葛尾城(坂城町)

武田信玄を2回にわたって破った信濃最強の戦国の武将、村上義清の城である。
坂城町の北を覆う葛尾山の全域が城域である。

すさまじい比高があり、本郭がある最高箇所の標高が標高816.5m、麓の坂城町中心部の標高が400m、坂城神社の場所でさえ430mなので、比高は400m近い。
普通の山城、3つ分の比高である。

この山は、五里ヶ嶺から南の千曲川方面に張り出した尾根であり、標高800m位の尾根上に南北、長さ600mにわたり、曲輪、堀切が展開する。
東西の斜面は急勾配である。

築城は、天中9年(1392)村上義次によると伝わるが、それ以前から城が存在していたとの説もある。
村上氏ははじめ、千曲川西岸の村上地区に居館を構えており、ちょうどこのころ、本拠を千曲川東岸に移したので、必然的にここが、麓の居館に対する詰めの城となったのであろう。

この城については天文22年村上義清が武田信玄に追われて、この地を去るまで、村上氏の城として使われていたが、武田氏の時代にどうなっていたのかは分からない。

最後に登場するのが、慶長5(1600)年の関ヶ原合戦である。
この城には東軍の海津城の森氏の軍勢が詰める。
そこに徳川軍主力が去ったため、真田軍が攻撃をかけるが、落城させることはできなかったという。
どうもこれがこの城で行なわれた唯一の戦いであったようである。
廃城はその後と思われる。
したがって、今残る遺構もその時点のものであり、どこまでが村上氏時代のものかは分からない。


この城、行くだけでも大変である。
実は林道を使えば城の直近までは行ける。
和平地区から林道が山頂近くまで延びており、和平キャンプ場付近、和平公園の少し手前に「葛尾城」という小さな表示板があり、この道を進めば良いが、すれ違いもできない悪路であり、1時間近くかかるそうである。
終点の駐車場が、城北端の石垣の橋の少し北に位置する。
歩いて登る場合は、坂木神社の裏手に登り口あり、ここを上がる。
なお、駐車場は、坂木神社前に数台置くことができる。
ここを登っていくと途中に近道という標示がある。
しかし、この近道が曲者である。近道を行けば頂上まで1.2km、通常の道を行けば1.6km、400m得な訳であるが、時間は40分ほどで余り、変わらない。
近道は直攀の道なのである。
通常の道は、距離は長いが、比較的緩やかであり、こちらの方が登り下りとも疲労は少ない。
管理人、下りは近道の方が楽じゃないかと思い、利用したのだが、完全に足に来てしまった。
(もっとも、3日間、続けての山城訪問で、足の疲労がピークを迎えていたこともある。)
この通常の道を登ると南に張り出す小さな尾根、飯綱山の尾根にでる。
ここの標高は620m、すでに麓から200m登っている。
周囲は岩がそそり立っており、頂上部は砂礫である。物見が置かれていたのであろう。
この尾根の西側に尾根が見えるが、姫城の跡である。
ここからまた登りとなる。標高750m地点まで130mを登ると平坦地があり、そこが葛尾城の南端の曲輪である。
ここからは尾根上になるので勾配は緩やかになる。
長さ250m、高度差50mほどにわたり、12の曲輪が展開するが、曲輪はあまり明確ではない。
ようやく頂上部の曲輪近くになると、切岸が明確な曲輪が現れ、その上が三郭(V)、主郭部である。
ここに三角点があり、標高は805mである。三郭の広さは15m×12mであり、堀切@を介して、二郭(U)、この二郭は5m程度の幅しかない。
さらに堀切Aを介して本郭であるが、この本郭、二郭の地から10mの高さで聳え立っている。
本郭は長さ30m、幅12mと小さなものであり、東屋がある。
北端が少し盛り上がっている。本郭の北に二重堀切Bがある。堀底までは9mほどある。
さらにその先に巨大な堀切Cがある。
堀底までは本郭側からは15mはあり、親切なことに階段がついている。
これほどまでに深い堀切は、鴨ヶ嶽城の堀切くらいである。

