大田原城(栃木県大田原市)
旧陸羽街道である国道461線を黒羽方面に向かい蛇尾川にかかる橋があるが、その手前右側の山が大田原城祉である竜体公園である。
大田原城は那須七騎の一人として戦国期に活躍した大田原氏の居城であり、築城は天文15年(1545)と言われている。
大田原氏は武蔵の住人大俵康清が元中年間(1384-91)水口城を築き、その後裔が大田原氏を称し、現在の場所に本拠を置いた。

この間、永正15年(1518)には大関増次に大田原を追われたが、天文11年(1541)には大関氏を討ち、大田原を奪還している。
その後、主家の那須氏を横目に豊臣秀吉の小田原征伐にも参軍することにより豊臣大名として認知され、7000石から12400石に加増され、独立大名となった。
さらには関が原の戦いでは、徳川に組みし、戦後14400石を与えられている。

非常に稀な例であるが、大田原氏は戦国期を生き残り、さらに江戸初期から明治維新までこの大田原城に本拠を置いており、その先見性は卓越したものがある。
城郭は、蛇尾川を天然の水堀とし、竜体山という名の丘陵に築かれている。
陸羽街道が城の西を通るという交通の要衝であり、関が原直前においては白河に陣する上杉軍に対する徳川方の最前線という重要な拠点でもあった。
このため、家康から城郭の強化を命じられ、その時、現在見られる本丸周囲の高い防塁が築かれた。
したがって、14400石の小大名の城としては似合わないほど大きな城となっている。

 遺構は本丸、二の丸、北曲輪がほぼ完存しており、公園となっているが、西曲輪は大田原広域消防組合の敷地となっている。
 三の丸以下の武家屋敷は市街地となって消滅している。
 本丸は大規模な土塁Fが周囲を巡り、往時の姿をそのまま残している。
本丸東の虎口、台門Cには石垣も使われていた。
 二の丸との間の台門は、往時は木橋で結ばれていた。本丸西南にも虎口がある。
 本丸の土塁はそれなりの幅はあるが大きな櫓を建てるほどの広さはなかったと思われる。

 せいぜい物見台程度の櫓が建てられていたものであろう。
 二の丸Cも土塁Bや堀が残り、坂下門Aまでの間、南側に帯曲輪がある。
二の丸の先には細長い曲輪Jがあり、先端に堀切Kがある。そこが城の東端である。

 坂下門は南から西にカーブしながら下っており、その脇に水堀@がかろうじて残っている。
北曲輪にも土塁Iが見られる。
 この北曲輪から見上げる本丸曲輪は、高さが10m近くあり、迫力を感じる。
 

西には旧陸羽街道である国道416号が走る。
その西側の護国神社、大田原神社のある丘も曲輪であったと考えられ、城内を陸羽街道が通るいわゆる街道を扼する城である。

@坂下門脇の僅かに残る水堀 A坂下門跡の桝形 B二の丸の土塁
C本丸台門跡の櫓台から見た二の丸と堀切 D坂下門上の帯曲輪から見上げた本丸 E本丸内部。周囲を高さ3mの土塁が覆う。
F本丸の東の土塁上。きれいなカーブを描く。 G本丸東の帯曲輪 H北曲輪内部
I北曲輪の土塁 J二の丸東の曲輪 K城址東端の堀切

鳥瞰図は現地調査や城郭図を基に描いているが、輪郭・連郭併用式の平山城であり、東方にある黒羽城と良く似た郭構成である。
(鳥瞰図中のマル数字は、写真の撮影位置を示す。)
黒羽城も関が原の戦いの直前、大田原城とともに対上杉用に強化された城郭であり、共通性があっても不思議はない。
さて、戦国の動乱でも、対上杉の退陣でもこの城を巡っての攻防戦はなかったようである。
しかし、意外な時、戦いの舞台となる。
幕末、慶応4年(1868)大田原藩は新政府軍に加担し、白河城攻略の拠点となる。
このため、5月2日会津藩軍の攻撃を受け、落城寸前となるが、火薬庫の爆発事故と暴風雨により撤退。
しかし、城と城下のほとんどは灰塵となってしまう。