大谷津城(市貝町大谷津)
市貝町杉山の交差点を県道176号線に沿って北に約2Km走ると、集落の中の道沿いに「大谷津城址200m」を示す案内板がある。
人家の間の私道のようなこの道を上がっていくと直ぐに大きな竪堀のような切り通しがある。
どうも本物の大手登城路のようであり、道は右にカーブしている。
ここだけは文句なく素晴らしい遺構であるが、結局、この城の見所はここだけなのである。

ここを上がると一面の荒地に出る。一番北が本郭であるが、その間に4個の曲輪がある。
そのうちの3番目の曲輪(郭V、三郭)がここである。東西70m、南北50mほどある。

かつては畑であったようであるが、耕作は放棄され、藪だったようであるが、ラッキーなことに、ちょうど草が刈られている。
しかし、内部は平坦ではなく、ゆるやかな球面状である。この曲輪の南側に杉が植林された腰曲輪が1つあり、西側に腰曲輪が延びている。

北が郭U(二郭に相当する曲輪)であるが、郭Vとの間に堀が存在していたという。
郭Uは50m四方ほどの大きさであり、西側には土塁が残る。この郭Uも平坦な曲輪ではなく、南に向かって傾いている。内部は杉が植林されている。
郭Uの西側下には大きな腰曲輪があり、内部は竹やぶである。
郭Uの北端が3mほどの切岸となりその上が本郭である。
この切岸、東側で少し突き出しており、東端は竪土塁のようになっている。本郭は60m四方ほどある大きさであるが、ここも平坦ではない。
西側は郭Uが延長されて覆っており、そのさらに西下8mには腰曲輪が回っている。
ちょうどこの下に鏡池という井戸があったらしい。
本郭の北側は急坂で下10mに社がある曲輪があり、堀がある。
一方、本郭の東側は尾根状になっており、堀切があるらしいがやぶで確認ができない。
連郭式に並ぶこの主郭部の東下7mには幅30mほどの細長い畑があるが、これは堀跡であろう。それとも曲輪か?

結局、しっかりした感じなのは、大手登城路と西側の腰曲輪くらいである。
主郭部がいやにだらだらした感じであるが、本来は平坦だったのではないだろうか

築城は永正年間(1504〜21)、那須氏家臣大谷津伊勢守藤永というが、初代は政永という説もある。
大谷津氏は那須一族千本氏の陪臣であり、千本氏没落で大谷津氏も没落し、城は廃城となったという。

この城最大の見所の大手道。凄いのはここだけ。 大手道を上がると郭Vである。歪んだ感じである。 郭U(右側)西側の土塁。左が腰曲輪。
郭Uから見た本郭(T)の切岸。3m程度しかない。 本郭内部。この内部も平坦ではない。 主郭部の東側に堀(曲輪?)がある。

田野辺城(市貝町田野辺字宿北)

県道338号線沿い田野辺地区にある慈眼寺の東側一帯が城址である。
ここは南から北に張り出した丘先端部であり、北側は桜川の谷、東が谷津、西が水田地帯である。
慈眼寺境内が西端の郭で、土塁が寺の東側と北側に残る。
寺の南側が窪んでいるが、これは堀跡のように見える。
遺構は耕地整理でかなり破壊されたという。
それでも田の切岸は城の塁壁っぽく、段郭の跡らしい。
本郭は50m四方の大きさであり、周囲に土塁があったらしいが失われているが、形状は残っている。(下の写真)
田野辺城は千本城の支城の1つであり、東2kmに千本城が位置する。

永正2年(1505)二千本美濃守資家が、千本城の出城として築いて、弟の三郎資重を置いたという。
これはすぐ南に位置する宇都宮氏重臣益子氏系の「村上城」に対する備えであろう。
北側から見た本郭。かつては土塁が巡っていたという。 本郭南東端の櫓台を堀切から見る。

その後、資重は田野辺氏を名乗るようになる。
三代目、重之の時、天正13年(1585)12月8日、千本氏が断絶した時(千本城が落城?)、田野辺城も同時に落城したという。
慈眼寺は、二代、資辰が建立した菩提寺という。
しかし、それ本当か?
本堂に付いている家紋、佐竹扇じゃないか!
(「芳賀の文化財」参考。)

慈眼寺参道にある城址案内。
しかし、主郭部は寺の西側である。
慈眼寺南下に堀状の窪みがあるが・・。 慈眼寺の東側にある土塁。 慈眼寺北側に残る堀と土塁。
慈眼寺北に残る曲輪の切岸。 慈眼寺北の土塁 慈眼寺本堂 慈眼寺本堂の屋根には何故か佐竹扇が