その先は堀切が2本あり、大堀切から50mの位置に深さ10mの岩盤堀切Dがある。
その先は地山となり、2つのピークがあり、100m先に石垣造りの石橋Eがある。
ここが城の搦手門であろうが、この石垣は余り防御性があるようなものではない。飾りのような感じである。
果たして村上氏時代のものであろうか。
ここの先、50mで平場となる。この直ぐ先に林道の駐車場がある。


どこまでが村上氏時代のものかは分からないが、堀切の豪快さ、大きさは信濃最強の武将、村上氏の本城に相応しい規模である。
しかし、単純明快な直線、尾根式の城である。
この城でも篭城できるのは精々、100人程度であろう。
それより、この工事量は膨大なものであるが、毎日人夫が麓から400mの高さを登ってきたのだろうか。

上の写真は南側の上信越自動車道坂城PAから見た葛尾城である。
右側の平坦な部分が城址。左の下の平坦地は支城の姫城。その右の山が白っぽい部分が飯綱山である。

坂木神社裏に登城路がある。 200m登ると飯綱山、主郭部が見えてくる。 ようやく主郭部、三郭から見た本郭。
間に堀切@がある。
二郭から見上げた本郭。高さ10mある。 本郭内部は狭いが眺望は抜群。 本郭北下の堀切Bから見上げる本郭。高さ9m。
二重堀切の北にある深さ15mの大堀切C。 大堀切Cの堀底から見上げた本郭側。 大堀切の先にもいくつかの堀切がある。
このような岩盤堀切Dも。
城址北端にある搦手門?Eの石垣。 本郭から見た川中島方面にあたる千曲市。
遠くに北アルプス鹿島槍ヶ岳が見える。
本郭から見た上田方向。千曲川が流れ、左の山が
和合城。その向こうが上田原である。

村上氏館(坂城町木下)
葛尾城の南山麓、満泉寺一帯が村上氏の居館跡という。
満泉寺は村上氏代々の菩提寺で、応和3年(963)の創建というが、当初は修善寺という天台宗の寺であったが、永正元年(1504)に曹洞宗に改宗、満泉寺と改めたという。
村上氏館であったころはこの場所に寺があったのではない。
天文22年(1553)、村上義清は武田信玄に追われ、越後へと逃れるが、寺はその時、廃寺になったか、勢力が衰えていたようである。
天正10年(1582)、武田氏滅亡し、本能寺の変が起こると川中島一帯は上杉景勝が領有、そして義清の子、景国(国清)が30年振りに海津城代として故郷に復帰する。
その景国が館跡に満泉寺を再建したという。
館跡は満泉寺とその周辺を含めた南北160m、東西160mほどの地域というのでかなり大きな方形館であったらしい。
寺周辺には水路がめぐり、水路の内側には小規模な土塁跡が残っているそうである。
館跡の西北隅に厩屋、館跡西中ほどの土橋を御堀橋、館跡東方に栗田屋敷、館跡南側に下長屋という地名が残る。

寺入口に建つ館跡碑。 満泉寺。村上山という。 寺の西側の水田は窪んだ感じだが、堀か池跡?

村上氏旧館(坂城町村上)
葛尾城を本拠とした村上氏は、はじめは千曲川の対岸、西岸の村上地区に居館を置いた。
その場所が村上小学校の西側500mほどの上平地区の出浦沢川、南岸という。
この場所こそが、村上氏の由来となった地名の地であり、瀬戸内海を制覇したあの村上水軍の発祥の地である。
館のある場所は出浦沢川の扇状地であり、島とか島入という字名である。
その肝心の館跡であるが、民家と果樹園・畑になっていて遺構はない。
段丘のような感じの場所があるが、それが館の切岸であったのかどうか、なんとも言えない。
なお、ここから県道160号線を南西に進み室賀峠を越えると、一族の室賀氏の笹洞城に至る。
また、すぐ北の山が岩井堂山である。おそらく、この山にある岩井堂城が当初は詰めの城だったのであろう。
ちなみに北東方向2.5kmに葛尾城がくっきり見える。

