小貫城(茂木町小貫)36.4292、140.1851
茂木町中心部から南に約10�q、茨城県笠間市と境を接する小貫地区にある。
仏頂山(431)の北山麓に当たる。ここを県道1号線が通り、仏ノ山峠を越えれば笠間市である。
小貫城は県道1号線沿いではなく、県道1号線から分離した逆川の流れる少し西側の谷にある。

 その場所が分かりにくいが、市道の西側にいかにも・・らしいきれいな切岸を持つ畑が見える。

↑ 東下を走る市道から見た城址。中央に見えるきれいな切岸が二郭である。
そこが小貫城の二郭なのである。
この城、周囲が住宅であり、二郭が畑であるのでいずれかの民家に断りを入れて登城しなければならない。

城は約150mの範囲が城域であり、西の山地から逆川の低地に張り出した台地末端部を利用している。
市道沿いから見える平坦地が二郭�@で中城という。標高は168m、低地より約8m高い。
西側が約4mの切岸となり、上が本郭�Aである。
標高は175m。

内部は杉林、東西約60m、南北約80mの広さ、南東側に抉れた部分�Bがある。
堀切としているがこれは虎口だろう。
この南下の民家の地が三郭、四郭なのでここからの登城路であろう。

�@二郭は「中城」と呼ばれる。休耕中の畑。正面が本郭。 �A 本郭内部は杉林になっている。 �B本郭南東端にある抉れは虎口だろう。

西側に高さ約4mの巨大な土塁�Cがある。
北側に虎口がある。
土塁の西側が深さ約5mの巨大な薬研堀�Dがある。堀幅は約12m。
堀の北側は二郭に通じる。
これが北側の根小屋地区からの登城路であろう。
なお、この堀の底や曲輪内には獣避けの高圧電線が張られている。注意して歩かないと危ない!

�C本郭の西側には高さ約4mの大きな土塁がある。 �D �Cの土塁の西側は深さ約5mの薬研堀。 �E �Dの堀の西側の五郭、西側を土塁が覆う。

薬研堀の西側が五郭�E、幅は約15〜20mと狭いが、南北は約80mある。
標高は181m、本郭より6mも高い。
南側は傾斜する。西側に約3mの高さの土塁があり、南側は竪土塁�Gになる。
土塁の西側に堀�Fがあるが、深さは1.5mほど、
幅は約7mあるが、埋没しているのか、箱堀状である。

�F �Eの堀の西側に浅い堀がある。ここが西端に当たる。 �G 五郭西側の土塁は南斜面で竪土塁になる。 �H五郭から�Dの堀越しに見た本郭。右下が三郭。

この西側は緩斜面が高度を上げながら続くが、堀、土塁等の障害物はない。
ここから攻められたらこの程度の堀では役に立ちそうにもない。
逆に本郭攻撃の塹壕になる。
おそらく、逆茂木が放り込まれていたのではないかと思われる。

本郭、二郭には居館があったと思われる。
居住を兼ねた城、というより防御力がある居館という感じである。
三郭、四郭は家臣の屋敷があったのではないだろうか。

 芳賀入道禅可の次男駿河守高家が築城したと言われている。
芳賀禅可は南北朝期に宇都宮氏の重臣として勇名を馳せ、将軍足利尊氏が弟直義を破った薩?山合戦や、鎌倉公方足利基氏に抗戦した苦林野合戦で力戦している武将であるので、小貫城の築城は南北朝期であろうと推測される。
彼の子孫は地名を取り「小貫」を名乗る。芳賀氏の家臣というより益子氏の家臣であったようである。
笠間氏と益子氏は同じ宇都宮一族であるが抗争を繰り返す。
ここ小貫は仏ノ山峠を越えれば笠間である境目の地である。

このため、永正4年(1507)、小貫信高が城主の時、笠間城主笠間右京綱親に攻められる。
この時は宇都宮・芳賀両氏の救援を得て撃退したものの、追撃中に逆襲を受け、信高は討死し、小貫城は廃城になったと言う。
なお、城址北側のお宅が「小貫」さんであり、どうやら子孫のようである。
滅亡したのか、城がもっと後まで存続していたのかは分からない。
北側の集落が根小屋「十日宿」で、城の北側の沢を「殿入沢」という。「殿入」「縁坪」「根古屋」「上所」「番場」「宿」「根岸」の屋号を持つ家がある。
(「芳賀の文化財 城館・陣屋編」を参考にした。)

