茂木城(茂木町小井戸字城山)
茂木の市街地を南に見下ろす桔梗山の上にあり、現在は城山公園として整備されている。
別名「桔梗城」ともいう。

城下からの比高は80mほどあり、北側以外の斜面の傾斜は急である。
城のある山は北から茂木市街地に張出したテーブル状の山にあり、城はその南端部に位置する。
北側以外は急斜面で、北側のみ山に続く。しかし、城の位置する部分はまったくフラットである。
この城、嬉しいことに城まで比高80mを車で登れるのである。
道は狭くて対向車が来るとちょっと苦労するが、ありがたい。

当然、公園化されている。
ただし、城の南半分のみであり、北半分は藪または農地である。
山城には違いないが、城址に登ると山上の平坦地に郭が配置されており、一見平城と錯覚する位である。
城域は450m×400mほどある。

郭のある山頂部はほぼ平坦であるが、中心部がやや窪んでいる。
この場所が千人溜と言われる広場のような郭であり、その周囲は火山の外輪山のようにやや高く、周辺に「コ」字形に郭が配置される。
東側が谷津があり、大手道がその谷津に沿って下る。
鳥瞰図を見てのとおりこの城は山上にある平城である。

築城は建久年間(1190−98)に八田知家の三男、知基という、以後、知基は茂木氏を称し、この城に拠り16代にわたりこの地を支配した。
茂木氏は戦国前期には宇都宮氏に従い、宇都宮氏の有力武将であったが、戦国後期には一貫して佐竹氏と結び、佐竹氏の重臣として結城氏、那須氏や北条氏と対立した。
このため、天正13年には北条氏の攻撃を受け、この城を追われ、茂木氏は佐竹氏の力を借りて城を奪還したという。
(これは事実ではないのでは?)

北条氏の滅亡後、佐竹氏により茂木氏は小美玉市の小川城に配置換えになる。
代わって二階堂氏重臣で佐竹氏に亡命した須田氏が入ったが、佐竹氏の秋田移封に茂木氏も同行した。

その後、徳川氏の城代が置かれたが、慶長14年(1609)細川忠興の興元が16300石で城主となり、明治維新まで続いた。
ただし、江戸時代においては不便な山城に住む訳はなく、小領主では維持できる規模の大きさではない。
このため、あ山麓に屋敷を構え領内統治を行っていたという。多分、茂木城は廃城に近い状態であったと思われる。

城の特徴は中心部にある千人溜と呼ばれる郭である。
150m×200mほどもある広さである。
この場所は出陣の馬揃えをした場所とも言うが、軍勢の駐留スペースでもあったのであろう。
この郭は名前のとおり兵士1000人以上が長期駐留するスペースがあるほど広い。
山城でこれほどの兵士を駐留させ、かつ、居住性に富んだ城も珍しい。
この場所なら敵からの攻撃に対して万全であり、安全な場所である。
山城で1箇所にこれほどの兵士を駐留させられる場所はないのではないか?
ここには鏡ケ池と呼ばれる井戸も存在する。

本郭は南西端の最も標高の高い場所にある。
千人溜より8mほど高く、北側の二郭とは堀で仕切られる。
120m×60mほどの広さがあり、西側をコ字形に高さ3mの土塁が覆う。

ここには物見の櫓があったのであろう。西側の斜面は絶壁状である。
この場所からの眺望は抜群であり、茂木氏と仲の悪かった益子氏への備えであることは明白である。

本郭内部は平坦で広く、武器庫等があったという。
本郭の西側方面は余り防御する必要はないが、それでも南西端には堀切で隔てられた小郭がある。
二郭、三郭、出丸が千人溜を取り巻き、郭間は空堀で仕切られ,堀底は堀底道となり腰曲輪に通じる。

二郭は120m×60mの広さがあり、金蔵があったともいう。
内部は林であり、冬場以外に入るのは厳しいかもしれない。
三郭との間の堀が凄い。幅20m、深さは今でも8mはある。

大手は三郭と出丸間にあり、東に開いている。
西側を防御する城であるので当然だろう。大手の南北に出丸があり、大手道を覆う。
南側の出丸は径80mほどあり、公園になっている。
北側は藪と畑である。

@城の中心部にある千人溜。正面が三郭。 A本郭内部、武器蔵があったという。 本郭北の土塁上から見た千人溜、高さは8mほど。
本郭西は急斜面、正面に出郭が見える。 本郭から見た茂木市街、比高は80mもある。 B 城の南東側の出丸
C出丸(左)と千人溜間の堀 D大手曲輪、一段上がると千人溜。
さらに上が本郭、右の林が二郭。
E 北東部の出丸は畑になっている。
F 城北側、高さ10mの城壁が続く。 G 二郭内部は林で未整備状態。 H 二郭から見た三郭間との堀、幅20m、深さ8m。

千人溜の北側に位置する三郭は150m×80mほどもあり、堀を介して東に80m四方の郭がある。
この郭には家臣団の屋敷があったという。
この方面は凄まじい藪で足を踏み入れる余地がない。三郭の北側には堀があり、さらに土塁がある。

果たして城主はどこに住んでいたのか疑問であるが、現在の駐車場あたりに屋敷があったのではないかと思う。
この土塁の北側が凄い。高さが10mほどもある。
城の弱点は山に続く北側である。北側も平坦であり、民家まである。
このため、こんな凄い塁壁になっているのであろう。

さらに心配なのであろう。
北側の羽黒神社に出城が構築されているという。
佐竹系城郭としては気合の入った城であり、棚倉の赤館城と良く似ている。
この巨大さは佐竹氏の西方面の防衛拠点であったとともに下野方面出撃時の宿城、兵站基地の役目を持ていたことを意味していると思う。
(鳥瞰図中の数字は写真の撮影位置です。)