館跡推定値はただの畑、遺構は確認できない。 左の写真の少し南側の方が館跡らしい感じである。 館跡から見た千曲川対岸の葛尾城。

村上氏とは
戦国に信玄を破った武将、村上義清を輩出する村上氏の先祖は、清和源氏頼信流といわれているが、どこまで本当なのかは分からない。
一応、『尊卑分脈』によれば、頼信の孫、顕清が信濃に来て、坂城の千曲川西岸、村上郷に土着し、地名を名乗ったものという。
以後、顕清の子が為国から義清まで家が続く。
村上氏といえば、義清以前に太平記に出てくる村上義光が有名である。
彼は護良親王を守り、身代わりとなって戦死し、その子、義隆も親王を吉野から脱出させることに成功するが、同様に身代りで戦死したという。
地元に残った信貞は、足利尊氏に協力して、建武二年(1335)諏訪氏の支援を得て蜂起した北条時行に呼応する信濃の北条残党を破り、さらに箱根竹の下の合戦に参陣して新田義貞軍を破る戦功を上げ、幕府から「信濃惣大将」の称号を与えられる。
この称号は、信濃における武家の代表者として信濃の土豪からも認知されるようになる。
武田氏の侵攻で村上氏が反抗体制を作れたのも、この地位が役立っていたという。
本来なら村上氏が守護になっても良いのであるが、信濃は広く、千曲川沿岸地域を地盤とする村上氏には守護は務められず、守護は小笠原氏が任ぜられ、双頭体制で信濃を支配する。
この変則的な体制が、信濃統一が妨げられる原因になり、後に武田氏の侵略に対する脆弱さを露呈することになる。
いずれにせよ村上氏の実力は、小笠原氏以上のものであったと言える。
とりあえず、室町時代はじめは小笠原氏とともに、北朝方として北条の残党や南朝勢の制圧に務めた。
しかし、師国、満信の代になると、幕府により守護体制での支配が強化され、小笠原氏の力が強化される。ここにあの小笠原長秀が登場する。
彼の強引なやり方に高梨氏らの国人らが反発、村上氏を中心とした反守護体制が出来、その結果が応永六年(1399)の「大塔合戦」である。
以後、小笠原氏との関係は微妙なものとなり、永享五年(1433)、守護小笠原政康と村上中務大輔が合戦となる。
これが原因で鎌倉公方持氏と管領上杉憲実の対立に発展、「永享の乱」となり、さらに「結城合戦」となる。
この時は小笠原氏も村上氏も幕府方として出陣するが、その後はまた村上氏と小笠原氏の対立構造に戻る。
このころ、村上氏内にも内紛があったようであり、系図に混乱があるという。
応仁2年(1468)、村上政清は村上郷から、千曲川東岸の坂木郷に本拠を移す。ここで葛尾城が明確に村上氏の城となった。
以後、この地で村上氏の勢力拡大が始まる。小県の海野氏を攻めて所領とし、戦国大名化し始める。政清、政国、顕国と続き、いよいよ村上義清の登場である。
義清の代となると、まず、天文10年(1541)、甲斐の武田信虎とともに海野一族を滅ぼし、北信濃四郡の土豪も支配下に置く。
一方、同盟者、武田信虎は駿河に追われ、武田氏は晴信が継ぐ。以後、武田晴信の侵略が始まる。
天文11年(1542)諏訪頼重が滅ぼされ、次は佐久が侵略に晒され、大井氏などが破れ、直接対決となる。
その戦いは、天文17年(1548)、上田原で行われる。義清は北信濃の国人を纏め上げ、板垣信方、甘利虎泰らを討ち取り、晴信も負傷させる勝利を得る。
しかし、村上氏も大きな損害を受ける。この勝利によって、小笠原長時は諏訪に侵攻したが、塩尻峠で惨敗する。
逆襲を受け、同19年、長時は義清を頼って来る。
晴信は、再度、上田原の合戦のリベンジとして戸石城を攻める。
しかし、ここでも義清は武田軍を破り、横田高松をはじめ戦死者千の損害を武田軍に与える。
しかし、戦術家としての能力は晴信と互角の義清であったが、謀略には疎く、戸石城を真田幸隆に乗っ取られる。
さらに、屋代氏などを裏切らせられ、孤立無援となり、天文22年、葛尾城を支えきれず、越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)のもとに逃れる。
これが信玄と謙信による川中島の戦いの直接の原因となる。
残念ながら村上義清には、戦術能力はあったが、戦略能力は欠如し、戦国大名としての基盤が不完全な状態で武田氏の侵略にさらされたのが敗因であったと思われる。
基盤が弱かったため、勝ったとはいえ、上田原や戸石城での損害に対する体力減退も武田氏よりはるかに大きかったのであろう。
川中島の合戦の経緯は省略するが、義清も先鋒として果敢に戦う。
結果として北信濃は武田氏の手に落ち、義清らの旧領回復はできなかった。
義清は、謙信により根知城に所領を得るが、この城で天正元年(1573)死去する。
養子の国清は、謙信から上杉一族の山浦氏の名跡を与えられ、謙信側近の将として活躍する。
面白いことに信濃出身の須田氏、井上氏、芋川氏、島津氏はいずれも上杉氏の有力家臣となっている。
上杉氏は結果として、領土は得なかったが、有能な人材をちゃっかり手に入れてしまったのである。恐るべき戦略と言えるだろう。
国清は上杉氏家中では上杉景勝に次ぐ第二位の軍事力を有していた。
「御館の乱」では景勝に属し、その功により長尾氏の通字である「景」の字を賜って景国を称する。
天正10年織田信長が本能寺で死ぬと、北信濃は上杉氏に制圧され、景国は海津城主として30年目振りの故郷への復帰を果たす。
しかし、屋代秀正の反乱の責任を問われて解任されてしまう。
慶長3年(1598)会津移封に同行し、塩之森城で6500石をもらうが、以後、村上山浦氏がどうなったか分からなくなっている。
有力な説としては、国清の養子、高国が水戸藩に仕えた縁で水戸藩士となったという。
故郷に帰った一族もいるらしいが、詳細は分からないようである。
村上氏自体の正統な継承者が曖昧であるが、その支族である屋代氏、室賀氏は旗本として残ったり、清野氏のように米沢藩士として残ったりしているので、その血縁は現在まで引き継がれていると言えるだろう。

