粕尾城(鹿沼市中粕尾)36.5250、139.5929
旧粟野町中心部から思川に沿って県道15号線を足尾方面に約8q行くと、県道北側に田原神社がある。
この神社の北西側一帯が城址である。

この付近は山間の地であるが、この城は典型的な山城ではない。
どちらかというとこの城は山裾部を利用した丘城、平山城である。


I北東側を遮断する豪快な横堀、ここがこの城の最大の見どころである。

城の本郭部の標高が230m、思川の標高が175mなので比高は約55mである。
城域は直径約350mで「C」型をしている。
東側に開口部があり、居館があった標高200mの谷戸部の周囲を一段高い(比高約20m)位置にある曲輪群が囲む谷戸式城郭である。

田原神社付近には城郭遺構はないが、神社の西側の丘を登って行くと、丘の南下に薬師堂が見え、その上が横堀@になっている。
この堀は西側にある本郭手前までを覆う。
一方で丘を南北に遮断するように横堀Aが北側にも延びる。

その北に延びた横堀が下りになった場所が居館があったという谷戸部Bである。
かつては畑だったというが、今は倒木だらけの荒れ地状態である。
東側の開口部が大手口であり、「館の泉」という湧水池Cがある。

@城の南側を覆う横堀 A田原神社に続く尾根はこの横堀で遮断される。 B居館部、周囲が丘に囲まれる。水はけは悪そうである。

この谷戸部は3、4段ほどになっており、少しづつ標高が高くなる。
西側が一段と高くDなり、そこに西側から本郭、二郭、三郭、北郭が並ぶ。

三郭が鞍部のような感じで一番標高が低い。
20m×70mの広さ、その西側が高さ約2、3mの切岸Eを上がり、二郭、標高は220m、50m×40mの広さ、

C居館部入口、大手口。館の泉という湧水がある。 D居館部最奥の段。ここを上がれば三郭である。 E三郭(左)と二郭間の切岸、堀はない。

さらに堀を介し、西に本郭がある。

50m×20mの広さ。西に突き出した場所があり、先端の岩場Fに社がある。
ここの標高は230m、北下約45mに思川の流れが見える。
ここは物見台だろう。

F本郭西端突き出し部の物見台 物見台から見た西下を流れる思川と県道15号線 G本郭南側には3本の堀切がある。

本郭から南側に尾根状の曲輪が延び、堀切Gが3つほどある。
この方面は篠竹等の藪が多い。
一方、三郭の東側は一段高く、北郭Hである。
「武者溜」ともいう。40m×100mの広い曲輪である。
北東側を高さ2mほどの土塁が覆い、その外側は幅約20m深さ約5mの豪快な横堀Iになっている。

H北郭内部は広い。見えている土塁の先は・・・? Iこれは櫓台か?東側が抉れている。

北郭の南東端は一段、盛り上がり櫓台のような土壇Iがある。
東側が抉れて平場がある。

平安末期、治承年間(1177〜81)足利忠綱が築いたという伝承があるが、これは不確かである。
永徳2年(1382)小山義政による築城という説が有力である。

康暦2年(1380)5月、小山城にいた義政と宇都宮城主宇都宮基綱は領地を巡って戦いとなり、裳原合戦で宇都宮基綱を敗死させてしまうが、これは鎌倉府に反逆したとみなされ、鎌倉公方足利氏満により攻撃を受け討伐されてしまう。
結局、約1ヶ月に及ぶ合戦の末、義政は降伏するが、翌年2月、義政は再び挙兵するが敗北し、出家する。
ところが、永徳2年(1382)3月、義政は三度目の挙兵をする。この時、本拠の小山城を放棄し、この粕尾城に籠もる。
しかし、またまた敗北し、子の若犬丸を逃した後、自刃する。
これを「小山義政の乱」というが、3度も反乱を起こすとは大したものである。

なお、奥州へ逃れた子の若犬丸は至徳3年(1386)5月、突如挙兵して小山城に籠もるが、鎌倉方に敗れ、常陸国小田城主小田孝朝の下へ逃れる。
その後、会津国に逃れ挙兵するが敗北して応永4年(1396)自刃、遺児である宮犬丸と久犬丸は鎌倉に送られ、殺害され、小山氏の嫡流は滅亡する。
これを「小山若犬丸の乱」という。ともかく、親子2代にわたり鎌倉公方に反逆した訳である。
反骨の一族と言えるであろう。

粕尾城と言えば、この小山義政がまず出てくるが、彼は室町時代前期の人間である。
それ以後のことが書かれていないのである。

この城を見れば、もっと後の時代まで使われていたことは明白である。
北東側に残る豪快な横堀はとても室町前期のものとは思えない。
居住性もあり、城内も広く、遺構も明白である。
戦国時代末期まで居城、軍勢の集合地、駐屯地として使っていたであろう。