川崎城(栃木県矢板市)

 矢板市川崎と「館の川」地区の境の丘陵「城山」にある平山城。別名、「塩谷城」とも言う。
 東側には宮川が流れ、西側には弁天川が流れ水堀の役目を担っている。
城のある丘は南北に長く、特に東側の勾配は急である。

幾重もの曲輪が帯をなし、その形状が蝸牛に似ているところから「蝸牛城」とも言う。
 現在、公園化され、城址が良好な状態で保存されている。
城の西側には東北自動車道が通っている。
 城の南側に近い標高最高地点に本郭が設けられ、東側以外、3/4周にわたり本郭を囲むように空堀(一の堀)が設けられている。
 この空堀は本城最大の見所の見事なものであり、本郭の北と南で東側の崖面に合流する。
本郭西側は堀が掘底道となって、南曲輪、二郭と本郭を結ぶ。堀の南側には大きな土塁があり、その土塁の南から西の山裾にかけて南曲輪等いくつかの曲輪が展開する。
 このうち最も下の現在、駐車場となっている西曲輪あたりは内根古屋と呼ばれ城主の平時の居館があった場所と思われる。
 その北側の曲輪には星宮神社が建つ。その西、現在の東北自動車道の車道となっている場所から弁天川にかけての地は外根古屋と呼んでおり、家臣の館があった場所と推定される。
 一の堀の西側、北側を覆うように二郭がある。
その間に南曲輪から本郭、二郭に通じる虎口がある。 

 本郭には東側以外の3方向に土塁があり、西側に虎口が2つ開いている。
本郭の東には10mほど下に東郭(東出丸)がある。各曲輪は結構大きく、武者溜として多くの兵を置くことができる規模を持つ。
二郭の北から西にかけて二の堀を隔てて三郭があり、さらにその北側にも曲輪が広がっていた。
           
 築城は正治、建仁年間(1199−1203)宇都宮業綱の二男塩谷五郎兵衛朝業が築いたというが、それ以前、塩谷朝業の養父塩谷頼純の頃には築かれていた可能性がある。
 その後、代々塩谷氏が居城したが、長禄2年(1458)宇都宮氏に滅ぼされた。
後に宇都宮正綱の4男孝綱が塩谷氏を継いで再興されたが、天正9年(1581)時の城主塩谷義綱は、重臣岡本讃岐守正親に討たれ、長男の義保が城主となった。
 天正18年の小田原の役では岡本正親が豊臣方の案内役を勤め、その功労により3360石を認められた。
 岡本氏は旗本として江戸時代も続いたが、明暦年間(1655-57)に改易され滅亡した。この時、川崎城も廃城になったと思われる。

南曲輪内。かなりの広さがある。 一の堀南の土塁(左)を南曲輪から見る。 本郭(左)南の一の堀。この城の最大の見所。 一の堀 堀底道から見た本郭虎口。
一の堀 堀底道から見た二郭方向 本郭虎口の土塁。 本郭内。東側に土塁はない。 本郭から見下ろした二郭。アスレチック広場になっている。
一の堀 掘底道から見た二郭。右は本郭。 本郭から見下ろした東郭。 一の堀 南東側。堀底が崖面につながる。 西曲輪。駐車場となっておりすぐ西は東北自動車道。

御前原城(矢板市)
 川崎城の東2.5kmの平地にある。国道4号を北に走り内川にかかる内川橋をわたり1.5km走るとシャープの工場群がある。
 国道4号の西側にあるこの工場群の中に城址が現れる。
 城址は御前原公園になっているが、周囲に幅8m、深さ4m位の堀と土塁を巡らした200m四方もある巨大な本郭のみが公園として残っている。
 内部はテニスコート、野球場等がある。
 中央部に麻疹地蔵が祀られている。天文18年(1549)塩谷由綱が父孝綱のために矢板からここに移したことが像の銘に記されている。
 その社の周辺は池跡のように窪んでおり、城内の庭園の跡と言われる。
 周囲には二郭、三郭等があり東西400m、南北700mもあるかなり大きな城だったようであるが、ほとんどは工場の敷地となり隠滅したという。
 本郭も隠滅することになっていたが、地元の保存運動が実って公園として保存された。
 周囲は近代的な工場、その中にポツンと中世の城郭がある姿は奇妙であるが、このアンバランスがまた面白い。
 治承・寿永年間(1177〜83)に堀江左衛門尉頼純の築城という。
戦国期には塩谷氏が川崎城の支城としていたものと言われる。

本郭北東側の堀と土塁 本郭北西側の堀と土塁 本郭内。周囲に高さ2mの土塁がある。 本郭中央部にある麻疹地蔵。

乙畑城(矢板市乙畑)

矢板市とさくら市の境界付近、荒川の北岸、国道4号沿いにある乙畑小学校の東にある比高20mほどの台地南西端にある。
ここに熊野神社があり、その裏山である。
城のある部分は南側と西側が急になる台地コーナー部が少し盛り上がった部分である。
熊野神社前に車を置いて裏山に登ったのであるが、神社と隣接した農家がある部分が一段高くなっており、居館の跡のようにも思える。
南側に川が流れているが、どうも堀跡のように見える。
この場所は南向きであり、日当たりは良好で風も防げ、居館を置くなら最適である。
裏山に登るがこれが急でありきつい。
尾根に出るが何も無い。尾根を西に行くとようやく、おなじみの堀切に出る。
堀切は二重になっているが、堀切間のスペースが15mほどあり、土塁に囲まれた曲輪状になっている。
内部がえぐれた感じであり、三重堀切のようにも見える。
西側の堀切は5mの深さがあり、そこを乗り越えると本郭である。
本郭は径20mほどの広さであり、内部は未整備である。
北側から西側にかけて帯曲輪があり、さらにその下に二郭がある。ここも藪である。
本郭の南下には前面に土塁を持つ帯曲輪があり、この帯曲輪には東側の堀切底から入れる。
北東側の台地が三郭であったというが、段々畑になっており特に遺構は残っていない。
始めに登った神社裏の尾根は東側が徐々に高くなっているため、城郭遺構があるか確認するため、向かってみたが特段曲輪や堀切はなかった。
明応〜文亀の頃(1492〜1504)、喜連川塩谷氏が築いたという。
永禄2年(1,559年)ごろには喜連川塩谷氏家臣、乙畑孫四郎が居城していたともいう。
この地は喜連川塩谷氏領の西端に位置し、対立する同族の川崎城の塩谷氏、そのバックにいる宇都宮氏に対する防御最前線であったようである。

本郭東の二重堀切間の曲輪。ここも堀切のように見える。三重堀切と言えなくもない。 本郭東下の堀切は一段と深い。堀底を通ると南の腰曲輪、三郭に通じる。 本郭内部は未整備状態。