大桶城(那須烏山市大桶)36.7078、140.1500
那須一族、大桶氏の城である。
根古屋城とも言う。
4つの曲輪からなる城であるが、烏山城CCの敷地となり、残存しているのは東出曲輪とその周囲の帯曲輪のみである。
那珂川の対岸は松野である。
那須一族と敵対する佐竹氏に従う松野氏の本拠、松野南城と対している最前線の城でもある。

↑ 北東側から見た大桶城、東出曲輪、右側が本郭になるが、曲輪のほとんどはゴルフ場となり湮滅している。
本郭の東側の土塁もかろうじて残存している。
東出曲輪の標高は151m、那珂川沿いの低地からの比高は約55mである。

@土塁間に開く曲輪内への入口 A東出曲輪の周囲を土塁が覆う。
B @の虎口から下る通路 C周囲を巡る帯曲輪 僅かに残る本郭の土塁。この先はゴルフ場のグリーン。

東出曲輪は40mほどの径があり、周囲を土塁Aが覆うが曲輪内はド藪でさっぱり分からない。
西側に虎口@があり、坂虎口がジグザグに下りB、下の帯曲輪Cに合流する。

帯曲輪は土塁上から約5m下にあり、切岸は鋭い。
さらに下側にも帯曲輪が巡り、竪堀で結ばれる。

新地館(那須烏山市大桶)30.7163、140.1532
那須烏山市中心部から国道294号線を約5q、大桶地区にある三島神社の境内が城址である。

@ 国道294号線脇に建つ三島神社の鳥居 A 三島神社の社殿が土塁間に見える。 C 土塁の外側は掘であるが・・藪!

北が大桶運動公園である。那珂川の西岸に位置し、運動公園側は川が流れる谷になっている。
那珂川に面した部分が岩がむき出しの崖Eになっている。
那珂川水面からの比高が約12mあり、那珂川方面からの攻撃は難しい。


B 館内部周囲には土塁が折れを持って巡る。

この合流点に館があり、約100m四方の大きさがあるが、方形ではなく、高さ約2.5m土塁が川に面していない西側と南側に築かれる。
さらに土塁は角々に折れBており、その外側を幅約10mの堀Cが覆う。
南側に虎口があるが、桝形虎口または馬出になっていたようである。

D 北東端部の土塁は横矢がかかり、櫓があったのでは? E那珂川に面した部分は崖である。 F大手虎口を出ると・・凸凹の地形が。これ何だ?

ここが大手であろう。
ここを出ると不思議なものがある。古墳のような盛り上がりFが林の中にボコボコある。
全く規則性はなく、ランダムである。これが館に関係するものなのか、関係ないものなのか、見当がつかない。
個人的には館とは関係ないのではないかと思うが・・しかし、何に使ったのだろう。

国道から参道が延び土塁間を通ってA郭内に入る構造であるが、後世、土塁を切ったようにも思える。
郭内にはさらに曲輪があった感じはなく、単郭の館であろう。

この付近の平地城館としては最も良好に遺構を残すが、館の歴史は明確ではない。
地元で単に「古館」と呼ばれていることからもそれを裏付けている。
大きさからすれは大型の居館という感じである。

那珂川の対岸下流には松野城があり、那須氏と敵対関係にあった松野氏の領土である。
また、対岸上流側は武茂氏の領土である。したがって那珂川が勢力の境界である。
那須氏側の松野氏、武茂氏に対する城であることは間違いないであろう。
「新地」という名前からして比較的新しい時期に築かれた館と推察される。
これだけ明瞭な遺構が残っているのに不思議な話である。

神長北要害(那須烏山市神長上)

「かなが」と読む。
訪れた多くの人が「凄い城」と言う評判の城である。

その評判どおりの「凄い城」であった。規模的には全長150m、幅50mほどの大きさの基本的には単郭の城である。
しかし、堀の見事さと深さ、切岸の鋭さ、技巧、全ての点について「メリハリ」があり、間違いなく「S」クラスの城である。
那須氏の城、どこも素晴らしい城が多いが、その中でもエクセレント。

この城に匹敵する那須氏系の城なら「福原要害」と「沢村城」かな?
こんな凄い城ができるのも、いつも佐竹氏や宇都宮氏の侵略を受けていたためと思われる。
この城、付近まで攻め込まれたこともある。
その緊迫感がこんな気合の入った城を造り出したのであろう。茨城北部の佐竹氏のボケた城とは大違いである。

でも、なぜかこの城には縁がなく、この周辺の城にはほとんど行ったものの、ここは取り残していた。
この城についての記録はないが、位置的に烏山城の西を守る出城と思われる。