観音坂城(坂城町横尾)

坂城町のしなの鉄道、テクノさかき駅の北にある栗林製作所の国道18号線の反対側の東側の岡にあったという。
この岡は千曲川の河岸段丘であり、北側が堀を兼ねた沢となっている。
右の写真は北側の沢の谷津から見た城址である。切岸が城っぽい感じがする。
南側は谷川が流れ、ここが城域の南端の堀であったようである。
岡の北西隅に小さな神社があり、櫓台のようである。
ほとんど宅地となって地形以外に城を想像させるものはない。

単郭であったのか複郭であったのかも分からない。南北の沢と西側の切岸が城の境界であったようである。
東側には堀があったのではないかと思われる。
おそらく250m四方が城域と推定される。しかし、その痕跡はほとんど確認できない。
地元では天正12年(1584)地元に復帰した上杉景勝家臣で村上義清の子景国が築いたという伝承があるという。
坂城の南は真田昌幸の領土であり、境目の城であったのかもしれない。
別説としては鎌倉時代、薩摩十郎左衛門の館であったともいう。(日本城郭体系の記事参考)

北西の隅部、櫓台跡か 主郭にあたる部分が空き地になっていた。

(おまけ)坂木宿と笄の渡し
坂木宿は北国街道の宿場町、かなりの賑わいがあったそうである。
加賀百万石の前田家の参勤交代時の常宿もこの坂木だったという。
味わい深い建物などが残る。
かつては北国街道筋はやたら狭かった印象があったが、今は電線が地下に埋設したため、町がすっきりした感じである。
この坂城は千曲市と上田市の間にあるが、平成の大合併で吸収合併されずに「坂城町」のままである。
この町は中小企業がやたら多く、しかもかなり高度の技術を持つ企業が多いハイテクの町だという。
昔、運送屋のバイトでよくこの町の企業に配送したが、みずぼらしかったその企業がやたら立派な建物になって、元気だった。
なお、下の写真右の「笄の渡し」は、葛尾城落城の時、落ちる村上義清夫人が、船頭に笄を渡して千曲川の対岸に渡してもらった場所という。

昭和4年建築の現、ふるさと歴史館。 坂木本陣の表門。 笄の渡し。