加園城(鹿沼市加園町)36.5623、139.6972
非常に評判がいい城である。
鹿沼には上南摩上の城など凄い城もあるが、訪れるのが困難である点が欠点である。
そこに行くと、加園城は車で横付けできるのである。
遺構も素晴らしく、管理状態も良くコストパフォーマンスが非常に高い。

鹿沼市役所の西約4q、県道240号線が大芦川を渡り、800mほど西進すると加園郵便局がある。
その北の山が城址である。

↑ 南側、県道240号線から見た城址。南側が砕石で削られてしまっている。
城に行くには郵便局前から少し東に戻った場所にある交差点から市道を北上する。
すると左手に小さな「加園城入口」の看板があり、砂利道を西に進むと城址入口の駐車場に着く。
地主さんの好意で用意してくれたものという。3台ほど駐車可能である。

駐車場から整備された登城路が西の山に延びる。
ここを上がればよい訳である。
城は南側の一部が土取りで湮滅しているが、それ以外はほぼ完存状態であり、地元によりきれいに整備されている。
と言っても、整備されているのは主郭部くらいであるけど。

城は標高227.5m、比高約65mの北から大芦川の支流荒井川の谷に張り出した山の南端部にあり、直径約300mが城域である。
コンパクトな造りである。

中央部に本郭T、二郭U、三郭Vの主郭部を南北に並べ、そこから西に張り出す尾根に西郭、主郭部の東裾に東郭を配置する。

東下の駐車場から道を上がって行くと、左手に竪堀Jが下って行くのが見える。
その南側から下にかけてが東郭Kである。
曲輪と堀が複雑に配置され、迷路のような感じであるがけっこう藪化している。

@本郭の東下を巡る横堀。 A本郭(右)と二郭の間の堀から@の横堀に下る竪堀 B本郭西側を覆う横堀。これも見事な光景である。

道をさらに上がると本郭の周囲を回る横堀@に出る。
この横堀、本郭からは8〜10mほどの深さがある。

それが本郭から南側の二郭にかけてうねるように巡る。
うっとりするくらいきれいである。
この横堀は本郭の北側の堀切から竪堀になって下り、横堀となる。
本来、二郭とその南側にあった馬出を囲むようになっていたが、南側は湮滅している。

本郭と二郭の間の堀からは竪堀Aが下る。
その堀は本郭の西側をまた横堀Bとなって巡り、本郭北側の堀に繋がる。
この西側の横堀も非常に美しい。

C二郭は南側に向けて緩く傾斜し神社がある。 D二郭から西に突き出た馬出状の曲輪 E本郭内部、東側以外土塁が巡る。

本郭Eは径50mほどか?北側から西側を土塁が覆う。
北側の最高箇所は曲輪内から5mほどの高さがある。
二郭へは本郭から木橋が架かっていたようである。
この構造は上南摩上の城の本郭と似る。

二郭は南側に傾斜しており、北側の社がある。西には土橋があり、小型の馬出がある。
本郭の北側には10m四方ほどの土塁で囲まれた曲輪、三郭があり、その北側に2本の堀切Gがあり、その先は北側の山に続いて行く。

F本郭北端の土塁上の最高箇所。背後は谷のような堀。 G三郭背後の堀切 H西郭の中心部はは土塁を持つ曲輪が重なった構造である。

一方、本郭西側の横堀の切れ目から道が下り、途中に土塁を持つ帯曲輪がある。
迎撃陣地のようである。

その下に土橋状の通路Iが西に延び西郭となる。
この通路は石で土留めされている。
ここは土塁を持つ曲輪が多重に重なった構造Hであり、西側を守る場所であろう。
土橋の南側にも曲輪が重なるが途中で石切場跡になる。

I主郭部側から西郭側に延びる土橋状通路 J主郭部下から竪堀が東郭に下る。 K東郭は曲輪がいくつも重なる。これは最上段の曲輪。

宇都宮氏家臣、渡辺右衛門尉綱重が大永年間(1521〜28)に築いたという。
大永3年(1523)、宇都宮忠綱が皆川宗成と戦い戦死し、宇都宮氏が混乱状態になると、それに乗じた小山氏と結城氏の軍勢が鹿沼城を奪う。
綱重は小山、結城側に付く。

永禄4年(1561)、上杉謙信が関東に進出すると、渡辺右衛門尉忠之は小山秀綱に従い出陣するが、秀綱が北条氏へ内応すると忠之もこれに応じ、碓氷峠で上杉軍と戦い戦死する。
その後の渡辺氏の動向はよく分からないが、皆川氏や壬生氏に仕ていたらしい。
皆川氏や壬生氏が小田原の役で北条氏とともに没落すると、渡辺氏も武家の地位を失い、加園城も廃城になったようである。

今に残る加園城の遺構、とても田舎武士である渡辺氏が縄張りしたとは思えない。
優れた築城技術者が関与していたと思われる。
現在も加園城の周辺に渡辺氏は多く、この地で帰農したのであろう。
今の加園城の地主も渡辺氏であり、氏を中心に整備が行われている。

つまり、城主は築城以来現在も渡辺氏なのである。
こういう城って非常に珍しいのではないか?