宇都宮城(宇都宮市本丸町)
平成19年に本丸の西部分だけが復元されて話題になった城である。
そこに行ってみたのであるが、まあ、なんと言っていいのか・・、表現に困ります。
「よくここまでやった」と言うべきか、それとも「なんじゃいこれ?」というべきか。
復元にも色々あるけど、ここと似たやり方はないだろう。

ほとんどの場合は土塁、堀が残っていて、建物を復元するパターンが多い。
復元した建物は昔はコンクリート製だったり、まったく存在しない架空の建物だったりするが、最近は当時と同じ工法で施工した建物、例えば、小峰城、白石城、掛川城とか、荒砥城とかの例が増えている。
この宇都宮城、櫓は木造でほぼ忠実に復元されている。
これだけでも価値はあるだろう。

ところが土塁は・・・。何と、寸法は忠実なのだが、コンクリートの巨大缶体の表面に葺土をしたものという。
それまではまあ許せるとして、あのエレベータは・・。
いくら見学者に優しいは良いけど。外からエレベータが丸見えってのは、どうか?
何だか、ウルトラマンに出てくる秘密基地って感じ。

もっと、違った方法があるんじゃないかな?
土塁が西半分しか復元されなかったのは、東側が宅地になっているので仕方がないのかとも思う。
まあ、色々あるが、復元された城(本丸)を西側から見れば、往時の姿は凄い立派だったんだなあということはよく分かる。

天守代わりの清明台櫓 復元された本丸西側の土塁と堀。でかい! 本丸南西端の富士見櫓

宇都宮城を復元した理由は、宇都宮の旧市街地の地位低下の挽回を図る目的で、その中心となるべきものが欲しかったことと思われる。
ここに行ったのは日曜日、普通なら市街地は人、車が多く、着くまで大変と思った。
しかし、意外にも市街の外は車が多かったけど、市街地は車も少なく、道はスイスイ。
確かにここも他の多くの都市同様、市街中心部は経済的には明らかに地盤沈下をしている。
本丸内部は・・何これ?秘密基地か? これは唯一の本物。本丸南側の土塁の一部。

宇都宮城と言えば、「釣り天井事件」で有名であるが、元々は戦国大名宇都宮氏の城である。
築城は平安時代、藤原秀郷の子孫、藤原宗円によるという。
藤原氏がここに入った経緯は、ここには宇都宮大明神(二荒山神社)があり、前九年の役に源頼義、源義家に同行して奥州に出陣した宗円が、その戦功で、神社の座主の地位と毛野川(鬼怒川)流域一体を領土に得たことで、居城として築城したものという。

以来、宇都宮氏の本拠として530年にわたり改修拡張され、関東八屋形に列せられるほどの城郭になったといわれる。
しかし、戦国時代末期には北条氏や北条氏に味方する日光山の侵攻を受け、城下は荒廃し、宇都宮氏は多気山城に一時、本拠を移す。
そして小田原の役後、宇都宮城に復帰する。
さて、宇都宮氏の本拠だったころの宇都宮城、どんな城だったのだろう。
現在の本丸部を見るとほぼ方形である。この本丸こそが、中世宇都宮城の本郭の姿を引き継いでいると思われる。ちょうど大きさは足利館程度のものだっただろう。
さらにその外側に二の丸があるが、ここもほぼ方形である。
これも中世宇都宮城の姿を引き継いでいるのではないか。
おそらく、中世宇都宮城は巨大二重方形館だったのではないかと思う。

小田原の役後の奥州の措置を決めた宇都宮仕置はこの城が舞台であった。
この城に豊臣秀吉が滞在し、彼に謁見するため奥州の大名らが宇都宮城に参城した。
その後、宇都宮氏は所領を安堵され羽柴姓を授かるなど、安定していたが、慶長2年(1597)に石高の不正申告をネタに突如改易されてしまう。

宇都宮氏改易後の慶長3年(1598)、宇都宮城には蒲生秀行が18万石で入り、城下町を整備する。
その後、慶長6年(1601)関が原の合戦の功で蒲生氏は前の領土、会津に復帰し、奥平家昌が10万石で入る。
そして、元和5年(1619)、あの徳川家康の懐刀と言われた本多正純が15万5千石で入る。
彼は宇都宮城と城下の改修整備を行い、近世城郭にする。
幕府にとっては宇都宮城は奥州から関東に侵攻しようとする敵に対する防衛拠点と位置つけていたのである。
その仮想敵は「伊達氏」であろう。