烏山城からは西に約800mという至近距離であり、烏山城からの山道をたどればたどり着く、多分、普段は管理人程度しかおらず、緊急時のみ要員が烏山城から派遣されたか、あるいは西下の集落から詰めたものであろう。
南西の麓に館跡と推定できる場所があり、そこに、城の管理人がいたのであろう。

城は「風月カントリークラブ」から尾根伝いにも行けるが、このルート、高低はないが、倒木だらけの林で、とんでもない時間がかかる。
何と管理人はそのルートで行ってしまった。
尾根伝いの高低差のないルートなので楽じゃないのか、小道くらいはあるだろうとの安易な発想からである。
しかし、このルートは絶対選択してはならない。
道なんかある訳がなかった。
山中放浪の末、あきらめて下山しようとして偶然にこの城にたどり着いた。

下山ルートに選んだ尾根の末端にあったのである。
結果として、ここに簡単に行くなら、南西下の梅林から入る道がある。
県道25線沿いの神長神社と観音寺の間を東に入る道を行けばよい。
さらに南東下にため池付近まで進んで、その西の山を目指してもよい。

その城であるが、東の山地から南に派生した尾根の末端部にあり、標高は160m、比高は60m弱である。
尾根をいきなり大きな堀切(写真@)で分断する。これが目の前に現れるとびっくりする。
この堀切が主郭部の北端である。
本来ならもう1本、堀切を置き必要があるような気がするが、それはない。
出城だからこんなもので良いという判断であろうか?

でも、山側に迂回され、攻撃されたら、この堀切1本では心もとない。(烏山城からの兵とで挟み討ちにすれは良いとの発想であろうか。)
この堀切、山がどうしても北側の方が高いので、大規模なものになる。
今でも深さは5m以上あるので、当時は8mくらいあったのではないだろうか?

堀切から西側に横堀(写真A)が延びる。この横堀は見事なものである。(この西側の横堀の北側斜面は崩壊しているので危険である。下に帯曲輪が存在していた可能性もある。)
ここも埋没しているようであるが、現在の状態でも主郭の上まで高さ8mほどある。

南側は竪堀が下るが、東側にも横堀がある。
この横堀の底からも主郭は高さ8mほどある。
なお、東側の横堀の8m下に帯曲輪があり、さらにその下にも帯曲輪が1つある。
南側はかなり変わっており、横堀の途中から主郭方向に1本の土塁が延び、主郭に入るようになっている。
(写真C)これが大手道であろう。

主郭は80m×20〜25mほどの細長い形をしている。
北側の堀切に面して櫓台(写真B)があり、2段になっている。
面白いことに櫓台の付け根に拳大の石がごっそりある。
多分、投石用のものであろう。
この城の位置関係からすると、想定の敵は「宇都宮氏」である。
この石は宇都宮軍の兵士にぶつけるためのものということになる。
果たしてそういう事態が実際、起こったのかは分からない。

主郭の南には土塁(写真D)がある。その先が大きな堀切(写真E)である。深さは6mほどか。
土塁間に空があるが、ここに南の堀切に下りる梯子がかかっていたのではないかと思われる。
この土塁上から西を見ると、大きな竪堀が下っている。
東側にも竪堀が下る。
南西の麓から見た城址。正面部分から上がれる。 @ 北端にある堀切。 A 西側の横堀
B 主郭北端の櫓台 櫓台には拳大の石が。投石用だろう。 C 主郭東に虎口が開く。
D 主郭南端の土塁。 E主郭南側の堀切 F 馬出の横堀

南側に一辺30mほどの大きさの三角形をした馬出のような副郭があり、横堀が覆う。
東南側の横堀(写真F)は竪堀状に付けられており、登城路でもある。
この横堀の間から麓に下る道が付いている。

したがって、主郭に入るには、青の点で示したように、馬出の南東の横堀⇒馬出⇒主郭南の堀切⇒主郭東の横堀の土塁⇒主郭という、曲がりくねった道を行くことになる。
副郭の南下15mほどにも帯曲輪が2つある。
さらに下ると梅林になっている館跡のような場所になる。

神長大堀と神長南要害(那須烏山市神長中)

この城も到達できそうでできなかった城である。

以前、「那須の戦国時代」の城跡の位置マークを頼りに行ったら、「神長トンネル」の上であった。
2006年3月のことである。
そので見たものは、右の写真の深さ8m、幅15m、全長60mの大堀切・・。

