跡部城と安保氏館(上田市下室賀)36.4047、138.1606
村上一族の室賀氏の拠点、笹洞城がある小盆地への入口を守る城である。
室賀氏と言えば「真田丸」で真田信之に対して「黙れ、こわっぱ!」と怒鳴っていたあの親父である。

この室賀氏、村上一族であるが武田の侵略を受けると裏切って、主家を越後に追いやり、武田家滅亡後は徳川氏につくが、真田氏に駆逐される。
しかし、徳川さん、一度、味方になってやられても、その恩にはちゃんと報いる。
ここが徳川家康さんの偉いところである。
室賀氏は江戸時代、旗本になって存続する。
結果オーライではあるが、ラッキーな一族である。

この城に行ったのはいつもの通り、偶然、通りかかったからに過ぎない。
麓でちょっと停車し、地図を確認したら、すぐ横の山が城址だったのだ。
で、「ちょいと」と、お気軽な気持ちで登る。
ただそれだけの経緯である。

しかし、信州の山城、小さい城でも比高が100mくらいはある。
甘く見ると大変。
旧室賀小学校裏にある虚空蔵堂から登って行くと城址となる。
案の定、苦労した。
比高もあるが、それ以上に大変なのが、落葉、乾燥続きでまるで雪の上だ。滑る。
さらに地面が風化した花崗岩が粒状になった砂状、これも滑る。
このため、2、3度、滑って転ぶ。

↑南下、御屋敷集落から見た鉄塔が突き刺さる城址。
ところが、肝心の遺構、苦労が報われるレベルではない!セコイ!
原因は先端部に鉄塔が突き刺さっていることと、先に書いたように風化した花崗岩の砂粒で堀がかなり埋まっていること。
そして当然ながら管理された山ではなく倒木や灌木が多く、遺構が分かりにくいのである。

鉄塔付近に遺構があったか分からないが、鉄塔を過ぎたあたりから遺構が展開する。
まず、二郭@、曲輪があるのは分かるが灌木、倒木でよく分からない。18m×7mの広さがある。
その後ろに掘切Aがある。幅は9mと大きいが、これも微妙。

本郭Bも灌木だらけ、18m×8mの広さ。
ここが城内最高箇所、標高は626m、比高は111mである。
その北側の2本の堀切Cは肉眼では明瞭に確認できるが、写真を撮れば「あれぇ」って感じである。

@二郭なのだが・・・? A二郭、本郭間の堀切なのだが?
B本郭、ここは少しスッキリしている。 C本郭北下の堀切なのだが、埋没が進んでいる。

その北側に尾根が60mほど続き、堀切のようなものがあり、山に続いて行く。
城としては物見程度のものである。
室賀氏の物見と伝えられるが、詳細はよく分からない。

南の麓に安保氏館(36.4013、138.1666)がある。
麓の公民館東側の山裾が館跡という。標高は567m。

安保氏館があったという丘

安保氏は武蔵7党の一人丹氏の一族で、元弘3年(1333)、室賀の地頭職を得ている。
おそらく、本人が来たのではなく、代官が派遣されていたと思われる。
しかし、村上氏、室賀氏が既にこの付近にいたはずであり、安保氏がどの程度支配力を持っていたか不明である。
安保氏が戦国時代、どうなったのか分からない。
いつの間にか、歴史から消えてしまったようだ。

現在、麓には甲斐の土屋氏の子孫と伝わる家が15軒あると言う。
戦国時代、室賀氏が武田氏に従った後、監視役として入った一族であろうか。
(宮坂武男/信濃の山城と館3 を参考。)


須々貴城(上田市小泉)
戦国の名将武田信玄は幾多の合戦をしたが、ほとんど敗戦はなかったというが、その数少ない敗戦の1つが村上義清と戦った天文17年(1548)2月14日(新暦3月23日)「上田原合戦」である。
戦国時代のほとんどの合戦は城攻めであるが、この合戦は比較的珍しい軍勢同士が平地で激突した「野戦」である。
ここで武田氏は重臣の板垣信方、甘利虎泰が戦死し、信玄(当時は晴信)自身も負傷したという。
この合戦において村上義清が本陣を置いた場所がこの須々貴城という。

「上田原合戦」はこの城の東の真下で行われている。
しかし、麓からは比高が150mもある。
こんな山の上にいて指揮はできない。
命令を下しても伝令が届くに時間がかかり過ぎる。
おそらく、睨みあい時にはここに陣所は置いたが、合戦時は村上義清は山を下って麓で采配した、あるいは自ら突撃したのではないだろうか?

東下から見た城址。

村上義清、武田信玄、上杉謙信などと比べれば知名度は劣るが、2年後、砥石城で再度武田勢を破る実績を持つ武将である。
軍事能力はかなり高かった武将である。
しかし、調略能力が武田信玄に比べると劣ったようであり、調略戦で敗れてしまう。
←主郭から見た東下の「上田原合戦」の古戦場
城には麓の山口地区から須々貴山神社を目指して登るのであるが、登り口が分かりにくいが、赤い鳥居があるので、その前の獣防止柵を開けて入る。
そして参道の石段を上がって行く。
しかし、この石段が曲者である。何と507段もある。
比高は90mもある。
きついとは聞いていたがまさにその通り、地獄の階段である。

城址への登り道入口である鳥居。 507段の地獄の参道兼登城路

何度か休んでようやく東屋のある平坦地@に到着。
無休で登れたら見上げたものである。
なお、石段を登らないルートもある。

この平坦地@、標高が532m、25×30mほどの広さを持つ。
ここの北側、標高543m、比高11mに須々貴山神社Aが建つ。
周囲が段々になっているので曲輪だろう。
北東下には曲輪と考えられる平坦地がいくつかある。

@507段の石段を上がった先の平坦地。 A平坦地の東側に一段高く須々貴山神社の社が建つ。 Bここが主郭部頂上なのだが、狭い!
C主郭部南側には堀切が3本ある。 D主郭部北東側尾根は堀切で遮断する。

城の最高箇所はここではなく、東屋の建つ平坦地から比高40m、水平距離で南に約90mの標高574mのピークである。
ピークBには御岳神社の祠があるが広さは20×9mほどに過ぎなく、南北に若干の曲輪がある程度である。
物見の場所程度のものである。
南の尾根には浅い堀切Cが3本ある。
この尾根を行くと詰めの城と考えられる小泉上の城方面に通じる。
主郭部の北東側尾根も堀切Dで遮断する。

城は村上義清に従ったこの地の土豪、小泉氏の城砦群の1つであり、麓に住む家臣やその家族、住人が一時的に避難するための城が本来の目的であろう。
東屋の建つ平坦地や須々貴山神社周囲の平坦地が収容場所となるが、収容できる人員は多くても100人程度のものであろう。
(宮坂武夫「信濃の山城と館」を参考)