尻高田要害(大田原市北野上)36.8598、140.1702
茨城県大子や那珂川町大山田方面から大田原市黒羽に東から入る道が国道461号線である。
その最東端、黒羽の東の入口にある城が尻高田要害である。
塩畑バス停の南にポンプ小屋が見える。
その後ろに見える山の山頂部が城址である。

↑北側、国道461号線から野上川越しに見た城址

城のある山の標高は335m、麓からの標高は約90mである。
小屋の南に野上川に架かる橋があり、橋を渡ると作業道が山に付く。
正面の山が城址なのであるが、あまりの急傾斜で直攀は難しい。
できれば城址の反対方向、北側に延びる尾根に出て、尾根上を城址に向かうのが望ましい。

それは下山してから思ったことだが、管理人は本郭の東斜面を直登するという蛮行をした。
比高約50mの急傾斜を一気に登った。
本郭にたどり着いて、しばらく、両手をついて動けなかった。

この尾根上、非常に歩きやすいのである。
尾根を登って行くと堀切@がある。
標高は321m、ここからが城域である。

この堀切@から帯曲輪が西側に延びる。
堀切@から約10m登ると城の北側を覆う横堀Aに出る。

この横堀、東側は途中でなくなるが、西側は帯曲輪になり二郭に合流する。
横堀の約4m上が本郭Bである。
@城址北端の堀切。ここから帯曲輪が西側を回る。 A @の掘の上側には横堀がある。 B本郭内部、南側が高い。藪は少ない。
C本郭南側の切岸、下に掘があるはずだが・・微妙。 D 二郭と三郭間の堀切 E南端の三郭はバナナ形をしている。

本郭は50m×30mほどの大きさ、北側の横堀側は若干低く、縁には低い土塁が巡る。
南端は高さ2mの切岸になっており堀切になっているが、非常に微妙である。
本郭の南側が二郭であるが、緩斜面状であり本郭北下の横堀から延びる帯曲輪が合流する。
南端に二重堀切があるが、一重目は非常に曖昧である。
その南が三郭である。バナナ形をしており長さは約60m、幅は15〜20m。周囲を帯曲輪があり、南端は堀切になっている。
ここは黒羽の入口部にあたり、この城は佐竹氏の侵攻に備えたものであろう。

山口城(大田原市北野上)36.8646、140.1619
尻高田要害と恩地要害の中間、北から流れ出る尻高田川が野上川に合流する地点の南側の丘にある。
丘の標高は244m、川からの比高は約20mである。

丘の上は畑と太陽光発電パネルが並んでいるだけであり、特に何もない。
明瞭な遺構は失われているようである。
丘の南側に微妙な段差↓があるが、これが切岸か?その上は畑(跡)であり、背後は山に続く。
切通し状の林道があるが、これは掘跡利用か?

この丘、背後、南側に標高300mの山がある。
背後に何もないという城の立地は想定できない。
その山に何かあるんじゃないか、と登ってみる。
しかし、山の上はフラットできれいであったが、城郭遺構はなかった。

もしかしたら、山麓にある掘状になっている林道が掘跡利用かもしれない。
城主等は不明であるが、尻高田要害、恩地要害や対岸の山にある田沢要害の管理者の居館だったのかもしれない。

恩地要害(大田原市北野上)36.8642、140.1533
黒羽城の東約1.5q、国道461号線を野上川沿いに東に向かい、野上川を渡った南岸の台地に果樹園がある。
その東の山が城址であり、作業道が山に延びる。

↑ 北側、国道461号線から見た城址。山の下を野上川が流れる。右に見える集落が「恩地」集落。
この作業道を登れば城址である。
この山、南から北に張り出し斜面は急である。
山の東西に沢が入り、先端下に野上川が流れる。

斜面は急であるが、頂上部部は緩やかに北側に傾斜した緩斜面であり、バナナ状をしており幅は約30mある。
そこが城址であるが、明確な遺構は南端部にしかない。
主郭部の長さは約150mある。

南端部の標高は267m、北端部は255m、約10mの標高差があるが、内部Cは比較的平坦である。
野上川からの比高は約60mである。

曲輪内部はすっきりしており、灌木程度の林である。
しかし、曲輪の縁が微妙であり、どこからが切岸なのかよく分からない。

南端部には高さ約1m程度の土塁@が断続的にあり、その南側が横堀Aになっている。
主郭から掘底に降りる坂虎口Bがある。

掘幅は一部、作業道になり拡張されているが、深さは約4m、幅は約8m、東西は竪堀になる。
掘の南側は城外である。

一方、先端部の下、約20mに堀切を介し、標高235m地点に50m四方ほどの平坦地がある。
ここに何かがあったようであるが、藪がひどく確認できない。
@南端部にある土塁 A @の土塁下には大きな堀切がある。
B 堀切に降りる坂虎口 C曲輪内はダラダラとした緩斜面である。

