羽生田城(壬生町羽生田)
羽生田小学校の地が本郭及び二郭に相当するが、すでに小学校の敷地となって湮滅してしまっている。
かつては本郭部分のみを敷地としていたようで、本郭の櫓台(そこにあった明神社は破壊に伴い、三郭に移されている。
したがって、三郭の明神社、周辺は土壇状になっているが、これは移転時の改変によるものである。)や本郭周囲の堀、二郭などは完存状態であった。

しかし、小学校の拡張でこれらは破壊され、二郭は体育館やプールになってしまっている。
現在、残存しているのは小学校西側の三郭とその外側の曲輪の一部のみである。
しかし、これが凄まじい藪である。写真を撮ってもちっとも分からない。

その外側に四郭があったが、畑と宅地、歓喜院の墓地になっていて、堀の一部が残っているに過ぎない。
でも、この土塁、郭内からでも4mほどの高さがある。堀は土塁上から7,8mと凄い深さ、幅も15mほどもある大きなものである。

平城の防御はやはり巨大な土塁と堀に頼らざるを得ないことが良く理解できる。
ところで、これほどの立派な平城、まあ、よくここまで破壊したもんだ。

それも教育委員会によって・・・。
城は南側と東側が低地である。
当時は今、水田となっているこの低地は池だったという。
その池に面した比高15mほどの台地の隅に本郭を置き、その外側に扇状に曲輪を展開させた梯郭式の城であり、本来は300m四方程度はあったようである。
@四郭から見た堀越しの三郭 A三郭の土塁 B主郭部は羽生田小の敷地 C本郭の南西側の切岸

文亀年間(1501−1504)、壬生綱重が壬生氏の2つの拠点、壬生城と鹿沼城のつなぎの城として築城、重臣を配し、壬生義雄の時代には藤倉勘斎が居城していた。
壬生氏は戦国末期、北条氏にくみしたため、宇都宮・佐竹氏の攻撃を受け、天正13年(1585)に落城している。
その後、奪還されたようであるが、、天正18年(1590)、小田原の役で宇都宮・佐竹氏の攻撃で落城、壬生氏も北条氏とともに滅亡し、廃城となった。
(栃木県の中世城館跡、とちぎの古城、日本城郭大系を参考にした。)

壬生城(壬生町)
壬生町歴史民俗博物館が本丸に当たる。
本丸の南門部分の土塁と堀が残るのみである。

壬生氏の最初の本拠地であるが、近世城郭として使われたため、壬生氏時代の姿はほとんど分からない。
しかし、本丸部分はそれほど大きくはなく、壬生氏時代の城の縄張りをそのまま受け継いでいるように思える。

土塁は往時のままであるが、堀側は公園化にともない石垣が積まれている。
これは明らかにまがいものであろう。
土塁は高さ4mほどでありそれほどの規模ではないが、きれいに整備されている。
本丸を中心に3つの郭が同心円状に配置される典型的な輪郭式平城である。

築城は寛正3年(1462)壬生筑後守胤業による。
 壬生氏は始めここを根拠地にしていたが、鹿沼城に本拠を移し、壬生城は壬生氏のbQの城として一族が居城した。
天正4年(1576)当主、壬生義雄はこの城から鹿沼の本家を滅ぼして壬生氏の総帥に納まるが、小田原の役では北条方に付き、小田原城に篭城し、役直後に急死し、後継ぎがなかったため壬生氏は滅亡した。
 壬生氏のこの城での在城は5代128年であった。
壬生氏滅亡後、ここには結城直朝が入城し、その後、江戸時代は日根野、阿部、三浦、松平、加藤氏と目まぐるしく城主が代わり、正徳2年(1712)鳥居氏が3万石で入り以後10代を経て明治維新を迎えた。
本丸の土塁と堀。石垣はなかったは
ず?何となく違和感がある景色。
本丸の土塁を本丸内から見る。
この方向から見ると確かに本物である。

久我城 (鹿沼市下久我)
鹿沼市西部、県道14号線を日光方面に進むと、下久我地区に常真寺という寺がある。
この寺の裏の台地に築かれた平山城である。

この台地は北側の山から南に張り出しており、その末端部が城跡である。
結構、知られた城であり、城内に入る道や案内板くらいはあるかと思ったら、とんでもない。
地元の久我小学校の児童が描いた表示板が城址東側にあるだけであった。
これは非常のもったいない。

十分、見せられる価値のある城である。
どこから入って良いのかわからず、とりあえず常真寺裏手の墓地から向かう。

この常真寺自体も館を置くのにふさわしい場所である。
この墓地の北側にある土手自体が城址の南側を覆う土塁なのである。
その土塁間に空きがあり、そこから中を覗くと、でかい堀が、そして曲輪の塁壁がある。

