黒羽城(大田原市黒羽町)
築城は高館城主那須資隆の家臣角田庄右衛門が八幡神社あたり(二の丸の北側付近)に館を構えたのが始まりという。
その後、角田氏は没落したが、足利尊氏に従って戦功を上げた武蔵国児玉郡大関村の大関清公がこの地を与えられ、文安年間(1444-48)大関忠増が黒羽城に入り、その後、宗増の時、山田城に移り、さらに天文年間(1532-54)に白旗城に移った。
天正4年(1576)高増の時、黒羽城を修理して再入城した。
以後、300年にわたり城は大関氏の居城としている。
大関氏は那須7騎として那須氏の家臣として活躍するが、小田原の役に参陣することにより、主家の那須氏が滅びた後、独立大名となった。
関が原の戦いでは徳川方に付き、上杉軍との対陣においては大田原城とともに黒羽城が最前線となった。
この時、黒羽城は家康の命により大改修を受け、現在残る本丸南の堀等が造られた。
黒羽城はこの時は対上杉用の城砦であったが、東に向かうと佐竹氏の支配する大子に通じるため、対佐竹氏牽制の役割もあったものと思われる。
この功績により大関氏は18000石に加増された。
江戸時代には城は3度にわたる火災で損傷を受けたが、大関氏の下で明治維新を迎えた。
城は西側の那珂川に臨む比高90mの南北に細長い山の上にある。 左の写真は西側、那珂川を挟んで望む城址である。 ちょうど、山頂部左手に本丸の桜の木が見える。 山の東側下には松葉川が流れ、この2つの川を天然の水堀にした連郭式の城郭である。 松葉川方面を東に行くと茨城県大子に通じる。 この城は戦国時代は大子方面から那須領に侵攻する佐竹氏を抑えるための城でもあった訳であり、この方面にいくつかの那須氏系の城郭がある。 また、それに対する佐竹氏の須賀川要害が存在する。 山城といっても尾根は広く十分な居住性を有する城である。 本丸付近の遺構は非常に良好に残っているが、それ以外の部分は体育館などの施設が建てられていて旧状はよく分からなくなっている。 |
この城の最大の見所は本丸南の馬出曲輪間の空堀である。 |
@本丸東側を覆う空堀 | A本丸内部。周囲を高さ4mの土塁が覆う。 | B本丸西の土塁上から見た切岸 |
C本丸南側の大堀切 | D本丸西下の帯曲輪から見た本丸の切岸 | E本丸南の馬出(右)と三の丸間の堀 |
F三の丸に建つ芭蕉の館 | G本丸大手の枡形 | H駐車場南側の土塁 |
I駐車場南側の水堀 | J二の丸は商工会館などになっている。 | K二の丸東側の曲輪 |
高館城(大田原市(旧黒羽町)川田)
黒羽城から4km程北にある元高雄山の山頂に築かれた山城。那珂川の左岸にあり、山の直下で那珂川が大きく湾曲し、山すそを抉るように流れている。
このため、裾野を走る県道稲沢黒羽線はこの城のある山をトンネルで通過している。
築城は平安時代末期、那須与一宗隆の父、那須資隆が神田城から移って築いたと言われる。
那須氏は源氏に付いた与一の他に平氏についた兄弟もおり、帰国した兄弟を資隆がこの城に匿ったため、梶原景時に攻められたが、文治2年(1186)与一が源頼朝に命乞いして兄弟を助けたという。
この時に廃城となったと言われる。
この記録では12世紀に僅か50年程度しか機能しなかった城ということになるが、城は自然地形のままでも要害の地にあるため、その後も砦として使用された可能性はある。
この城には土塁や堀などの城郭遺構はない。 山の山頂や尾根を平坦化して郭にしただけのシンプルなものである。 山頂に本郭があるが、平坦ではない。 中心部南に小さな祠があり、周囲にコの字形の小さな土塁が囲んでいる。 本郭に対して二郭と三郭が両側に翼を広げるように位置している。 二郭は南西の尾根を数段に分けて平坦化して築かれている。 三郭は北東の尾根を平坦化して築かれ、本郭より5m程低い。 |
これら3つの主郭の南東側斜面に数郭の腰曲輪が築かれ、駐車場のある場所の郭からジグザグに本郭に登る路が大手道であったと思われる。
三郭の北の駐車場を挟んで北側に神社のある盛り上がりがあり、ここは物見台があったものと思われる。
三郭北の神社の建つ郭。物見台 があったものと思われる。 |
三郭北の駐車場より三郭を見上げる。 | 三郭から見た本郭 | 本郭から大手道を見る。 |
三郭東の腰曲輪 | 本郭内部 | 二郭 | 二郭南の腰曲輪 |