確かにこれも遺構である。
しかし、この大堀切の周囲には城郭遺構らしいものがない。
北側に平坦な曲輪のようなものがあるだけであった。一応「神長大掘」とする。

要害なら曲輪もあるはずであるが、周囲はただの山に過ぎない。堀切というよりこれは巨大切通である。
したがって、城館遺構とは言えない。
掘った工事量、かなりのものである。でも今では誰も通らない。

烏山城から南西方向に向かう最後の切通しであり、ここを通れば、江川の流れる低地である。
標高は168m、西約700mを流れる江川からの比高は約70mある。
普通ならこの切通しに関を設け、烏山城に向かう街道を抑えるのが常道である。
しかし、関所施設はない。

この切通しが見える県道10号線旧道が通る谷の西の山に神長南要害が立地するのである。
神長南要害が関所と西方向の防衛施設の役目があるのであろう。

「神長南要害」はここではなかったが、その大堀切から県道10号線旧道の走る谷間の反対側、西側の山にあった。
この山の標高は160m、比高は60mほどである。

あの山中放浪から4年後、やっと「神長南要害」に到達。
行くのは簡単であった。
でも、なぜか縁がなかった。

この城も烏山城の南を守る出城であろう。「神長北要害」ほどの遺構の鋭さはないが、遺構が良く残っており、素晴らしい城である。
烏山城からは南西に約1qほどである。

ここに行くには西側、神長中にある市営神長住宅南から山に入る林道を登って行けば良い。
この林道は烏山小学校の北側に出るので逆ルートで行っても良い。

林道とは言え、舗装されており、急でカーブはあるが、車で走行することには問題はない。
途中に道が少し広がった場所があり、そこに車を置ける。そこから少し北に戻ると北側の杉林の山に入る車の乗り入れがチェーンで閉鎖された道がある。
そこを登って行く。すると天文台だったという廃墟(写真@)がある。
この廃墟の裏が城址であり、廃墟の裏に横堀が横たわる。
そもそもこの廃墟の場所も城域であった可能性もある。

廃墟の西側に土塁が延びているので、建設によって土塁が破壊されているようである。
この廃墟の建つ場所も結構、平坦である。建設工事で平坦にされた可能性もあるが、もともと平坦な場所であったのかもしれない。
ここまで来るチェーンで閉鎖された登り口の鞍部には堀切のようなものがあり、杉林内には段差もある(植林に伴うものか?)ので、この廃墟のある南側の部分も住民の避難スペースとして利用された場所であったのかもしれない。

肝心の主郭部は2つの曲輪からなる。廃墟の北側の曲輪(二郭)は30m×50mほど。
馬出のような曲輪である。
この構造は「神長北要害」とも似る。

西側以外に横堀を持つが、内部はただの山で削平されていない。東側、県道10号線旧道に面した部分の勾配が緩やかであり、こちらにも登城路があったようである。
ここを県道10号線の旧道側に下り、烏山城に一直線、最短距離で行くとすると、例の神長トンネルの上の「大堀切」を通ることになる。
(旧道から大堀切までの道は蔦などで完全に閉塞された状態)
曲輪Uの北側が本郭であるが、その間に堀(写真A)があり、この堀は西側は竪堀となり、東側はぐるりと本郭の東下を回る。

本郭には土橋を介して入る。
本郭の内部はきちんと削平されており、80m×20〜40mほどの台形をしている。
西側以外には土塁(写真B)があるが郭内からは1mほどの高さに過ぎない。
これでは風避けにもならない。

曲輪内は杉が植林されているが、ほとんど管理されている感じはない。
しかし、それほどの藪ではない。
虎口は南側の曲輪U側の他、西側にもあり、西側の横堀に下りれる。

本郭の周囲は全面に横堀(写真C)が巡る。
堀底から郭までは高さ6mほど。かなり高い。切岸も結構、鋭い。
北西側に尾根が延び、尾根の途中に堀切(写真E)がある。
横堀の北側の土塁間が開いており、下8mに腰曲輪(写真D)があり、帯曲輪が東側を巡る。
さらに下に曲輪がある。
ここからも登城路が下る。下った場所が神長トンネルの位置口部である。

この城の構造、性格等についてはmasaki氏の「栃木県の中世城郭」、ウモレンジャーの「埋もれた古城」、「余湖くんのホームページ」に詳しいので参考に。

@ 南側にある天文台の廃墟、ここも曲輪か? A 二郭、本郭間の堀 B 本郭東の土塁。かなり低いものである。
C 本郭東側の横堀 D 北下の曲輪。 E 北西に延びる尾根の堀切