舟戸城(芳賀町西水沼字舟戸)
市貝から宇都宮に向かう国道123号線沿い、芳賀の西水沼交差点を過ぎて1kmほど行くと西側に山が見える。
この山が宇都宮氏系の城、舟戸城である。
国道123号はこの山の先端下を通り、慈照寺がある丘にあがって行く。
城のある山は北西側から半島状に張り出しており、東側に野元川、西側は小川が流れる低地である。
城郭遺構のある部分は先端近くの比高20mの部分であるが、先端部がだらだらした感じのため、若干、奥まった部分に主要部を置く。
台地上西下の道沿いに「舟戸城跡」という案内板があり、その矢印に従って丘に上がって行くと城址である。
南北に3つの主郭があるが、位置的に本郭と推定されるのは真ん中の墓地になっている郭Tであろう。
ここを(違うかもしれないが)とりあえず本郭とする。
残念ながら曲輪内の遺構は失われている。 しかし、この墓地の東を除く3方向は堀が存在するのである。 南北にある堀は堀切であるが、西にある堀は横堀であり、南側の曲輪を含めて、西側をカバーする。 墓地の南の藪の中に郭Uがあり、本郭との間には土橋がある。 この郭の北東側に抉れたような意味不明の堀のような窪みがある。井戸であろうか。 この曲輪、東が高く土塁状となっており、所々、櫓台のような高まりがある。 東側は急勾配であり、下に民家が見える。 この民家の地が居館址であったらしく、東側に堀があった。 |
郭Uの西側は緩やかに傾斜しており、内部が整地された感じはない。 その先が横堀である。 横堀の西側下には土塁のようなものが見えるが何だかよく分からない。 その下はもう民家である。 多分、この民家あたりも曲輪だったのであろう。 郭Uの南側に虎口が開き、その先が堀切である。 この堀切から東下の民家方面に下る道がある。 この道が居館と城をつなぐ道のようである。 その南側Xは、城という感じではなく、南に緩やかに傾斜しているただの山である。 |
西下の道沿いにある城址案内板 | 本郭、郭U間の堀、横堀との合流箇所。 | 郭U北東側にある堀のような遺構。 | 郭U北東端の櫓台? |
郭U南東端の櫓台。 | 郭Uの南側に開く虎口。 | 郭U南側の堀は東下の居館に通じる。 | 本郭、郭Uの西側を覆う横堀。 |
本郭北側の堀。 墓地造成でかなり埋められている。 |
郭Vの西斜面にある溝。石で固めら れているがこれはなんだろう? |
郭V、W間の堀。笹薮! | 東側から見た主郭部。 青い屋根の民家が居館跡らしい。 |
築城説は2説あり、応永年間(1394〜1428年)水沼勝侶が築城説と、天文年間(1532〜55年)水沼五郎が築城説である。
戦国末期、宇都宮国綱時代の二荒山神社に収めた宇都宮氏の家臣名簿に、「風見信濃守住す」とあり、この頃の城主は風見氏であったようである。
(航空写真は国土地理院昭和49年撮影のものを切り抜いた。)
(「芳賀の文化財」参考。)
平石館(芳賀町下延生字綾住)
芳賀町の中心、祖母井の南1.5km、市貝町境付近の水田となっている場所が館址という。
延生寺跡が館址だと思って写真(右)を撮って帰宅したら、この北西200m付近が館址で、この延生寺は、館主、平石氏の菩提寺であったのだそうだ。
その北西側、やっぱり田んぼだった。 でも大正時代までに土塁や堀は存在していたのだそうだ。 館主の平石氏は、宇都宮氏家臣、祖母井信濃守吉胤の弟、平石紀伊守高治が興したという。 平石氏も慶長2年(1597)、宇都宮氏が改易となった際に、祖母井氏同様、改易されてしまったという。 館もこの時、廃されたのであろう。(「芳賀の文化財」参考。) |
水沼城(芳賀町東水沼字宿)
芳賀中学校の南西1km、国道123号と県道156号線が交差する西水沼交差点の北1km、西に野元川が流れる「水沼宿」という集落にあったという。
別名「宿の古城」ともいう。
ここも宅地化や水田となってほとんど遺構は分からないが、良く観察するとやや微高地となっておいるのが分かる。
道沿いの民家の敷地内を見ると、土塁の跡のようなものがある。
これが遺構かどうか分からないが、その可能性がないとも言えない。
明治初年ころには、稲荷神社に堀があり、土塁があったという。「本丸」「中丸」「櫓下」といった字名も残っているという。
この城は、頼母玄番守の城であったが、宇都宮氏により滅ぼされ、水沼五郎入道の城となったが、水沼入道も宇都宮氏の改易に連座して滅亡、廃城となったという。
いずれも伝承の域を出ない。(「芳賀の文化財」参考。)
何となく曲輪跡のように見えるが? | こっちも曲輪跡のように見えるが。 | 民家の中に・・これって土塁じゃ? |
高橋城(芳賀町東高橋)
市貝から宇都宮に向かう国道123号線沿い、北側の水田地帯に中にポツンと高橋神社がある。
この周辺が高橋城であったらしい。
周囲は水田になっており、遺構は高橋神社の境内の西側に土塁が認められるだけである。
城跡と言われる高橋神社 | 高橋神社南西に残る土塁。 | 神社西の田んぼの中にある子太郎塚 |
