸子城西側が可能性がある。
 ところが西側から攻めるにも、まず内村川が立ちはだかる。
 そこを越えて丸子城に迫るにも数段の曲輪があるというありさまである。

 したがって防御の主力を丸子城西側に置き、尾根筋に少数を配置、崖面は非戦闘員の農民が上から岩を転がせば十分に撃退可能といった少数での戦闘ができるという効率性を持つ。
 力攻めをしない場合、この城を落とすには長期包囲戦に持ち込み水を絶つ方法が一番であろう。

尾根先端部の物見台跡。 飯森城に向う細尾根上の道。 岩盤の上に建つ飯森城本郭。 飯森城から見た丸子城。
丸子城本郭北の堀切。 丸子城本郭。 丸子城本郭西の腰曲輪。 丸子城から見た依田川。
丸子城本郭南西側。 丸子城南西側の竪堀。 飯森城西側斜面の石垣。 北西方向、内村川から見た丸子城。

この城の築城時期は不明であるが、この地の土豪、丸子氏が築いたという。
 丸子氏は武田氏が支配していた時代には武田氏に属していたと思われるが、武田氏滅亡後は真田氏の家臣となる。(元々真田氏の与力か?)
 この城の堅固性が遺憾なく発揮されたのは、天正13年の真田対徳川の第1次上田合戦である。

 前日、上田城を攻撃して惨敗した徳川軍は汚名挽回を図って丸子城に攻撃の矛先を転じる。
 丸子城には城主、丸子三右衛門以下1000人が篭っていたというが、ほとんどは避難した領民であり、正規の戦闘員は200人程度ではなかったかと思われる。
 実際、かなり攻め込まれていたようであるが、真田本隊が後詰で出撃して徳川軍を牽制し、徳川軍を撃退している。
 もっともこの時の徳川軍は家康が率いた訳でなく、統制が余り取れていなかった点を割り引く必要はある。

 しかし、この城の要害性が実証された結果でもあることには変わりない。(後詰効果の相互作用によるものも考慮する必要あり。)
 丸子氏はその後、真田本家筋の「海野」姓を貰い、真田氏の重臣となる。