倉ケ崎城(栃木県さくら市(旧喜連川町))

高さ50mのスカイタワーがある山が倉ケ崎城址であり、城址は「お丸山公園」として整備されている。
大蔵ヶ崎城、喜連川城ともいう。
 このスカイタワーのある場所は公園の駐車場や土産物屋があるが、ここが四郭である。

 城へは山麓の喜連川支所から登ることも可能ではあるが、登りがきついし、途中には城郭遺構らしいものはない。
ここは西側の道路を使い、この駐車場まで乗り入れるのが望ましい。

 築城は、源義家の孫である頼純を祖とする塩谷惟広と言われる。
 彼は源平屋島の合戦で戦功を上げ、源頼朝からこの地を賜り、文治二年(1186)に倉ケ崎城を築城したと言う。
 その子孫、喜連川塩谷氏は、戦国時代には宇都宮氏と那須氏の攻防の中、独立的立場で行動し、良く倉ケ崎城を守り抜いた。

 しかし、天正18年の豊臣秀吉の小田原の役で時の城主の塩谷惟久は秀吉からの物資や人の動員命令に対して期限に遅れてしまい、これで怒りを買った塩谷氏は倉ケ崎城を捨てて遁走し、ここに塩谷惟広以来400年に渡った喜連川塩谷氏は滅亡した。
 塩谷氏の滅亡を惜しんだ豊臣秀吉は、側室にした塩谷惟久の妻「島子」を通し、惟久の従兄弟の国朝と古河公方足利義氏の娘、氏姫を結婚させ、喜連川塩谷氏を復興させた。
 さらに国朝が他界してからは、氏姫を国朝の弟・頼氏の妻にし、足利家をも継続させ、ここに「喜連川公方」と呼ばれる足利家が復活した。

 その子孫は徳川幕府の下で5000石と旗本並みの知行ながら、10万石級の大名級の格式を与えられ、明治に至った。
 明治になると正式に足利氏を名乗った。江戸時代の喜連川足利家は倉ケ崎城のあるお丸山公園の下にあるさくら市喜連川支所付近に館を構えていた。
 城は実質的には小田原の役が終わったころ廃城になったと思われる。

 倉ケ崎城は、細長い山の尾根に大きな堀切を4本入れて郭を区切った連郭式の山城である。
 やや東側と北側に緩く傾斜する。
それほどの城とは思わなかったが、現地を見ると想像以上に巨大で豪快な城である。

 城のある山の比高は80mは優にある。南北の斜面は急勾配であり、要害性も高い。

 この城の最大の見所は堀であり、一の堀と二の堀は幅30m、深さ15m程度はある巨大なものである。これほどの堀はこの付近の中世城郭にはない。
この堀の形状は箱堀であり、底は堀底道となり、この道が帯曲輪に通じる。
帯曲輪は北側にはあるが、南側にはないようである。

 城址にある城図には一の堀の東側の郭が本郭とされているが、この郭は確かに内部は平坦であり、館は置きやすい。
が、果たしてここが本郭なのかは疑問が残る。

本郭にしては東側の堀は浅く、しかも西側の郭より低い位置にあり、防御性に問題がある。
 むしろ、一の堀と二の堀という巨大な堀で東西を仕切られた西側の二郭の方が防御性が高く、本郭に相応しいと思われる。
 ただし、内部が東方向、北方向に傾斜しており、居住性が劣るという問題はある。

もっともこの城は住民ぐるみの避難用の城でもあったと思われ、特に本郭、2郭は、多少傾斜していても短期の避難場所としては、それほど問題はなかったのであろう。
本郭、二郭の周囲にある一の堀、二の堀が三の堀、四の堀に比べて巨大なことも本郭、二郭が最終防衛拠点であったことを思わせる。
これに対して三郭、四郭は内部が平坦であり、広く、堀もそれほどのものではない。

この部分は城主の居館や政庁があった場所ではないかと思われる。、
四の堀がなかなか分からなかったが、駐車場の西側に通路としてちゃんと残っていた。
しかし、規模はそれほどでもない。
この城のある半島状の山は平坦部に続く西側が広く、こちらの方面の防衛を考慮する必要があったと思われるが、城郭遺構のようなものは確認できない。
最大の見所 一の堀 この写真では
浅く見えるが、右の写真では、
その巨大さが分かる。
最大の見所 一の堀 左の写真では
浅く見えるが、西側の二郭より見ると
その巨大さと麓からの城の高さが分かる。
二郭内は傾斜している。
これは北側を見たもの。
二郭の西側に二の堀に面して土塁
があるが、低くなっている。
二の堀、幅20m、深さ7mほど。 三郭。内部は公園、平坦で広い 本郭内部 本郭東の堀とその先の郭 
三郭の西側には土塁がある。 三の堀は幅10m、深さ3mほど。 四の堀は通路になって残存している。

鷲宿城(さくら市(旧喜連川町)鷲宿)

応永年間(1394〜1427)喜連川塩谷氏の塩谷朝宗が築城し、その子孫が代々居城し、岡本讃岐守義保が拠った事もあるという。
天正18年小田原の役で、喜連川塩谷氏、塩谷孝信は家臣岡本正親の陰謀によって小田原参陣の遅れ、倉ヶ崎城を退去し、鷲宿城に隠居したともいう。

この鷲宿城は、県道74号線を喜連川から矢板方面に5km走る。
この付近は内川が矢板方面から喜連川方面に流れ、川沿いは水田、南側は河岸段丘状になっている。
鷲宿城はこの河岸段丘沿い、鷲宿地区の松岩寺がその跡である。

寺は県道側から高さ5mほどある高台にあり、ちょうど河岸段丘の縁に位置する。
寺の北側下がなんとなく堀跡っぽい感じである。
寺の境内は周囲に土塁が巡りいかにも居館跡という感じである。
境内は50m四方程度である。
本堂脇の鐘楼台の土塁は櫓台の跡ではないかと思われる。
土塁の外側には堀はない。埋められたという感じもない。
どうも元々土塁だけしかなかったようである。
しかし、土塁の外はただの畑である。この畑にも遺構があったのではないかと思うのであるが?
北側から見た松岩寺。
まさに館という感じである。
岩松寺の北の切岸。下に堀があった
ような感じであるが?
境内に残る櫓台跡のような土壇。 本堂裏の土塁。土塁の反対側には
なぜか堀はない。