山城(栃木県さくら市(旧氏家町))

 
宇都宮の北東のさくら市の氏家地区にあり、三郭にさくらミュージアム(かつては氏家ミュージアム)が建てられている。
 築城は建久年間(1190-98)宇都宮朝綱の3男公頼によると言われ、以後、氏家氏を称したが3代後、重定の時、正安年間(1299-1301)越中に移ったため一旦廃城となった。
 関が原から大阪の陣で活躍した氏家朴全はその子孫である。宮城の岩出山城主の氏家氏も一族である。
 氏家氏の後、宇都宮氏の家臣芳賀駿河守高清が城を再興し居城した。

 勝山城は宇都宮氏の勢力圏の北限に位置し、北の那須氏に対する防衛拠点として戦国期に激戦を展開した歴戦の城である。
 天文18年(1549年)喜連川に侵攻する宇都宮勢と、迎撃する那須勢との間で氏家と喜連川の境界にある早乙女(五月女)坂の合戦が起こった。
 この時、宇都宮氏は当主尚綱以下ほぼ全軍を勝山城に集結させ、倉ケ崎城に向かうが、早乙女坂の合戦で総大将尚綱が討死する等の大損害を受け、那須勢も大きな損害を受けている。
 この戦いでの尚綱戦死の混乱に乗じて重臣の壬生氏が宇都宮城を乗っ取り、尚綱の嫡子伊勢寿丸(後の広綱)は、芳賀高定により高定の居城御前城(芳賀城)に落ちのびている。
 永禄2年(1559年)には、結城晴朝が塩谷郡に侵攻し、この時、高根沢の阿久津城は落城し、勝山城下も焼き払われた。
 さらに那須資胤が天正元年(1573年)に氏家に侵攻しまたしても町は大損害を受けている。天正13年(1585年)にも箒川を挟んで那須勢と宇都宮勢が対陣し、那須勢の奇襲攻撃に敗退した宇都宮勢は勝山城で防衛したという。
 この歴戦の城も慶長2年(1597)宇都宮氏の突然の改易に伴い廃城となった。
 勝山城は鬼怒川東岸の断崖状台地を利用して築かれ、規模は東西320m、南北280mである。

  現在の遺構は、本郭が完存し、その周囲の二郭や三郭の一部が残っている。
 本郭は70〜80m四方の大きさであり、周囲には高さ5m、幅2mの大規模な土塁と深さ7〜8m、幅約15mの見事な堀が残る。
 本来の虎口は南西端の1箇所のみであるが、現在、公園化で東側に橋が架けられている。これは往時はなかったものである。
 二郭の堀と土塁は本郭側を除き消滅している。三郭はミュージアムになっており、東側にも土塁が一部残る。
 その東は県道125号線、かつての陸羽街道である。本郭、二郭の北側は低地となるが、北側との遮断のため堀が掘られている。
 この城は公園になっているのでいつでも見学可能である。堀も土塁も規模が大きく、見ごたえがある。

本郭北側の堀。深さ6m、幅15m位。 本郭北東端の堀には土橋がかかる。 本郭の大手虎口。当時も木橋であった
らしい。
本郭内部は公園になっていて広い。
周囲は土塁が1周する。
本郭南側の堀。深さ8m位ある。 本郭西側の搦手口。
本郭西側の堀。かつては水堀であった
のであろう。
本郭の西側下には鬼怒川が流れ、天
然の水堀となっている。
北二郭(左)北下の堀。結構浅くなって
いる。

ホームに戻る。