大関清増の家臣益子但馬守信勝が天正年間に築いたという。
益子氏と言えば、宇都宮氏重臣であり、どうやら大関氏の元に亡命したと思われる。
恩地要害は尻高田要害よりは簡素な構造であり、堀以外、技巧的な要素はない。
住民の避難城、いわゆる村の城の可能性もある。

八幡館(大田原市前田)
この館は黒羽城の出城として用いられたようであるが、元々は、元祖黒羽城と言える城である。
城へは黒羽城まで行く車道をさらに北に行く、体育館を過ぎ、さらに500mほど走ると道路は下りとなり、左手に鎮国社の社殿が見える。
この場所付近が、八幡館である。

八幡館は那須氏の家臣、角田氏の居館であった。
東下の集落が堀の内であり、ここに角田氏時代の根小屋があったようである。
この山の東斜面には帯曲輪が数段あるようであり、大手道が東下に下っていたようである。
角田氏(後に奥沢を名乗る。)は、後に大関氏に従ったという。
そして、天正年間(1573−1592)大関高増が黒羽城を築城するに際し、奥沢に移った。(追いだされたのであろう。)
大関高増は八幡館の南に黒羽城を造り、八幡館の遺構の一部も黒羽城に取り込まれた。
このため、八幡館のオリジナルの姿は分からない。

館は上城、本城、北城の3つに別れていたようである。
上城は黒羽体育館の北の曲輪であり、すでに黒羽城の一部である。
その北に幅30mほどの巨大な堀があるが、これが上城と本城間の堀を拡張し、黒羽城の北端の堀にしたもののようである。
その北に60m四方の平地があるが、ここが本城であろうか。
@本城、上城間の堀は黒羽城の堀となっている。 A北城に建つ護国社 B 北城北側の堀

鎮国神社への参道がその北にあるが、これは堀切を利用したもののようにも思える。
両側には土塁らしきものもある。すると北に折れ、鎮国社に向かう道部分が北城ということになるが、この部分は長さ200m近い。
東西両側に帯曲輪があり、東側の帯曲輪が車道に利用されているようである。
社殿の北には幅30m、深さ最大8mほどもある巨大な堀または武者溜まりのような曲輪がある。

黒羽城に取り込まれた時期にはここが北を監視する出城であったようである。
なお、鎮国社のいわれは、社伝によると、久寿2年(1155)に須藤権守貞信、千葉介常胤、三浦介義明、上総介広常等が勅を受けて那須野の九尾の狐を退治したとき、弓矢の神、八幡宮をこの地に勧請して祀ったもの。
これを狩野の八幡宮と称した。
天正4年(1576)大関高増が黒羽城を築くにあたり、筑紫の宇佐八幡宮並びに山城の男山八幡宮の分霊を勧請して、八幡館跡に神社を建て北八幡宮を称したという。
その後、大関増業が多治比の祖霊を合祀した。
勝海舟撰文の藩主増裕の碑、社掌小泉斐の碑、水戸の立原萬翠軒撰文の修建梁碑が建ち、文化財に指定されている。
参考:那須の戦国時代、栃木県の中世城館跡


岩谷要害(大田原市堀之内)
黒羽城のある山の北東に続く尾根にある。黒羽城の北にある八幡館からは北東500mという距離である。
城へは黒羽の中心部から国道461号に入り、松葉川沿いに県道27号線を進む。

黒羽中心部から距離にして約2.5q程度である。
ここに岩谷観音がある。その裏山が城址である。

県道沿いに「岩谷観音」の標識があるのであるが、この道が急傾斜で狭く怖い。
15mほど上がると平場があり、東に観音堂、中央に集会場、西に神社Hがある。
この平場自体も遺構の一部と思われる。
この裏山一帯が城址である。
右の写真は南側から見た城址である。

西にある神社の西側に竪掘@があり、これを登ると城の横堀に出る。
これが登城路であり、出撃路であろう。
本来の大手道は南西三郭(V)側にあったと思われる。

なお、二郭(U)と三郭(V)間の堀の南東端にも下に下る道があり、これも出撃路だろう。
また、本郭(T)から北東に下る堀も出撃路のように思える。

この城、何人の方がHPなどで取り上げているので、迷うことはない。
おまけに余湖さんが縄張図を掲載してくれている。これを片手の回ればよいので楽チンである。
しかし、短時間でよくここまで縄張を把握できるものである。感嘆である。

