阿久津城(高根沢町阿久津)
東北本線から烏山線が分岐する阿久津地区にある。
阿久津中学校北側にある八幡神社@付近を南端?の曲輪とし、その北側一帯が城址である。
城のある場所は南北に細長い比高20mの台地であり、南北500m(もっと広いかもしれない。)東西100〜150mほどが城域である。
しかし、城址のド真ん中を東北本線の線路Fが貫通し、おまけに城址一帯は、藪状態で遺構の確認が困難。

その一方で南側は宅地化が迫り、遺構が湮滅しているようである。
当然ながら城は南北に長い台地を東西に走る堀で分断して曲輪を作り出しているが、さらにその分断した曲輪を南北に走る堀で区画を細分化しているようであるが、東北本線の敷設等でそれが不明瞭になっている。

八幡神社が最南端の曲輪のようであり、南側の民家付近に堀の残痕が残る。
神社北側には埋没しているが堀Aが残る。

神社参道の石段登り口脇に「阿久津城址」の碑があり、そこからジャリ道が北に延びているが、道沿いの西側斜面に2つの竪堀Bがある。
この道は台地東側の帯曲輪Dを通っているが、東側に土塁の残痕が確認できる。
3つ目の竪堀C(虎口への登り口であろう。)を登ると、岡の上は埋もれてはいるが、内枡形になっている。

この曲輪は八幡神社の北側の曲輪にあたるが、内部は広葉樹の林であり、中がどうなっているか良く分からない。
東下の道を進むと、道は西に曲がり、台地上に登る。

その西に登る道自体が堀跡Eであり、この南側が本郭らしい。
東側には土塁があり、隅が櫓台のようになっている。
その北側の曲輪も藪状態の杉林である。

しかし、その東斜面を覗いてビックリ。見事な横堀Gが北に100mほど延び、北端が竪堀となっている。
どうももう1つ、北側に曲輪があるらしい。
何しろ藪、線路、西側も含めてこれ以上の探索は困難。

@城址の南部にある八幡神社。
ここが最南端ではなさそうである。
A八幡神社の北側には堀と土塁がある。 B八幡神社北の曲輪東斜面には
竪堀が2本下る。
Cこれは竪堀利用の虎口か?
D本郭東下の帯曲輪には土塁が残る。 E本郭北側の堀切 F城址のド真中を東北本線が貫通 G本郭北の曲輪東に残る横堀

築城は、太平記に名高い宇都宮公綱の家臣、野沢若狭守が南北朝期に築城したものと言い、さくら市氏家の勝山城の支城であったという。
永禄2年(1559)には、結城晴朝が塩谷郡に侵攻し、この時、阿久津城が落城し、勝山城下も焼き払われたという。

那須資胤が天正元年(1573)に氏家に侵攻した時、城下は大損害を受けているが、この阿久津城にも被害が及んだ可能性があり、天正13年(1585)の那須勢と宇都宮勢の戦いで、那須勢の奇襲攻撃に敗退した宇都宮勢は勝山城で防衛したという時も影響があったと思われる。
しかし、文献にはこの城の名はほとんど登場しない。

遺構が広範囲で広い城である割に歴史が不明確な点が腑に落ちないが、この広さ及び内部が細かく区画されていることから、多くの人口を持つ家臣団の屋敷群とか、城砦集落のようなものではなかっただろうか。
この城も慶長2年(1597)宇都宮氏の改易に伴い廃城となったのであろう。
(栃木県の中世城郭を参考にした。)

桑窪城(高根沢町桑窪)

栃木県高根沢町にはそれほど城はないが、その中でもこの城は唯一ともいって良いほど良好な状態で残っている。
城のある場所は町の南西端近い芳賀町や市貝町に隣接する桑窪地区であるが、場所の説明が非常にしにくい。
周囲にこれといった目だった目標物がない。
強いて言えば「元気あっぷむら」という温泉施設が北2kmにあり、ここを目指すと良い。(この「元気あっぷむら」の温泉はなかなかよい。
少ししょっぱいが、風呂は広く、露天風呂まであり建物もきれいである。ここはお勧めする。)
ここから真っ直ぐ岡の西下の道を南下すれば、城址案内がある。
城址の南下に車を止めて、切岸の登城路を上がれば、そこが城址である。本郭まで3分でおつりがくる。