続谷城(市貝町続谷字堀ノ内)
杉山城下で大谷津城と反対方向、烏山方面に県道163号線を走ると妙恵寺がある。
この妙恵寺の南西一体が城址だったという。おそらく妙恵寺境内も城域であったと思われる。
県道163号線沿いに「続谷城址100m」という案内板がある。
ここを上がると平坦地が2段ある。上の段は畑とパターゴルフ場である。
当然、この平坦地の上の山に城の主郭部があるのかと思い向かうが、どこから行っていいか分からない。
ここには妙恵寺からすんなり行ける。

山の上には土壇があり、思わず期待するが、これは古墳なのだそうだ。とは言え物見台には使っていたのであろう。
この先、北に尾根が続き、こちらに堀、土塁があるはずと思い向かうが、行けども、行けどもただの山である。
結局、50m四方の畑と70m×40mほどの広さのパターゴルフ場が城の主体部分の本郭(T)と二郭(U)なのだそうである。妙恵寺のある場所も城域らしい。
本郭の北側に三郭(V)があったらしいが、行かなかった。
つまり、山の中腹斜面に平坦地をつくり、そこが城という訳である。
とても城とは言えそうにないが、居館にしてもおかしい。第一、背後の山が全く無防備である。
岩櫃城のように、背後が絶対その方面からは来れないような険しい山なら無防備でも問題ないが、この裏山、緩やかで問題なく歩ける。
いくら居館としても、戦国時代にはこれは有りえない造りである。すごく平和な時代の居館である。
したがって、戦国期の城とはとても言えない。
築城説は、永禄年間、文亀年間の2説あるが、これは本当だろうか?
この時期は、バリバリの戦国時代である。本当は室町前期じゃないのだろうか?
「那須記」では、城主、那須氏家臣、続谷織部は永禄9年(1566)佐竹氏に追い散らされたあるいは佐竹義重に攻められて落城したという記録がある。
でも、逃げたのなら理解できるが、この城では絶対に戦うことなどできないであろう。(芳賀の文化財参考。)
県道脇の案内板 ここが本郭(T)ただの畑である。 二郭(U)はゲートボール場
背後にある古墳は物見台か? 妙恵寺の場所も曲輪だろう。 背後の山はなだらかで無防備

杉山城(市貝町杉山)

市貝町北部、市貝町役場から北に3.5km、小貝川の上流、南那須方面に向かう県道176号線と烏山方面に向かう県道163号が分岐する杉山地区の北から南に張り出した標高150m、比高約45mの尾根先端部にある。

尾根先端部東側に城址までの案内板があり、この道を上がると城址に行けるが、これが曲者。道はお堂のところで止まり、その後どちらへ向かえば良いのか分からない。
正解は右に回りこんで登るであるが、それを知ったのは城から下りる時であった。
結局、お堂の裏から得意の直攀となった。
このため、藪の中を突破することになる。山の斜面の勾配はかなりきついが、頂上部に出ると比較的フラットである。
主郭部は先端部から尾根を少し北に行った場所にあった。藪の中に良好な状態で遺構が眠っている。
郭の周囲に横堀を回す那須氏の城郭特有の特徴を持つ。本郭は50m四方程度の広さを持ち、周囲を横堀が巡る。
横堀の外側にもきちんとした土塁が構築され、特に東側の土塁はしっかりしている。
その土塁の外側には腰曲輪がある。堀幅は8m、深さは4mほどであるがさすがに結構埋没している。
郭内には土塁があったようであるがそれほど高いものではない。南側と西側に虎口があり、南側の虎口を出ると土橋がある。
南西に延びる尾根にも曲輪があり、西側に堀がある。
本郭の北側は二重堀となっており、その北に曲輪Uがある。

この二重堀間にある土塁は幅が10mほどあり、土塁というより曲輪と言ったほうがよい。
この曲輪内部は杉が植林されており藪はない。40m×30m程度の広さであり内部はフラットである。
その北には堀があるが、堀の先はなんと「ぶどう畑」である。この畑も城域の一部であった可能性もあるが、徐々に下りとなるのでここが城域の北端なのかもしれない。
本郭の東側には訳の分からない場所(W)がある。思わず「あれ?館跡?」と思う場所であるが、どうも重機で土を削り取った場所のようである。
この城についての歴史は不明である。
しかし、城の構造の特徴から那須氏系の城郭と考えてよさそうである。
おそらく千本城の支城ではないかと思われる。
すぐ南は益子氏の領土であるので那須領の南を守る城であったのであろう。

南から見た城址。 本郭南側の横堀。 本郭南に虎口が開く。 本郭西側の横堀。
曲輪U内は植林され整然としている。 曲輪Uの北側の堀跡。その北は何とぶどう畑である。 本郭の東側のV地点。城郭遺構ではなく、重機で土取りをした跡か? 本郭南東の堀外の土塁下は腰曲輪状になっている。

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