この工事では新たな曲輪を設け、何重もの水堀を巡らし、高い土塁を築いた。
この時、本丸は日光に参拝する将軍宿泊所として本丸御殿が建設された。
なお、宇都宮城には天守は設けず2層2階の清明台櫓を天守の代わりとした。
結局、この本丸は将軍専用施設であり、城主の居館は二の丸にあり、城主が本丸に入ることは稀だったという。
しかし、政敵の陰謀で宇都宮城改修にまつわる謀反の噂が流布され、元和8年(1622)に正純は改易されてしまう。
これが「宇都宮城釣天井事件」であるが、無論、事実ではない。

しかし、正純が整備した宇都宮城下がその後の都市基盤となった。
その後城主は、奥平氏、奥平松平氏、本多氏、奥平氏、阿部氏、戸田氏、深溝松平氏と譜代大名が頻繁に入れ替わり、戸田氏が6-7万石の時に明治維新を迎える。
これで平和に明治を迎えられるだろうと思われたが大波乱がある。宇都宮は明治元年(1868)戊辰戦争の戦場「宇都宮戦争」になってしまうのである。
この戦禍で城の建造物、宇都宮の城下は焼失。明治23年(1890)城があった一帯は民間に払い下げられ、土塁は崩され、堀は埋められ、更地となり住宅が建てられる。
それでも戦後、昭和30年代頃まで東武宇都宮百貨店近辺にも大きな水堀が残存していたという。
しかし、その堀も埋め立てられ、本丸跡の一部が本丸公園となり、その中に唯一の遺構である土塁の残痕が残っただけの状態であった。

刑部城 (宇都宮市東刑部町)

宇都宮市南東端、国道121号線の鬼怒川にかかる桑島大橋の南、県道158号線を1.5q南下、瑞穂野南小の東、堀の内集落が城址である。
県道沿いに城址の案内板があるのですぐ分かる。そこを西に入ると土塁に囲まれた民家が見える。
この民家、城主の末裔、刑部氏のお宅というので400年以上もここに住んでいるのである。これは凄い。
西側の堀は埋められているが、北側は良く残る。
南側と東側の堀は水田になっているが、土塁が良く確認できる。

現在、史跡として指定されている城の範囲、すなわち刑部家の敷地は東西42m、南北95mの長方形の大きさであるが、西隣の田崎氏宅も城域であり、さらに西にも堀跡らしい溝があるので、堀の内集落全体が城であり、3郭程度が存在していたようである。

城主の刑部氏は、宇都宮頼綱の二男、上三川城主横田頼業の孫、横田安芸守師綱の二男横田五郎良業がこの地を領し、刑部氏を称したのが始まりといい、代々宇都宮氏に仕えた。
築城は応永年間(1394〜1428)と考えられ、慶長2年(1597)に宇都宮氏改易に伴い、廃城となり、刑部氏がそのままここで帰農したという。

桑島城 (宇都宮市上桑島町)

宇都宮市南東端、国道121号線の鬼怒川にかかる桑島大橋の北、瑞穂野北小学校の東側にある。
民家の北側に土塁があり、東側に堀跡の窪地がある。
本来は周囲の水田も城域だったようで、西門、南門などの字名が残るという。
でも本当にここなのかなあ?多分、当時は鬼怒川がすぐ横を流れていたというので洪水等で埋没してしまったのだろうか。
宇都宮氏家臣、桑島氏の城であったという。写真は東側の堀跡。


岡本城(宇都宮市大字中岡本(旧河内町)小字根古屋)
別名、岡本根小屋城という。岡本城は、岡本北小学校(も城域であるが)の北に主郭部を置いた城である。
この地は東1.3qに鬼怒川を望む(対岸は高根沢町の宝積寺)岡本地区の東と北が急勾配となった比高20mの台地の北東隅に本郭を置き、南西方向に扇状に曲輪を展開させる梯郭式の城郭である。
現在、きちんと確認できる遺構は本郭周囲のみであり、それ以外は痕跡が若干、確認できるのみであり、畑と宅地になってしまっている。

本郭の南西側に三重の堀があったとか、五重の堀であったとかの説があるが、近年の発掘によると五重の堀が存在していたようである。
台地の北側から東側にかけて九郷半川が蛇行するように流れ、外堀の役目を果たしている。
この川が流れる現在の水田地帯は当時は湿地であったのだろう。
遺構が良く残る本郭部は75m×65mの方形で南に土橋と虎口が残る。
虎口付近両側の土塁は高さ3mほどある。

南側と西側の堀は幅15mほど、現在の深さは4m程度であるが、当時は凄い薬研堀じゃなかったかと思われる。
本郭内は平坦。北に高さ1mほどの低い土塁がある。西側にはないが、もともとなかったのか崩してしまったのかは分からない。