しかし、笹竹が凄くて行けない。
そのまま、土塁上を東に歩く。
足のない奴が日なたぼっこをしている。
それを見たら一気に気が萎えた。

それ以上の突入は断念。しかし、この城の堀、凄い。
幅15m、土塁上からの深さ8mほどもある。
東端が本郭で60m四方ほどの広さ。
本郭よりその北側が高い穴城という感じである。
そのため、堀が巨大なのであろう。本郭の東側は崖である。
堀を介し、その西が西郭。
北側の曲輪は土砂採りで破壊されているという。

@常真寺は館跡か? A土塁間に開く虎口 B本郭と西郭間の掘 C本郭南側を覆う大土塁

築城年代や築城者は定かではなく、天文年間、京都の久我大納言清道の末孫久我式部大輔常真が勅勘をこうむって当地に下り居城したという話があるが、これは眉唾もの。先祖を高貴な身分の者に結びつけるための捏造だろう。
だいたい、貴族が戦国時代、いきなりやってきて城など築けるわけがない。
その常真を供養した寺が常真寺という。
当時、ここは佐野氏の領土だったので、築城した久我盛綱は佐野氏家臣であり、久我はここの地名を名乗ったものだろう。
久我氏は天正15年(1587)に滅亡し、城も廃城になったという。
(栃木県の中世城館跡、とちぎの古城、日本城郭大系を参考にした。)

鹿沼城(鹿沼市)
鹿沼市役所の西側にある山「御殿山」が城址であり、御殿山公園となっている。
城へは市役所南側の細い道を昇っていく。武道館と球場に駐車場があるのでそこに車まで車で行ける。

武道館の地が三郭であり、その下のテニスコート付近も城域であったというが、武道館と球場間の切岸がかろうじて城郭遺構であることを感じさせる。
本郭はなんと野球場である。野球場のフィールド部分が本郭であったという。
野球場の外野部とその外側の駐車場が二郭であったという。

野球場の南側が駐車場になっているが、この部分の外周に二郭の外側の土塁が一部残っている。
「栃木県の中世城郭」掲載図を見ると、この土塁は周囲をぐるっと覆っていたようである。
ここ以外の土塁は破壊されているようである。

ほとんど遺構は失われていると聞いていたが、本郭の南側斜面に豪快な横堀がちゃんと残っている。
結構、カクカクしており、横矢がかかった技巧的なものである。
しかし、未整備で草が茫々という有様である。

本郭の西側に忠魂碑が建つ大夫殿は50m四方の大きさであり、本郭より7mほど高い。
どちらかというとここの方が本郭といっていいかもしれない。
東側を除いて高さ1.5mほどの土塁がめぐる。
大夫殿の西側は崖状であり、下の道路まで15mはある。ここは天然の谷をさらに深くした堀切跡のようである。
この堀切の西側の山に坂田山の出城があるというが、そこには行かなかった。

鎌倉中期、この地の豪族、鹿沼権三郎入道教阿が、今の鹿沼城の西に位置する坂田山の山頂に館を構えたのが始まりという。
鹿沼氏は日光山に深く係っていたという。
しかし、この鹿沼氏は綱勝の代、大永3年(1523)に宇都宮氏と対立、宇都宮忠綱の重臣壬生綱重の攻撃をうける。
鹿沼氏は敵将の山野井称監を討ち取る奮戦をするが、敗退して鹿沼城が落ち、鹿沼氏は滅亡する。
鹿沼氏を滅ぼしたことで宇都宮氏は日光領を掌握し、鹿沼城は壬生綱房に与えられる。

壬生綱房は、坂田山館を出城とし、東側の御殿山を中心に戦国城郭に改修し、本拠とする。
後に壬生氏の統帥として鹿沼城に入った壬生義雄は天正18年(1590)、小田原の役で北条氏に味方し小田原篭城中するが、その間。宇都宮、佐竹、結城勢に攻められて落城し、壬生氏も滅亡、城も廃城となる。 

三郭から本郭に登るこの道は
かつての大手道であろう。
二郭南東側に土塁が残る。撮影位置
はかつての二郭の地に当たる。
本郭の南斜面に豪快な横堀が巡る。
ただし、未整備で藪状態である。
本郭南下の堀底。
本郭は野球場である。周囲を堀と
土塁が巡っていたというが、湮滅。
本郭西側には大夫殿という一段高い
場所があり、忠魂碑が建つ。
大夫殿の周囲には高さ1.5mほどの
土塁が巡る。
大夫殿の西側は天然の大堀切がある。
堀底は広い道路になっている。

この壬生氏であるが、寛正3年(1462)公家の壬生胤業が下野国都賀郡に下向し土着して興した家という。
しかし、別説では宇都宮氏から別れた一族ともいう。いずれにせよ壬生氏は宇都宮氏の一門、家臣あるいは反逆者として名が出てくる一族である。
壬生氏の当初の本拠地は当然ながら壬生城である。

永正年間(1504〜20)に壬生綱重が鹿沼氏を滅ぼすと、鹿沼城は壬生氏与えられ、綱重は本拠を鹿沼城に移し、壬生城には子の綱房を置く。
綱房は大永六年(1526)、宇都宮忠綱が結城氏と戦うために出陣した隙をつき、芳賀興綱と諮り宇都宮城を乗っ取る。
忠綱は鹿沼城の壬生綱房を頼るが、逆に綱房に毒殺されてしまう。

