金剛寺城塞集落(上田市住吉)
伊勢山地区同様、ここも城塞集落である。 場所は上信越自動車「上田菅平IC」の真北である。 戸石城の西側の谷間に当たる。 南北約1qの矢出沢川の流れる幅約200mの谷間である。 南端は高土手@の位置、北端は集落北側、標高はそれぞれ569m、627m、この間、比高約50mの勾配を持つ扇状地状の谷間である。 この地区を北東に進むと金剛寺峠を越え、傍陽地区に出、さらに松代方面に通じる。 地区北端の洞源寺付近から見た金剛寺地区、左手の山に戸石城ある。 |
なお、地名の金剛寺であるが、金剛寺という名の寺院はない。
玉蔵寺Fという寺があったというが、この寺のことではないかと思う。
戸石城は東西に城塞集落を持っており、東西両側から城にアクセスできていたようである。
伊勢山地区と金剛寺地区のどちらがメインであったかは分からない。
両者とも真田氏支配時代も城代がいたらしいのである。
しかし、歴史はこちらの金剛寺地区の方が古いようであり、南北朝時代の宝篋印塔があったり、室町時代の五輪塔が残っていたりする。
おそらく海野氏一族に関わっていたと思われる。
その海野氏は村上氏、武田氏、諏訪氏に攻められ天文10年(1541)の「海野平の戦い」で没落、
その後、この地は村上氏が支配したと思われ、金剛寺地区を城塞化し整備し、城代屋敷が置かれたたようである。
この地にいた海野一族は小宮山氏であるが、彼も没落し、彼の詰めの城、米山城も村上氏の城となり、その後、北側に砥石城、本城、枡形城を整備したようである。
地区内に土塁跡C、E等の表示があるが、宅地化等で土塁Cは痕跡程度しか確認できず、城代屋敷の場所Dにも明確な遺構は見られない。
地区内にも土塁跡があることから、地区内はいくつかに区画されていたようである
村上氏時代は村上氏の本拠、坂城とは太郎山の北を通り、東太郎山の南側を通るルートで連絡していたか、花古屋城付近から現在の上信越自動車のルートを通っていたかのいずれかのようであるが、詳細は不明である。
金剛寺地区の東は戸石城であるが、西の山には西山城塞群がある。
さらに西山城塞群から尾根を登ると柏山城上の城があり、ここから尾根を南に下ると柏山城下の城がある。
さらに地区の北側、洞源寺の北の山に白山城があり、3方の山に城を配置する厳重な造りである。
一乗谷の小型版とも言われ類似た構造である。
(宮坂武男「信濃の山城と館3」、砥石米山城保存会「金剛寺歴史散策ガイドマップ」を参考)
@城塞集落最南端の高土手跡、ここに木戸があったという。 | A見張番所跡、米山城の南西末端に当たる。 | B義清水、集落内に残る井戸、もちろん「村上義清」にちなむ。 |
C土塁跡、集落の中央部にある。 | Dこの付近に城代屋敷があったらしい。 | E集落最東端を仕切っていた土塁がここらしい。 |
G玉蔵廃寺の薬師堂跡、ここが一番城郭らしい。 |
(地図は国土地理院地図を切り抜いて加工したもの)
西山城塞群(上田市住吉)
城塞群という名前がついており、3つの城からなるが、3つのピーク部の城郭遺構に城の名がついているだけに過ぎず、各曲輪を城と呼んでいるだけである。
実質、1つの城である。
3城合わせて全長は約200mの尾根城である。
↑金剛寺集落を覆う西側の山が西山城塞群である。
金剛寺集落のすぐ西の尾根が城である。比高は金剛寺地区から40〜60mである。
金剛寺地区西側に登る道があり、尾根に出たら北に向かえばよい。
なお、尾根筋には一応、道はあるのだが、道は不鮮明である。
南から西山城(標高644.8m、36.4220,138.2838)636mの鞍部を経て、中の城(648.7m、36.4226、138.2834)さらに641.7mの鞍部を経て花見(けみ)城(657.4m、36.4232、138.2831)が並び、654mの鞍部を経て、柏山城上の城に通じる。
3つのピーク部は上部が平坦化されているだけで、特段、遺構はない。
物見台程度のものに過ぎない。
その前後に小曲輪があるだけである。
@西山城の主郭部、だたの尾根上のピークに過ぎない。 | A西山城の主郭に立つ社 | B中の城の主郭、ここも尾根上のピークに過ぎない。 |
C中の城北下の平坦地、ここが城塞群の中心部だろう。 | D Cの西下に曲輪が展開する。 | E 北端部、花見城の主郭、若干広い平坦地に過ぎない。 |
城塞群の中心部と思われる場所が中の城、北下の標高641.7mの鞍部にある約15m四方の平坦地と西側に展開する2段ほどの段々である。
花見城があるに北側には堀切がある。ここには小屋は立てられそうである。堀切はここだけである。
総じて極めて簡素な城であり、古い印象を与える。村上氏時代のものより古い感じである。
戦闘には耐えられるような感じはしない。
柏山城から下る尾根筋の道、末端の関所のようなものである。
または、住民の柏山城方面への退避ルートの援護施設のようなものであろう。
(宮坂武男「信濃の山城と館8」を参考)
白山城(上田市住吉、36.4273、138.2826)
金剛寺地区の北端に洞源寺がある。
ここの標高は632m、その北側の尾根上に白山城がある。
標高は680〜700mにかけてである。
城のある尾根を西に登って行くと、柏山城上の城から北に延びる尾根に合流する。
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名前の白山(しらやま)は城山から来ていると思われ、地元にも城伝承が存在するという。 で、期待して洞源寺付近から登ったのであるが・・・斜面は急である。 道はなく、木にしがみついての斜面登攀である。 地質が花崗岩が風化した粗い砂粒の斜面なので、滑って登りにくい。 これは結構な防御力になりそう・・・。 で、何とか尾根上に出た。広い!幅約8mあり、平坦である。 南東方向に尾根は少しづつ高度を下げる。 金剛寺地区から見た城址、地区の北側を覆う尾根状の山である。 |
尾根上には平場や微妙な段差があるが、それだけ。
尾根上を行ったり来たりして探したが、肝心のあってしかるべき堀切がないのである!
埋まった痕跡もない。斜面部に竪堀の痕跡も確認できない。
@尾根上は広く、緩く傾斜する。段々の部分もあるが・・ | A堀っぽい場所もあるが、道跡らしい。堀切はない! |
しかし、周囲の斜面の勾配の急さと比べてこの尾根上の平坦さはいかにも人工的に削平した感じではある。
また、この場所、位置的にも金剛寺地区を北から見下ろす城があっても不思議ではない位置である。いい立地なのである。
しかし、それだけ。
↑B 麓の洞源寺、1332年海野氏22代兵庫頭幸則の開基。 →C洞源寺に残る貞治2年(1363)の名が入った宝筐院塔。 |
現地を見た限り、とても城と言える感じではない。
宮坂武男氏は「城があってもよいだろうと推定している。」と微妙な感想を述べている。
立地の面から、ということだろう。
氏も悩んだようである。俺も同じだ。
果たして、ここは城なのか?
(宮坂武男「信濃の山城と館8」を参考)