二場城(青木村当郷)
上田盆地には三重塔が4つあり、そのうち2つが国宝建築、2つが国の重要文化財である。
その国宝の三重塔の1つが青木村にある大法寺にある。
二場城は大法寺の北西約400mの裏山にある。

↑国道143号線、殿戸交差点から見た北東の山にある二場城と黒丸城、2つの城は近くに見えるが、両城間の距離は800mもある。
写真右下に国宝大法寺三重塔がある。

北から南に張り出した尾根末端の標高624mの盛り上がり部が城である。
城には南西下の押出集落から尾根を登る。

城はほぼ単郭であり、40×25mほどの本郭の南側斜面に小曲輪が3つ展開させる。
西に下る尾根に堀切@があるというが、藪化が酷くほとんど埋没していて痕跡程度に過ぎない。

本郭及び帯曲輪の縁部は石積みAで補強される。
北の飯縄山方面につながる尾根筋には堀切が3本ある。
本郭B背後の堀切Cが深さ3.5m、幅8mほどあり立派であるが、それ以外D、Eは申し訳程度の規模に過ぎない。

@尾根を登って行くと小さな堀切があるが、気付かない。 A主郭部付近の曲輪の縁は石で土留めされている。 B本郭内部は平坦、東側を低い土塁が巡る。
C本郭の北側の堀切。この城で一番明確な遺構である。 DCから北に延びる尾根にある小さな堀切。 E北に延びる尾根3本目の堀切、切通の道に利用されている。

浅倉但馬守の城という伝承があるが、詳細は不明である。
0.8km北に位置する黒丸城の出城であろう。

黒丸城(青木村当郷)
2019年11月23日、勤労感謝の日に「らんまる殿」の案内で訪問した4城目、最後の城、ごつい城4つ目となると疲労で足ががくがくになり限界が近くなる。
上田から松本に向かう国道143号線の北にやたら目立つ山、子檀峰(こまゆみ)岳(1223)がある。
↓(この山も城である。)
その登山口まで阿鳥川沿いに道路が延びる。この道の東に国宝の大法寺三重塔がある。

道の途中に阿鳥川神社の東、飯縄山(932)から西に延びる尾根中腹にこの城がある。
本郭には扇が開くように枝が延びた大きな木があり、国道143号沿いからこの木が良く見える。
国土地理院の地図では標高738mの三角点(36.3897、138.1449)が標示される。

↑本郭から二場城の冒頭の写真の撮影場所を逆に撮影したもの。

阿鳥川神社から東に延びる道を行き、途中から尾根に入り尾根を登って行くと城址に至る。
明瞭な道はすでに分かりにくくなっている。
城は飯縄山側の細尾根部に本郭Dを置き、西側に曲輪を展開させる。末端部は扇状@に広がる。
上から見れば「しゃもじ形」をしている。
尾根を登って行くと末端部の扇状に広がった場所@に出る。
この部分は弧状の曲輪が数mの段差を置いていくつも重なっているが、かなり不明瞭であるが、虎口等も確認できる。
松くい虫駆除のためか、松の木が伐採され裁断されている。

藪も払われているが枝で歩きにくい。
ここを登って行くと7〜9m四方の曲輪Aが3mほどの段差をおいて5つ重なる。
この付近から遺構にメリハリが出てくる。いよいよ主郭部である。

東端に堀切があり、高さ約7mの鋭い切岸Bが聳える。
ここを登ると二郭Cである。32m×11mの広さがあり、曲輪の南北に桜が植えられている。
この桜は明治時代に地元が植え、春には地元民が満開の桜の下で花見を楽しんだという。
しかし、今では満開になっても既にここに来る人はどれほどいるのだろうか?
道の荒れ具合から想像するとほとんどいないようである。
悲しいことである。
しかし、草は少ないのである程度の草刈りはされているようである。

@城域西側末端部には扇状に曲輪群が重なる。 A@を過ぎると小曲輪が重なる。 BAの曲輪群の最後に二郭の高さ7mの鋭い切岸が立ち塞がる。

この曲輪の北面には竪堀が数本下っているが、斜面の藪が酷く確認できない。
二郭の東端にまた高さ約7mの鋭い切岸が聳える。

北面にはV字状の竪堀が下るが藪で分からない。
切岸を登ると本郭Dである。
40m×8mの広さがあり、2段になっており、さらに東端に土壇がある。

C二郭は桜が両側に植えられている。 D細長い本郭、東端に土壇がある。 E本郭東下に定番の怖い堀切が・・どうやって降りる?