この城、典型的な直線連郭式城郭であり、北東から南西にかけて3つの曲輪が並ぶ。
曲輪の大きさは全てほぼ60m四方程度である。

内部は笹が茂っている程度で見通しは良く、堀底は通路にでも使っているのか支障なく歩ける。
最高箇所の北東端の標高230m地点に本郭(T)を置き、南西側に標高を下げながら曲輪を展開する。

末端部の標高は200m程度で、頂上部からは30mほど低い。
城域としては250m×50m程度か。ちなみに岩谷観音のある平場の標高も200m程度。
松葉川が流れる平地の標高は185mほどである。

城の特徴は曲輪群の北西側一帯、本郭(T)の北東側、本郭、二郭(U)の南東側に横堀A、Cが巡ることである。

郭間は堀で仕切られ、末端部、三郭(V)の南西端には大きな櫓台のような土塁が存在する。
曲輪周囲を巡る堀は深さ4m程度、幅15m程度であるが、当時は6m程度の深さの堀だったのではないかと思われる。
この横堀の総延長、500m程度になるのではないかと思われる。
かなりの工事量である。
神社から延びる竪堀@を上がると本郭南東の横堀に開いた虎口に出る。
その少し右側に本郭に上がる道がある。
クランク状に本郭に入るようになっていたと思われる

本郭Bは北側に土塁があるが高さは50p程度である。
二郭側Fに虎口がある。二郭郭は本郭側が土壇状になっており、2段構造。三郭側には土橋がある。
三郭内部Dは杉の林であるが、内部は傾斜している。
末端に大きな堀切Eがある。その先に櫓台のようなものがある。

この城、曲輪が連郭式に並ぶが、山に続く、北西側が弱い。
そのため、本郭、二郭の外側に腰曲輪のようなものがあり、さらに外側に小規模な堀がある。
深さ2m程度、堀と言うより、溝または排水溝といった感じである。なお、本郭の東方向にも横堀は延び、尾根には堀切Gが見られる。

@本郭から岩谷観音の平地に下る竪堀。 A本郭南の横堀 B本郭内部はそれほどの藪ではない。
C本郭北の横堀 D三郭内部は傾斜している。 E三郭末端にある堀
F本郭(右)と二郭間の堀 G北東の尾根にある堀切 H岩谷観音のある平場西側
鳥居の奥側に@の竪堀がある。

この城は 八幡館城主、角田氏が築城したと伝えられる。
伝承では角田氏は三浦氏の一族で、源頼朝が那須で狩を行った時に、この地に土着したという。南下の集落が堀之内というので、居館があり城下町があったと推定される。

この当時の角田氏の本城は八幡館であり、岩谷要害はその支城として、堀之内の北を守る城だったようである。
その後、角田氏は大関氏に奥沢館に追い出され、八幡館は黒羽城に取り込まれるが、この岩谷要害は、黒羽城の北東を守る出城として、大関氏により整備改修されたものと思われる。
多分、角田氏時代には本郭の部分程度の城だったのではないだろうか。

なお、先に出撃路の存在を書いたが、この城の性格は守りの城と言うより、攻撃を重視した城であったのではないだろうか。
守りの城でないことは、城の構造が極めて単純であるという点である。
張り巡らされた横堀も出撃用の塹壕なにかもしれない。
いわゆる「陽の城」というものではないか。
この点、群馬県の「岩櫃城」「鷹の巣城」と似た印象である。
参考:那須の戦国時代、栃木県の中世城館跡、余湖くんのホームページ

奥沢館(大田原市蜂巣字桝取)
大田原市立川西中学校の北700m、蜂巣小学校の南東700mが館跡である。
「那須の戦国時代」によると180m×170mの大きさを持つ大型の方形館であったらしいが、耕地化により破壊され、土塁の残存部が民家の庭などに見られるが、それもかなり崩されている。
航空写真を見るとおぼろげながら館の形が見えてくる。下の写真は航空写真の左上側の民家に残る土塁と堀である。

館主は黒羽城の原型となった八幡館の館主であり、岩谷要害も所有していた角田氏である。
角田氏は、三浦氏の出というが、那須氏に従い、後には大関氏に従ったが、大関氏が白旗城から黒羽城に移転する際、八幡館を譲り(追い出され?)、ここに居館を築いて移転し、以後「奥沢」を名乗ったとといわれる。


