小泉上の城と下の城(上田市小泉)
上田市西部、青木村との境付近、松本方面に通じる国道143号線沿いに小泉大日堂がある。
その南斜面が小泉地区である。ここにこの地の土豪、小泉氏の居館があり、そこに北の城山から尾根が延びる。この山の頂上付近に鉄塔が建っている。
そこが小泉上の城であり、麓近い場所に下の城がある。
小泉上の城
その山頂近くの場所(36.4050、138.1815)が小泉上の城である。
標高は914m。
そこまでは上田六中からは水平距離で北西約2q、比高なら約450mもある。
麓からまともに登ったらまともな道がないので数時間ほどかかるとか?
でも、鉄塔が建っているので保守のための道がある。
それを利用すれば近くまで行ける・・・もちろん、林道なので軽トラのような車でないと走行は無理。
そこを「らんまる殿」の「Jニー」で走破。
しかし、2019年の台風19号の豪雨で道は倒木等でぐちゃぐちゃになった。
倒木は片づけられていたが、路面が沢になり凸凹、さすがのJニーでも悪戦苦闘。
何とか林道の終点まで到達。そこの標高は815m。
城までの比高は約100m。大した比高ではないが、けっこうきつい。
おりから11月上旬、道には落ち葉がつもり、土質も岩が風化した砂、急斜面は滑って怖い。
何とか城址北の標高890mの尾根鞍部に出て、尾根を南に登って行くと鉄塔に到達。
なお、尾根を北に行くと、この山系の最高箇所、標高933mの「城山」に着く。
名前は「城山」であるが、そこには城遺構はない。
物見くらいには使われていたようだが、麓から見上げれば、一段低い城址と城山は重なって見えるので、いつしか、一番高い場所に城山という名前が付けられたのではないだろうか?
@鉄塔北側の堀切、実質的にここが城の北端。 | A二重堀切は鉄塔が突き刺さり半分、湮滅状態。 |
B本郭から見た背後、北側のの堀切群。 | C本郭は10m四方ほどの小さいもの。 北側が土壇になっている。 |
話は元に戻し、鞍部から尾根を南に登って行くと、鉄塔までの間に堀切2本が確認できる。
鉄塔の手前の堀切@は深さ4mほど。
そこを乗り越えると鉄塔であるが、2重堀切Aを埋めて建てられている。
堀はかろうじて形状が分かる程度に過ぎない。
竪堀が豪快に下っているはずであるが、斜面部は藪のため、確認できず。
鉄塔南側にピークがあり、その南側の堀切3本Bを越えると、本郭である。
主郭北側の堀切は深さ約4m。
都合、山に続く主郭北側には堀切が大小7本もあることになる。
とても北側に回り込まれて背後から攻撃を受けるとは思えないが、異常なくらいの心配症、戦国時代の緊迫感を表している。
本郭Cと言っても10m四方程度の小さなもの。
堀切側が土壇になっており、小さな石の祠が祀られる。南側は下りになり、小曲輪が2つと小さな堀切がある程度である。
全長は約100mの小さな尾根式城郭であり、非常時に避難するための城である。
もちろん、一時的な避難しかできるものではない。
なお、林道終点から城まで登る途中に比較的広く、緩く傾斜したスペースがある。
ここは住民の避難スペースのような気がする。
小泉下の城36.3988、138.1846
「上の城」という名前なので小泉大日堂方面に下る尾根の途中に「下の城」もある。
標高528mにある小泉大日堂の南西側の墓地の裏に城山から延びる尾根上に出て、尾根を北に登ると、大日堂の北約250m地点、標高624mの場所に下の城がある。
南を流れる浦野川からは比高約180mと結構高い。大日堂から南に展開する斜面が日向集落であり、城主の小泉氏の居館が集落内にあった。
城のある尾根であるが、岩が風化した粗い砂粒が多く、登って行くと滑るので難儀である。
@下の城の石で補強された虎口 |
城は明確な曲輪2つからなる小規模なものであり、20m四方の曲輪の北に15m四方ほどの曲輪があるだけである。
下の曲輪は石で土留め@されている。さらにこの下にも平坦地はあるが、そこが曲輪か不明確である。
本来は尾根の下側にも堀切があってもよいと思うが、存在しない。
尾根が急勾配であり、滑り易いので堀代わりになるのであろう。
上の曲輪には「雷様」の祠Aが建つ。
その北側には堀跡Bがある。どうやら土塁を崩して埋められているらしい。
本来は雷様の祠の場所は土塁または土壇があったようである。
A雷様の祠が建つ場所には本郭の土壇があったらしい。 | B本郭の北には堀の痕跡がある。 | CBの堀跡北から上の城に向かう尾根は広い |
堀跡の北側は上の城までの登る尾根になるが、比較的広い尾根Cである。
この構造から、緊急時の上の城方面への退避道が広い尾根であり、追手に補足される危険性があるため、この城で一旦、敵を食い止め、上の城方面に城主家族や住民を安全に退避させることを目的とした施設ではなかったかと思う。
なお、ここから上の城までは比高約290m、水平距離で約600mもある。
果たして、領主、住民がここに避難した事実は果たしてあったのだろうか?
この地の土豪、小泉氏の城である。鎌倉時代この付近に小泉荘があり、泉氏が管理していたが、延暦3年(1213)勢力を失うが、泉氏の系統の者が小泉二郎を名乗ってこの地を支配するようになる。
戦国時代は村上氏に属し上田原合戦で武田氏と戦うが、村上氏が没落すると武田氏に従い、武田氏滅亡後は浪人したったという。
(宮坂武夫「信濃の山城と館」を参考)
ついでに 小泉大日堂
高仙寺という真言宗の寺院の建物の1つ。上田市指定文化財。
大同元年(806)の創建といわれているが、天文11年(1542)に茅葺に改めたと伝えられる。
同16年(1547)、村上氏と武田氏の間で戦われた上田原の戦火で高仙寺の大半の堂宇は焼失したが大日堂だけは焼け残ったという。
大日堂は、大規模な五間堂で、屋根は宝形造、 細部の様式的特徴から室町時代後期の建設と考えられており、県内に残る中世の大規模仏堂の遺構として唯一のものと言われる。
大日堂は、当初から未完成であったようで、虹梁などの部材には皮つきの粗末な材も使われており、戦乱の多かった時代に建てられたことをうかがわせているという。
現在の大日堂は間取も外観も当初のものとはかなり違ったものになっている。
当初の間取は、前方の二間通りが外陣で、その後方に桁行三間・梁行二間の内陣があり、内陣の左右と背後は入側となっていたようである。
また、現在は周囲に縁がないが、縁がまわっていた痕跡が残っている。
このような間取や外陣の化粧屋根裏の意匠は、中世の密教本堂の一般的形式にしたがっている。
大日堂の建設年代は、拳鼻の絵様などから、16世紀前期(寺伝の天文11年頃)の建設と推定されいる。
(上田市HPより)