凄いのは本郭北側の堀である。本郭からの深さは9mほど。
幅は15mほど。これでもかなり埋没しているようだが、本郭から見下ろすだけでも迫力がある。
今も堀底はジメジメしているので水堀であったようである。
この堀は西に延び、城の西側をぐるっと覆っていたようである。
本郭の外側は畑である。南側に堀跡と推定される畑跡があり、その西に公民館がある。
この堀跡は三重目の堀だったようであり、本郭とこの堀跡の間にもう1本堀があったそうである。
さらに南に2本の堀があり、5本目は岡本北小学校の校庭を横断していたとのことである。

鎌倉時代末期または南北朝期の最中、1300年代前半中ごろ、宇都宮氏重臣芳賀氏一族、岡本信濃守富高が築城したという。
しかし、富高は南北朝の騒乱の観応2年(1351)の薩田山の戦いで戦死、さらに子の正高も貞治2年(1363)に武蔵野における戦いで戦死、芳賀氏系岡本氏の血統は絶える。(岡本信濃守富高は、玉生氏系であるという系図もあるとのこと。)

それに代わって入城したのが、玉生信濃守富武である。
玉生氏は、塩谷氏系であり、岡本氏を名乗り、城はこの藤姓岡本氏の居城となる。
以後、宇都宮氏を支えて活動するが、慶長2年(1597)豊臣秀吉により宇都宮氏が改易されると、連動して改易され、岡本城も廃城となったという。

@ 東から見た城のある岡 A 本郭南側の堀 B 本郭内部から見た南の虎口 C 本郭北側の低い土塁
D本郭北側の巨大な堀 E 本郭西側の堀 F 西側の段差が堀のあとらしい G三重目の堀跡の畑

飛山城(宇都宮市竹下町)

 宇都宮市街中心から東5Km、鬼怒川を西に見る丘陵上にある栃木県最大規模の平山城。
 しかも遺構はほぼ完全に残っている。
平成9年度から整備が行われ、むしろやりすぎと思われる位に復元された。
 考証に基づき復元されたものと思うが、ここまで復元されると金山城同様.返って違和感を覚える位である。

 城は鬼怒川東の700m四方の独立丘陵北西部に築かれており、典型的な梯郭式城郭である。
 丘陵の最も比高が高い北西端に本郭を置き、平坦部に続くその東側と南側に郭を展開させている。

 最外周は細長い郭がL形に築かれ、その前後に深く、広い堀を巡らせる。堀幅は15〜20m、深さは8m程ある大きなものである。
 最外郭部の堀に5箇所櫓台のような突き出し部が見られる。
 構造としては比較的単純で分かりやすい。城域としては東西220m、南北420mである。
 本郭は鬼怒川河川敷から見上げると比高30m程度あり、北側、西側は完全に崖状態である。
 この方面から城を攻撃することは不可能である。
 本郭内部はおよそ3つに仕切られ、堀のような窪みがある。
 堀というより排水路や虎口への通路と言った感じである。
本郭と四郭を北側下鬼怒川河川敷より
見上げる。高さは30m程度の絶壁。
左の写真とは逆に本郭より北側の鬼怒
川を見る。
東側の復元された大手口の堀と土塁。
突き出しは櫓台。
五郭と三郭間の堀。 二郭と三郭間の復元された堀 三郭南西側の切岸。崖である。
三郭南側の堀。 南側最外郭の堀。左に櫓台がある。 東側最外郭の堀と櫓台。

 築城は鎌倉末期、永仁年間(1293−98)清原氏の流れを組む芳賀高俊による。
 芳賀氏は戦国時代宇都宮氏の重臣となって活躍する一族である。
 宇都宮氏に従うのは、高俊から4代前の高親の時であったという。
 その後、紀氏の流れを組む益子氏と共に宇都宮氏を支え、以後紀清両党として名を轟かす。
 南北朝時代には、宇都宮氏とともに北朝方に属し、暦応4年(1341)南朝方春日顕国の攻撃を受けて落城する。
 しかし、南朝の没落で城も復興する。
 宇都宮氏と芳賀氏は主家家臣の関係ではあったが、親族関係にもあり、両家間で養子を取ったりしている。
 永正9年(1512)宇都宮成綱が筆頭家老の芳賀高勝を殺害され、天文8年(1539)、芳賀高経は宇都宮尚綱との争いに敗れ幽閉殺害される。
 敵とばかり高経の子高照は那須氏と手を組み、天文18年(1549)喜連川の早乙女坂の戦いで、逆に尚綱を討つが、自身も芳賀氏を継いだ高定に討たれる。
その後、宇都宮氏の勢力減退に伴い、宇都宮城が壬生氏に奪われると高定は、宇都宮広綱を擁し、飛山城に佐竹氏の援軍を迎え宇都宮城を奪還する。
 以後、佐竹氏と同盟し、上杉謙信没後に北条氏の北関東に侵攻に対抗する。
 芳賀氏は高定の弟高継が継ぐが、秀吉による宇都宮氏改易に連座し、飛山城は廃城になる。