左の航空写真左下に見える土塁跡。
現地には、「犬追物跡」または「犬討築地」などといった地名が残る。
解説によると、鎌倉時代の初期に、玉藻の前(九尾の狐)が那須に逃げ、それを退治するために、三浦介義明、千葉介常胤、上総広常らが、この地にやってきて、犬追物を行って、玉藻前を退治するための練習を行った所であり、この地に見られる土塁や堀の名残は、それにちなむ遺構であるという。

この話は那須の殺生石(http://www7a.biglobe.ne.jp/~ao36/kikouHP/nasu_kikou.htm に掲載)にちなむ伝説を題材にした「謡曲 殺生石」の話を館主奥沢氏の先祖ということになっている三浦氏に結び付けた創作と思われる。
参考:那須の戦国時代、栃木県の中世城館跡、航空写真は国土地理院が昭和50年に撮影したものを使用

構え場館(大田原市前田字鉢木)
黒羽市街地の東部、大子方面に通じる国道461号線に沿って野上川が流れる。
黒羽高校入口の三叉路のちょうど北側の松葉川と野上川に挟まれた鋭角の三角形の部分が館跡である。

この部分、先端の西側は低く水田となっているが、東側は岡になっている。
その岡の先端部は墓地となっているが、その付近が館の主郭であったようである。

館には東側の畑となっている台地側に車を置いて歩いて西側に向かうのがよい。
館は北側下を流れる松葉川と南側を流れる野上川の間の鋭角の三角州状の河岸段丘先端部を利用しているが、川に面する南北は崖面、西側も急坂であり、東側の台地続き部分が弱点。

当然、この方面に台地を分断する堀が存在していたはずである。
しかし、かなり以前に台地上は耕地整理されたようで、堀と土塁は喪失している。A

「くりや」さんの調査によると、先端近くの南北に走る未舗装の農道付近に土塁と堀が存在していたとのことであり、この農道の東側の畑が南北方向に若干くぼんでいる感じである。
この部分は結構長い。150m程度はある。
その農道から台地先端部までは約100mほど。

ここが主郭部であるが、一面畑と先端部が墓地である。
しかし、台地北側に土塁の残痕Bが存在している。
さらにその北下は藪に埋もれてはいるが帯曲輪状または横堀状Cになっている。

@北東側から見た館跡 A主郭内、道路付近が堀だったらしい。 B主郭北側に残る土塁跡
C Bの土塁下にある横堀? D 西側の細長い岡から見た主郭部 E 北下を流れる松葉川、
岸は崖になっている。

また、墓地から北下に降りる道があるが、これも本来の虎口のようである。
岡先端部は4mの段差で2段の曲輪があり、さらに2mの段差で曲輪がある。

その先は西に向かって細長い土塁のような感じの岡Dが続き、2か所ほど堀の跡らしいものがある。
この部分にはやたら石が多いがすべて河原石である。果たしてこの西下部分は遺構かどうか疑問である。
館の防衛上、特段意味がない場所である。その周囲は水田であるが、西の川合流点に向かって段々になっている

この地は元々、伊王野氏の領土であり、大関氏との抗争が激化したため、構えた城郭ということで「構え場」というとのことであるが、抗争の拠点なら山城の方が防衛上、優れている。
すぐ北が岩谷要害であり、角田氏が拠点の堀之内の防衛用に築き、家臣か一族を置いたのではないだろうか。
当然、大関氏の黒羽城築城後も機能していたのではないだろうか。
参考:那須の戦国時代、栃木県の中世城館跡、航空写真は国土地理院が昭和50年に撮影したものを使用

弾正館(大田原市前田字弾正)

構え場館のすぐ南側、国道461号線と野上川をはさんで対岸の岡の先端部にあった。
「黒羽高校入口」の交差点の坂を登ると、黒羽高校方向に行く道と西に向かう道に分岐するが、その一帯が館跡という。
主要部は岡縁部の星ヶ岡団地付近であるが、ここには遺構らしいものは確認できない。
道路の反対側に土塁の残痕らしいものがあるが、これが遺構であるか確信は持てない。
南側、野上川方面にだらだらと下る緩斜面の末端部であり、南側に土塁と堀が存在したと思うが確認できない。(道路が堀跡か?)

主要部は住宅地になっている。 黒羽高校側の畑に残る土塁。

弾正と名乗る武士の館であろが、該当する者の記録はないようである。
対岸の構え場館と対を成す館であろう。
参考:那須の戦国時代、航空写真は国土地理院が昭和50年に撮影したものを使用