木幡城(茂木町木幡)
芳賀富士の東、逆川に沿った水田地帯を東に見る山にある。
道の駅「もてぎ」から県道206号線を2.7�qほど南下すると芳賀広域農道と交差する木幡の交差点がある。
そのから南西600mほどの山が城址である。

実はこの城、3回チャレンジして空振り、ようやくたどり着いた。
ついてみるとどうってことはないのであるが、どういう訳が縁遠い城というものが存在する。
何度、行っても違う場所に行ってしまって行きつかないとかってことがある。

この城の場合、まず、1回目の失敗は、広域農道の北側を勘違いしたこと。
おかげで、とんでもない藪の山の中を放浪する羽目になった。
次は1つ北の山をさ迷った。
ここかと思ったが、田舎につき、誰も歩いてなく聞くことすらできないってことも・・

しかし、ついに攻略成功。
どこぞのHPに入口の写真があったので、ここか!ってことで突入。それが正解だった。
それは良いとしてこの木幡の集落、ここ自体、かなり怪しい雰囲気である。

木幡の公民館から集落に上がる坂自体、木戸があったのではないかと思われる雰囲気なのである。
その南側の切岸、3,4mほどもあり、城の切岸と言っても通用する。
おまけに土塁らしい部分まであった。

城に入って行く小道脇の民家、土塁�@で囲まれているのである。その家は居館ではないかと思う。
その民家の西側の山が城なのであり、小道は土塁間に開く堀内�Aに入る。
堀底が通路になっているようである。この城、遺構はだいたい残ってはいるようであるが、とてつもない竹林の藪である。
それも倒れた孟宗竹が凄くて歩けないほど。
城自体は芳賀富士方向から東の逆川方面に突き出した尾根の先端部を利用しており、4つの曲輪が並ぶ。
(居館と推定される民家の地も入れれば5つ)

このうち、西から2番目の曲輪が主郭である。東側以外を高さ1.5mほどの土塁が覆うが、内部は笹藪状態。
北側の堀�Cは深さ5mほどあり、さらに下にもう1本の堀がある。
木幡集落の入口、
ここに木戸があったのでは?
左の写真の左側は塁壁のようになっている。 �@ここを入ると城址。左は土塁だろう。
�A北東側の堀に虎口が開く �B外周を回る堀の北東側 �C本郭 北側の深い堀

下側の堀�Bは城の全周を回っている。
本郭の東側、南側は曖昧な感じであり、堀もいつの間にか消えている。
かつては畑であり、埋められたのかもしれない。
東側の曲輪は切岸だけで区画されている。

城は、益子氏系の飯村内記によって築城されたといわれているが、詳細は不明である。
飯村氏の本城は南3.5kmの飯村城であるのでその出城であろう。

この城の北が益子氏と犬猿の仲である茂木氏の高岡城である。
したがい、木幡城は、茂木氏に対する境目の城であったのであろう。
しかし、両城の距離はたった1�qである。


こんな至近距離でそんな緊迫ある対立はあったのであろうか?
今ののどかな田園風景からは想像もつかない。

なお、地元の人によると東の木幡小学校の跡地(左の写真)も城跡と言っていた。
そこに行ってみたが、はっきり言って分からない。
城なら、山続きの東側に堀などが存在するはずであるが、それらしいものはなかった。
でも、茂木氏が木幡城を威嚇するにはこの小学校の跡地は良い場所である。

飯村根古屋城(茂木町飯村)
逆川を介し、西の飯村城のある集落の東の反対側、「根古屋」地区に南東から張り出した山の末端部にある。
比高は35m程度とそれほどのものではない。
どこにでもある単郭のコンパクトな城であるが、堀切、土塁、横堀がほとんど風化していない。
城内はクヌギ林であり、冬場は藪は少なくすっきりしていて、簡単に戦国時代の城を堪能できる。

