高館城再訪と佐久山館要害(大田原市大輪)
2024年3月18日、実に20年振りに那須高館城(36.9090、140.1304)に行った。
この城も那須与一伝説がある。
栃木県東部の那珂川沿いの地方はどこに行っても那須与一がどうのこうのとの伝承がる。
同じ栃木でも南西部に行けば、藤原秀郷こと俵藤太伝説である。
その西、群馬東部に行けば新田義貞伝説ばかり、管理人が住む茨城北部は源義家伝説が多い。
管理人の故郷、信州なら木曽義仲伝説が圧倒的である。
各地にご当地の英雄伝説が伝わる。

で、この高館城、那須与一はともかく、那須与一を産んだ那須一族に関わる城であるのは確かなようである。
おそらく、北の麓にある川田館の那須一族川田氏の詰の城と考えるのが妥当であろう。
北から道がウネウネと延び、車で比高約110mの城址に横付けできる。
これはありがたい。

↑ 北側、川田館跡付近から見た高館城、比高は約110m、急坂である。木のない部分が公園化された二郭、展望台がある。
城址は公園になっているが、どこも同じなのだが、御多分に漏れず、ここも同じ、やはり管理が大変なようで荒れている所が多い。
自治体の予算不足が出ている感じである。昔より訪れる人は減っているのだろう。

この高館城、段郭主体ではあるが、堀切Aや横堀Cもちゃんとある。
おそらく、古い時期に築城されていたようであり、
古い構造の城を改修しながら戦国末期まで使い続けていた印象を受ける。
全てのパーツが大きい。ただし、細かさ、精緻さは余り感じられない。
比較的大雑把、大胆な感じの遺構である。

規模も大きく約300m四方の範囲に遺構を展開させる。
ここからの眺望を見れば、時代は違えど、城を置くには最高の場所であることが分かる。
この城からは、那須方面、白河方面、宇都宮方面の眺望がバッチリなのである。

@北東端神社が建つ土壇は櫓台という。 A三郭と本郭の間の堀切、薮で分からん! B二郭から見た本郭、ただの緩斜面に過ぎない。
北西端の展望台から見た北方向、中央が那須岳、川は那珂川 展望台から見た南西、宇都宮方面
C本郭南下の横堀 D Cの横堀の南下の帯曲輪

2003年9月18日訪問時の記事
高館城(大田原市(旧黒羽町)川田)

黒羽城から4km程北にある元高雄山の山頂に築かれた山城。那珂川の左岸にあり、山の直下で那珂川が大きく湾曲し、山すそを抉るように流れている。
このため、裾野を走る県道稲沢黒羽線はこの城のある山をトンネルで通過している。
  築城は平安時代末期、那須与一宗隆の父、那須資隆が神田城から移って築いたと言われる。
那須氏は源氏に付いた与一の他に平氏についた兄弟もおり、帰国した兄弟を資隆がこの城に匿ったため、梶原景時に攻められたが、文治2年(1186)与一が源頼朝に命乞いして兄弟を助けたという。
この時に廃城となったと言われる。
この記録では12世紀に僅か50年程度しか機能しなかった城ということになるが、城は自然地形のままでも要害の地にあるため、その後も砦として使用された可能性はある。



  この城には土塁や堀などの城郭遺構はない。
山の山頂や尾根を平坦化して郭にしただけのシンプルなものである。

山頂に本郭があるが、平坦ではない。
中心部南に小さな祠があり、周囲にコの字形の小さな土塁が囲んでいる。
本郭に対して二郭と三郭が両側に翼を広げるように位置している。
二郭は南西の尾根を数段に分けて平坦化して築かれている。
三郭は北東の尾根を平坦化して築かれ、本郭より5m程低い。 

これら3つの主郭の南東側斜面に数郭の腰曲輪が築かれ、駐車場のある場所の郭からジグザグに本郭に登る路が大手道であったと思われる。
三郭の北の駐車場を挟んで北側に神社のある盛り上がりがあり、ここは物見台があったものと思われる。 

三郭北の神社の建つ郭。物見台
があったものと思われる。
三郭北の駐車場より三郭を見上
げる。
三郭から見た本郭 本郭から大手道を見る。
三郭東の腰曲輪 本郭内部  二郭                   二郭南の腰曲輪


佐久山館要害(36.9067、140.1318)

高館城から南に続く尾根に佐久山館要害がある。
この名前、ちょっとおかしい。
「館」と「要害」両方とも「城」の意味である。
「佐久山城城」ということになる。
「佐久山城」は大田原にあるし・・・。混乱する。「館」か「要害」どちらか1つでいいのでは?

「続く尾根」と書いたが、両城は標高277mの鞍部でつながる。
ここには堀切があったような感じである。
ここから尾根を南に登っていくと段々の曲輪があり、堀Eも見られる。
南東端に長さ約80mの曲輪Fがあり、尾根は西に曲がる。
曲輪内は薮も比較的少ない。
西端が主郭Hである。ここの標高は301m、高館城の本郭(305.5m)と大差ない。

50m×45mほどの広さがあり、内部は平坦である。
高館城の本郭とは直線距離で約250mである。
その西側を帯曲輪Jが、南側を幅約20m、深さ約6mの巨大な横堀Iが覆う。
この横堀は東側Gに延びてゆく。
東側にも遺構が展開する。

E鞍部を南に登って行くと曲輪が展開し、横堀がある。 F主郭東側の曲輪は80m×25mほどの広さがある。 G Fの曲輪の南下を大きな横堀が巡る。
H佐久山館要害の主郭、広く、良く削平されている。 I 主郭南下の横堀(土塁付きの帯曲輪?) J主郭西下の横堀(帯曲輪?)

総じて高館城よりこの城の方が、新しい感じである。
別々の城とは思えない。2城一体で運用していたように思える。
いわゆる、2つの本郭部を持つ1城別郭形式というものかもしれない。

高館城の増設部分がこの城と思われる。
大輪氏の城とされるが、大輪氏が2つの城を管理していたのか?
この城の南下の集落が「大輪」であり、平時の居館はそこにあったと思われる。
川田氏との関係はどうなっていたのか?単なる隣人同士か?
こちらの方が、居住性は良さそうである。
こちらが主城で高館城は眺望が良いので物見の場だろうか?

(参考:図説 栃木の城郭)