神社の西100mに城主の墓という「子太郎塚」があるが、これは土塁の一部のようである。 この小太郎塚付近が城の中心ともいう。 城域は東西3町20間(363m)、南北4町(436m)余り、面積は16町歩(16ha)余りという。 ところで、神社の東100mの民家に土塁があるのである。長さ100m、高さ2mほどの立派なものである。 |
高橋神社から見た東100mにある土塁? | その土塁東側 | 土塁の西側 |
こう書いた後、面白いものを見つけた。
左の航空写真は国土地理院の昭和49年撮影の城址付近である。
現在は耕地整理されているが、これは耕地整理前の姿である。
この写真を見ると道路が円形に走っており、西側には田が堀跡と思われる形状になっている。
輪郭式城郭であったようだ。
「東西3町20間(363m)、南北4町(436m)余り、面積は16町歩(16ha)余り」 との記述に一致するような大きさである。
写真中央左付近が本郭であったような感じであり、高橋神社は二郭か三郭の一部のように見える。
前記の土塁もどうも城域に含まれるような感じである。
この城は、宇都宮家臣、高橋氏の城であると伝えられる。
神社の由来では、高橋氏は佐竹氏の一族で、木曽義仲に従って平家と戦うが、木曽義仲死後、常陸に帰り、後に宇都宮氏に仕え、高橋城を築城したという。
この話からは、佐竹氏は頼朝との対立関係にあり、一族をその頼朝と同様に対立する木曽義仲の下に派遣して、つなぎをつけていたことが伺える。
城の築城は高橋刑部左衛門尉義通により、正平11年(1356)のことと言う。
高橋氏の所領は1200貫で、16代、262年間居城としたが、慶長2年(1597)、宇都宮氏の改易に連座して没落。
高橋氏の墓所だけが残ったという。(「芳賀の文化財」参考。)
稲毛田城(芳賀町稲毛田)
芳賀町中心部の祖母井から県道61号線を北に向うと3kmほどで八雲神社がある。 この八雲神社とその西側の崇真寺一帯が城址である。 現在、崇真寺の北側に土塁が残っているに過ぎないが、かつては東西300m、南北550mの広い城域を持つ輪郭式の平城であったという。 築城については不明であるが、宇都宮氏家臣綱川左近丞が居城していたとも言うし、乙貫朝景が築城し、その子孫が住んだとも言う。 右の写真は崇真寺の本堂。おそらくこの付近が城の中心部であろう。 一番右の写真は崇真寺の北に残る土塁である。 付近を捜しても遺構らしいものはこれだけであった。 (これは単なる土砂置き場であって、遺構ではないという話もあるが・・。) |
祖母井城(芳賀町祖母井)
「うばがい」と読む。天文年間(1532−54)宇都宮氏の家臣、祖母井信濃守吉胤が築いたという。
元亀3年(1572)北条氏政が多功城を攻撃すると祖母井高貞がこれを撃破し、また、天正13年(1585)に北条氏が多気山城を攻撃した時は、祖母井定久がこれを撃退している。
文禄の役では祖母井定久が戦功を立てている。 祖母井氏は武略に優れた一族であったが、宇都宮氏が改易されると連座して城を追われた。 その後、この地は浅野長政が、次いで蒲生氏郷が領し、元和元年(1615)大田原政清の領地となったが、このころ廃城になったという。 その肝心の城であるが、水田、湿地帯の微高地に築かれた平城であり、東西156m、南北330mの規模があったという。 湿地帯を天然の要害とした城であったが、現在は芳賀町の市街地となり、僅かに土塁が残るだけで何もない。 本郭の地は旧芳賀町役場があった地であり、現在は公園になっている。 西側の水田地帯から見ると3mほど市街地が高いことでかろうじて城であったことが分かる程度である。 |
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旧芳賀町役場敷地の南側、左側は堀跡であろう。 | 公園の南東隅に残る土塁。唯一、城郭遺構らしいものである。でも便所の裏というのはどうも・・・。 |
文谷城(市貝町文谷字カジヤ)
「梶山城」とも言う。
市貝町中心部から烏山方面に向かう県道163号線を約2.5km行くと西側から県道338号線が合流する。
ここを県道338号線に入り、小貝川を渡った先の丘先端部が城址である。県道338号線沿いに案内板が出ている。
案内板を北に50m行った付近に山に入る道があり、その道を進めばよい。
この丘、北西から細長く延びてきており、城址がある部分の比高は20m程度である。
丘の西側は谷津状の水田である。城の斜面は結構、急になっている。
登り道はS字になっており、ここを登れば城址である。 |
最北端の堀切 | 本郭北側の堀切 | 本郭西側を巡る横堀。 |
本郭内部。細長い曲輪で北に緩く傾斜している。 | 南端の枡形に横堀が合流する。 | 東下から見た城址。 |
正治年間(1199〜1200)に、宇都宮氏家臣、稲毛田城主綱川氏の家臣文谷治部助政資が築いたという。
小貝川対岸は那須領であり、杉山城が少し北に位置する。
したがって、ここは宿敵どおしである宇都宮−那須の境目の城である。
砦規模の小さい城であるが、境目の城としての緊張感を反映してなのか、横堀、枡形を持つなどピリッしている。
この城を巡って戦いがあったのかは不明である。
山続きの北側の防御が甘く、出城、物見程度に使われていたのであろう。
(「芳賀の文化財」参考。)