城は麓の民家の所有地であり、その民家脇から登るので、1声かける必要がある。
時々、訪れる人がいるので住民の方も慣れたもの、車も置かせてくれる。
左の写真は飯村城から見た城址である。山の下の民家が居館跡らしい。

なお、この民家の方に城主の子孫か?と尋ねたがそのような言い伝えは聞いてないとのことであった。


民家の脇の道を上がって行くと、平坦地�Eがあるが、これは帯曲輪であろう。
2段ほどの帯曲輪の上が主郭である。
さらに道を行くと土塁間に切れ目があり、道は横堀に出る。
この小道自体がかつての登城路、そのままであるようである。

主郭は南東側に高さ3mほどの土塁�Cが覆う35m四方ほどの規模のものである。
主郭内には南側に虎口�Aがある。さらに北側にも虎口が確認できる。
尾根続きの南東側には深さ5m、幅10mほどの立派な堀切�@がある。
さらに外側に堀切�Bがあるが、こちらの規模は小さく、北側は途切れている。
南東側の尾根続きは広いうえにだらだらした感じであり、さらに先に堀切があるのでは?と思い行ってみたが結局なにもなかった。
これでは背後の堀切まで一気に敵の侵攻を許すことになる。

堀切付近から城内に弓矢、火矢を射られたら一たまりもないのではと思うのだが?余りにも背後が弱いのが気になる。
本来なら尾根続きはもっと厳重に防御すべきかと思うが。
一方、主郭の南側から西側にかけては、クランクがあり、横堀�Dが覆うが、かなり埋没している。

堀の規模としては小さく、移動用の塹壕という感じである。
主郭北側は犬走りのような帯曲輪となっている。

�@ 本郭(左)南側の大きな堀切 �A本郭西の虎口 �B本郭南の二重堀切間の土塁
�C本郭内部、南側に土塁がある。 �D本郭の西側から北側にかけて横堀が巡る。 �E北側斜面の腰曲輪

下の集落が根古屋というので城下町であったことは明白。
麓の民家が居館跡であろう。
飯村城に移る前の益子氏系の飯村氏の居城であるといわれる。
飯村氏は明徳3年(1392)には飯村城に移っているというが、横堀を持つなど戦国時代の城郭である。
戦国時代も飯村城の東を守る城として存在していたと思われる。

飯村城(茂木町飯村字城跡)

茂木町の南部、県道206号線を岩瀬方面に向かうと、逆川中学校がある。
この北側一帯は比高10m程度の丘になっており、逆川が大きくカーブしているため、半円状である。
ちょうど1辺400m程度の三角形といったところであろうか。

逆川中学校の地も城域であったといい、県道206号線の通る部分が切通となっているが、ここが堀を利用したものという。
この切通から丘に登るが、その両側が切岸状である。
とくに逆川幼稚園のある場所の西側は完全な城郭遺構といった感じであり、下にちゃんと帯曲輪状の平坦部まである。
どうもこれは本物のようである。

主要部は、老人保養施設「ききょうの里」がある場所と大楽寺の部分であると言われる。
この「ききょうの里」のある地はかつて、小学校があったという。

丘一帯が宅地化していたこともあり、遺構はかなり失われていたようである。
もっとも城らしい感じのする場所は大楽寺北側台地北側下の「北曲輪」付近である。

この部分は虎口のようになっており、堀らしいものが残っている。

益子氏家臣、飯村備前守の城であったという。
築城は明徳3年(1392)という。益子氏滅亡で廃城となり、飯村氏は帰農したという。

(余湖君のホームページ、芳賀の文化財参考。航空写真は国土地理院の昭和50年撮影のもの)
北東側の低地から見た城址。この岡の麓を逆川が流れ外堀の役目を果たす。
岡全体が城址という。
上の写真の道を進むとこの虎口のような場所がある。 幼稚園西側は切岸状。
帯曲輪のようなものもある。
ここも切岸っぽい。正面が逆川中学校。
この間に県道があるが、そこも堀跡らしい。