この曲輪の西端、切岸脇に国道143号線沿いから見える扇が開くように枝が延びた大きな木が聳える。
南下には帯曲輪がある。
東端の土壇に立ち、下を見るとおなじみの深さ13mほどもある谷のような大堀切Eがある。
ここを降りるのは容易ではない。

さらに東側、飯縄山に続く尾根に3本の堀切Fが存在する。
その先には林道があるが通行止めになっている。

Fさらに北側には2本の堀切が。 本郭西端から見た西側松本方面
左の木が南下から見える扇形に枝が広がる巨木

このような見事な遺構を残す黒丸城であるが歴史は今一つ明らかではない。
小県郡誌には朝倉但馬守の城と書かれる。戦国時代前期はこの付近は村上氏の勢力下であるので村上氏の家臣であったと思われる。
東の山にある飯縄城が詰めの城であったと思われる。
この城からは西の松本方面が良く見える。このため、西方を監視する城ではなかったかと推定される。
天文22年(1553)にはこの地は武田氏が制圧するが誰が城主であったかは不明である。
しかし、遺構はこの付近の城で最高レベルである。
それ相応に重要視されていたものと思われる。
(宮坂武男「信州の山城と館」、「らんまる攻城戦記」を参考にした。)

西城と寺山砦(青木村村松)
「らんまる殿」の案内で訪問した城である。
上田市から松本方面に通じる国道143号線を西進し、青木村に入ると北にやたら目立つ山「子檀嶺岳」(こまゆみだけ)1223mが聳える。
この山は信仰の山であるとともにこの山の山頂部も城址である。
おそらく、緊急時の避難城でもあろう。

その登山道がある登山口にあたる南の山麓部、村松地区の西側の尾根に西城がある。
↓は村松地区から見た北西に見える西城のある山である。

城は湯坂山から青木中学校方面に延びる尾根筋にあたる。
子檀嶺岳からは南東約1.5qである。
位置は36.3789、138.1186、標高は796m、村松地区の西側の尾根に位置するが、道はない。

青木中学校北から尾根を登って行くか、尾根東下の獣防止柵間の入り口から入り、尾根上に出て北に向かうと行くことができる。
なお、この尾根筋、巨岩が多く、それを乗り越えていかなければならないが、この巨岩の上がそのまま曲輪としても使えそうである。
また、尾根上には出城である「寺山砦」がある。

尾根を登っていくとピーク部があり、そこが主郭部である。途中に曲輪があるようであるが、不明確である。
本郭Aは33×15mの広さ、西側に一段低く約10m四方の曲輪@がある。
主郭内部は平坦であり、かなり削平度は高い。
注目すべきは主郭周囲が全て石垣で補強されていることである。

↑は本郭東側の土留めの石積である。
東に尾根が延び、曲輪Bが展開する。

@本郭南の二郭から見た本郭の切岸 A本郭内部、削平度は高い。北側に低い土壇がある。 B本郭東下の腰曲輪
C本郭東下斜面を竪堀と竪土塁が下る。 D本郭北の大堀切から切岸を見上げる。
石が多く、切岸は石で葺かれていたと思われる。
EDを逆に本郭から見下ろす。おっかねえ!
F北側尾根には堀切が連続する。 G北の尾根の曲輪には天水溜らしいものがある。 H北に堀切が連続するが、鋭い切岸を持つ場所もある。

主郭の北側に巨大な堀切D、Eがあり、東西に竪堀Cが豪快に下る。
堀切は幅約25m、深さは約10mある。
主郭側の切岸は石が沢山見られ、当時は切岸一面が石垣で覆われていたものと思われる。
この堀切の北側にはさらに3本の堀切Fと曲輪があり、曲輪には井戸(天水溜め?)Gも見られる。
そこを過ぎると深さ約5mの堀切H、さらに深さ1mほどの小堀切を経て、鞍部となる。
鞍部も堀切状になり東に下る道がある。

寺山砦は南の尾根筋にある。
↓の写真は東の村松地区から見た砦である。
尾根を右側、北に進んでいくと西城となる。
斜面に木がない部分が堀切が竪堀になる部分に相当する。

