女神岳城(上田市野倉)
上田の南が信州の鎌倉と言われる塩田地区、その西に名湯「別所温泉」がある。
その別所温泉の南にピラミッド状の目立つ山、女神岳が聳える。


北東側、太郎山城塞群の飯縄城から見た女神岳。右下が別所温泉。

北西下から見た城址。左が主郭部、中央右が神社の地、右端が物見の南峯

もっともピラミッド状に見えるのは上田市中心部方面から見た山容であり、青木村方面から見ると頂上部が平たい普通の山にしか見えない。
この山にあるのが女神岳城(女神山城)である。

名前と形からして非常に惹かれる。
しかも山上に石垣の城がある。魅力的である。
しかし、頂上までは比高200mを一直線に登る地獄の道、いつかは行きたいとは思いつつ、ついぞ登るのを躊躇していた。
2020年11月5日、遂に登頂を決行した。

登り口は別所温泉の中を通り、南の野倉地区に入り、山の南側に回り込んだ場所から登る。
登り口には車を置くスペースもあり、標識もある。
この登頂路、地図から計算してみたが、平均斜度34度弱、直線距離360mである。
この斜度、茨城県常陸太田市の白羽要害、茨城県常陸大宮市の下檜澤向館も同程度であるが、比高はそれぞれ130m、110mであるのでそれらよりはるかにきつい。
案の定、そこは地獄の道である。

山上の神社への参道が登城路。地獄の入口! 頂上部には急傾斜の一直線の道が続く。

登れど登れど頂上が見えてこない。
ここは女神どころか魔女が住む山である。

ヘベレケになった頃、ようやく山頂部Dに着く。
そこは幅5mほどしかない平坦地。
女神山天宮神と城山大神、2つの石の祠がある。
東西の斜面は急傾斜、曲輪等はない。

@ ここが主郭、約16m四方の広さ A主郭の切岸は石積である。 B東下に下る石積の虎口。
C南の山頂側には堀切が3本、連続する。 D参道を登った先の山頂部は狭い。石の祠がある。 E南端部の南峯は南方向の物見台だろう。

これだけか?
南に行ってみると堀切のような場所があり、物見台のような場所Eがある。
でも石垣ないじゃん!

主郭は祠のある標高932mの場所より低い北側の端、5mほど低く、尾根筋が若干広くなった標高927mの場所36.3401、138.1633にあるのだ。
この南北に長い山上部、約300mの長さがあるが、主郭部は北端部の約100m、さらに北東に下る尾根筋約100mに渡る。
主要部が少し標高の低い北端部にあるため、北の上田方面を見る城である。

山上の平坦地を北に少し下って行くと24×7mの細長い平坦地があり、そこから長さ約50mに渡り定番の堀切3本Cがあり、最後の堀切は深さが約4m、いずれの堀切も斜面部は竪堀になる。
ようやく城主要部である。
その先に堀切側に土塁を持つ12×16mの広さの曲輪、そしてその北側に一段高く主郭@がある。
16m四方ほどの広さであり、削平度は良い。

ここからは(木がなければ)上田盆地が一望である。
切岸Aは石垣で補強されている。
東下を見ると帯曲輪があり、石垣で囲まれた虎口Bがある。

北東側の尾根筋には堀切が3本あり、ここが大手筋のようである。
ここを下ると北の山麓にある山田地区、あるいは東の手塚地区になるが、その付近に平時の居館があったのではないかと思われる。

見学後、下山であるが、登るよりも怖い。
岩が多く落ち葉もある。
滑ったら滑落して大けがをする。ゆっくりゆっくり慎重に下りる。
しかも、下山時の方が膝や足首に衝撃が来る。
緊張度は下りの方が高い。
結局、見学含め、所要時間往復2.5時間。

おそらく戦国時代には築城されていたようであるが、歴史に登場するのは慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の後である。
この時、上田に入った真田信之に対してこの地の土豪、斉藤源左衛門が一揆を起こし、ここに立て籠もったというが、結末がどうなったのか?
また、この一揆がどのようなものであったかは分からないという。

(宮坂武夫「信濃の山城と館」を参考)