城は北から延びる丘陵性台地の末端部にあり、西側の水田地帯からの比高が40mの場所にある。
この岡の東を大川が流れ、西を市の堀用水が流れる。岡の南端部に大安寺があり、ここまでが根小屋の範囲だった感じである。
城へは民家の中の道を案内板にしたがって登って行けばよい。
この集落の字が「宿」である。この字は根小屋を指すのであろう。
この道自体が大手道であったようである。

途中が3段ほどになっているが、一番南の切岸の高さが5mほどもある。今は畑等になっているがここは明らかに腰曲輪であろう。
この平坦地は南東部分が大きく張り出しているのでここに何かの建物があったのであろう。
道の途中から北に本郭が見えてくる。

本郭周囲の堀が豪快である。
本郭からの深さは6mほどあり、幅は12m程度。この堀が本郭の周囲をぐるっと1周する。
堀部分だけでも東西50m、南北100mほどある。

本郭虎口は南側であるが、土橋で南側の二郭と結ばれている。
この土橋が立派である。面白ことに二郭側にも土塁がある。本郭は東西50m、南北80mくらいの広さがあり、内部は畑である。
ほぼ長方形であるが、東側と北側が歪んでおり、横矢がかかる構造である。

土塁が西側以外の3方向を覆い、北側には土壇があり、上に社が建っている。北側の堀は浅いが、堀を越え北に行くと堀切、竪堀がある。
その北側は平坦地であるが、特に先には堀切等はない。西側斜面にも曲輪があるようである。

この城は本郭のみが非常に立派であり、まるで勝山城の本郭を山の上に移転してきたような感じである。
本郭以外はそれほどのものではない。
印象としては南那須の小志鳥砦や森田城と非常に良く似ている。
この城は宇都宮氏系であるが、敵対していた那須氏系の城に似ているのは、城の地域性であろうか?

城のある台地への入口。
本来の大手口がここであろう。
左の大手口を登ると二郭。
3段の腰曲輪があり、北側に本郭の
土塁が見えてくる。
大手の東側に広い平地がある。
二郭が南東方向に張り出している。
館があってもおかしくはない。
本郭へは土橋を介して入るようにな
っている。この土橋がきれいに残っている。
本郭虎口を二郭から見る。 本郭南西端の堀の折れ。 本郭西側の堀。本郭からの深さは6m 本郭東側の堀は横矢がかかる。
本郭内部。何と畑である。
北側に櫓台と思われる土壇がある。
本郭北側の堀は東西の堀よりかなり浅い。 城域北端の堀切。
この付近は藪状態である。
北側から城域北側の堀切を見る。
撮影場所は城域ではないだろう。

平安末期、建久年間(1190−99)桑窪修理助秀春または谷口筑前守によって築城されたという。
記録には和久保城とか小和久保城という名で登場する。
稲毛田城の支城であったといい、南北朝期、正平年間(1346−70)宇都宮氏による稲毛田城、祖母井城攻撃でこの城も落城したという。この時は八木要害という名で登場するが、実際は本城が落とされたため、自落したらしい。

その後は宇都宮氏の城となり、矢口(谷口)氏が城主を務めたという。
この矢口氏は築城したという谷口筑前守の子孫であろうか。
または、戦国期に矢口氏が先祖築城説をでっちあげたものだろうか?

今に残る姿は、戦国末期の城の姿である。少し東は那須氏の領土であり、宇都宮氏の対那須氏の前線基地として整備拡張された姿であろう。
内部は畑であるが町の史跡として管理されており、オールシーズン見学可能である。
藪も北側以外はない。写真以上に堀も深く、豪快であり、見ごたえのある城である。