西城主郭からは南に約300mの尾根筋の標高719mのピーク(36.3760、138.1210)に不整形の14m四方ほどの曲輪Aがある。
その南北下に堀切@、Cを置く、南側の堀切Cは2重堀切になっているが、風化が進んでいる。
さらにピークの西側には小曲輪Bが確認できる。
主郭は平坦にはなっているが整地はそれほどされていない。

@北側の堀切
A主郭であるが整地は不十分な感じである。
B主郭から西に延びる尾根に曲輪が展開する。 C主郭南下の2重堀切。

小さな砦であり、西城に通じる尾根筋を抑える出城である。
城主等は分からない。
(宮坂武夫「信濃の山城と館」を参考)

東城(青木村村松)
ここも「らんまる殿」の案内で訪問した城である。
村松地区から子檀嶺岳方面に延びる林道が通る谷筋の西城の反対側、谷筋の東側の尾根にある。
西城からは北東約300mに位置する。
↓は南側の村松地区から見た城のある山、背後の山はこの地のシンボル「子檀嶺岳(こまゆみだけ)」。

城へは林道が大きくカーブする尾根の直下から尾根に登り、尾根上を南側に下ると到達する。
位置は36.3818、138.1208、標高は785mである。
この尾根筋、城の北側には岩が多く、何か所か曲輪のような感じの場所があるが、城の一部であるのかどうか判断できない。

確実に城遺構と判断できる部分は尾根筋、約70mの部分に過ぎない。
基本的に単郭で小規模なものである。

@背後の2重堀切の外側の堀切。岩がごろごろ。 A主郭(右)北下の岩盤堀切。石で葺かれていたのであろう。 B主郭内部、北側には土壇がある。

しかし、規模は小さいものの、遺構にはメリハリがあり、主郭の北側に岩盤を断ち切った岩だらけの2重堀切@、Aがある。
特に主郭側の堀切Aは深さは5mほどであるが、石が切岸を覆い見事なものである。
主郭Bは27×11mの広さであり、堀切に面する北側は一段高くなる。

C主郭の南下は小さな曲輪が連続するが、不明確。 D西下の腰曲輪は石積が崩れた石がゴロゴロ。

西下に帯曲輪Dがあり、南に下る尾根筋に小曲輪Cがある。
主郭の周囲の切岸は石がゴロゴロしており、当時の主郭の姿は周囲は全面石垣であったものと思われる。
規模と位置からして西城の支城であろう。(宮坂武夫「信濃の山城と館」を参考)

村松殿館(青木村村松)
村松殿とはNHK大河ドラマで木村佳乃が演じていた人物である。
戦国無双にも弟真田幸村を助ける優しい姉として登場する。めちゃかわいいキャラで描かれる。
さすが戦国物の定番、真田一族の一員のなせる業である。
Wikipedia等を参考にすると、『生没は永禄8年(1565) - 寛永7年6月20日(1630.7.29)、真田昌幸の長女で小山田茂誠の正室。子が小山田之知。 母は山手殿(遠山氏とも)。
名は於国。弟が信幸(信之)・信繁(幸村)。
天正10年(1582)以前に甲斐国都留郡の国衆小山田氏の一門の小山田有誠の子・茂誠に嫁いだ。天正10年の武田氏滅亡時に小山田氏宗家も滅亡するが、この婚姻が縁で茂誠は後に昌幸の家臣となり、信之の家老となる。
茂誠が昌幸からこの地をを領地として与えられ、居住したため地名を取り、村松殿と呼ばれたという。

館跡、特段、遺構はなにもない。 館跡前にある宝篋印塔、館とは関係はない。

なお、『加沢記』(江戸初期に沼田藩右筆の加沢平次左衛門が記した覚書)の記述によると、昌幸が織田信長に臣従した際の人質として安土城に送られ、本能寺の変直後に行方不明となるが2年後に伊勢国桑名で保護されたという。
村松殿が人質として安土へ送られたとする伝承について、丸島和洋は遠隔地での国衆(国人領主)の人質は現地で預かることが基本であり、極めて疑わしいとしている。
信繁が大坂冬の陣が終わった後の慶長20年(1615)1月24日に彼女宛てに書いた手紙が残されている。』

なお、余談であるが、管理人の中学時代の部活担当の先生が小山田先生、住んでいたのは長野市松代、この方の末裔である。
その屋敷跡が青木村村松にある。
目立った遺構はないが、宝篋印塔が残されている。
この宝筐印塔、村松殿館とは時代が違い、250年ほど遡る南北朝時代のものという。