宇都宮氏は芳賀氏から興綱が戻って継ぎ、綱房は興綱のもとで、第一の家臣となり実権を握る。
しかし、綱房は宇都宮氏本体も乗っ取る計画であったようであり、天文元年(1532)、本格的に主家乗っ取りに動き始める。
まず、芳賀建高、高経父子、塩谷孝綱らと共謀して、興綱を強引に隠居させ、興綱の嫡男尚綱に継がせ、主権を奪う。

次に天文7年(1538)、ライバルの芳賀高経を殺す。一方、天文18年(1549)、宇都宮尚綱は五月女坂で戦死してしまう。
この機を捉え、綱房は宇都宮城を占拠する。この時、芳賀高定は、尚綱の遺児伊勢寿丸(のちの広綱)を城外に連れ出して匿う。
こうして綱房は実質的に宇都宮氏を支配するが、芳賀高定は千本資俊を調略して那須高資を暗殺させ、まず、那須氏を抑え、綱房への反撃に転じる。
こうした中、弘治元年(1555)壬生綱房が急死する。(高定による暗殺といわれる)

綱房のあとを継いだ綱雄は、弘治3年(1557)に広綱の宇都宮城帰還により、鹿沼城に退くが、永禄5年(1562)、広綱によって謀殺される。
鹿沼城は綱雄の叔父周長が城主となるが、彼は宇都宮氏との融和を図る。
しかし、天正7年(1579)綱雄の子義雄がいる壬生城を襲い敗死する。

このころ、壬生氏内部は分裂していたようである。
これは家を2つに分け、北条と宇都宮・佐竹連合に2股をかけて生き残りを図ったのではないのかと思われる。
しかし。綱雄の子義雄が叔父周長を倒したことで、壬生氏は北条氏側に大きく傾く。
天正七年、義雄は鹿沼城に入り、北条氏をバックに宇都宮氏と対戦する。

このため、佐竹・宇都宮氏連合の主要ターゲットとなり、徹底的に攻撃され、領土は蹂躙されて荒れ果ててしまう。
そして、天正18年(1590)小田原の役であっけなく壬生氏は滅亡する。
壬生義雄は小田原城に籠城するが、その間に留守の鹿沼城は佐竹・宇都宮連合軍に攻略され、小田原城が開城すると義雄は直後に病死し、男子がいなかったため、系統が絶えてしまう。
なお、娘の伊勢亀は父の病死後、一色右兵衛大尉の妻となり、壬生氏滅亡後も旧臣の尊崇を集め、寛文五年(1665)85歳の長寿を保ち鹿沼に没した。

千渡城 (鹿沼市千渡)

鹿沼市街地の北東にあり、戦国末期、宇都宮氏を離れ北条氏に付いた鹿沼城の壬生氏に対抗するため、宇都宮国綱が天正年間(1573〜91)に築いた城という。

しかし、この城は120m四方ほどの方形の館であり、とても戦闘用の城という感じではない。
城の南東、鹿沼側に武子川が流れており、これが天然の水堀となる。
現在は江戸時代、宇都宮の下飯田から移転してきた宝性寺の境内となっている。
遺構は寺の境内の周囲に堀が1周、完存し、土塁が西側と南側に残る。
土塁は曲輪内から1.5m程度、堀の深さは1m〜3mくらい、堀幅は4m〜5mである。
虎口は南北2箇所であったと思われ、山門の位置が本来の大手門に当たる。
現在残る遺構は、単郭の方形館であるが、その周囲にも遺構の残痕らしいものが存在し、複郭であったのではないかとも思われる。
城主としては、宇都宮氏家臣、宇賀神氏といわれる。
この城も慶長2年(1597)宇都宮氏改易のときに廃城となった。
南側の堀 宝性寺の山門の地は本来の虎口という。

深津城 (鹿沼市深津)

宇都宮市との境、鹿沼市南東の深津地区にある。
この地にある延命寺を中心とした地が城址である。
城の東を流れる武子川が天然の堀であり、川の東は宇都宮市である。
宇都宮城の支城であり、宇都宮城の南東4qに位置する。

永禄年間(1558〜1569)に宇都宮広綱の家臣小林豊後守が築城し、慶長2年(1597)、宇都宮氏の改易に伴い廃城となり、小林氏はこの地で帰農した。
その子孫は今も城内に居住している。

延命寺の西側に二重の堀があり、内側の堀は用水路を兼ねた水堀である。
この堀は境内の南側で東に曲がり、その先に本郭と推定される周囲を堀で囲まれた60m四方ほどの広さの曲輪がある。
ほとんどは竹藪状態でどうなっているのか分からない。

延命寺の北側、東側の遺構は湮滅しているが、延命寺を中心とした曲輪は150mほどの広さがある。
城域は東西300m、南北400mくらいと推定されている。
城址である延命寺境内 延命寺西側一重目の堀 延命寺西側二重目の堀