白旗城(大田原市余瀬)
那須氏一族大関氏が黒羽城に移る前、室町時代から戦国時代にかけて約180年間、拠点としていた城である。
築城は大関上総介増清が応永年間(1394−1428)に松野(現那珂川町)より移り構築したという。
以後、天正4年(1576)に大関高増が黒羽城に移るまで本拠とした。

城は国道461号沿いにある道の駅「那須与一の郷」の北東1qに見える岡。

白旗丘陵の南端部にあり、比高は25m、南北約500m、東西平均150m、面積7.5haという広大な面積を持つ直線連郭式の岡城である。

左の写真は南側から見た城址である

先端が尖った2等辺三角形をしており、曲輪は南端の丘陵突端から5つある。(どこまでを曲輪とカウントするか迷う。6つという場合もある。)
曲輪は北に向かって次第に大きくなっている。

曲輪間は空堀で仕切られ、主郭部付近の東側には帯曲輪が二段ほど(馬場と呼ばれる)、西側には一段存在する。
地名として、「本城」「二の丸」「北城」などが残り、北城の北側には大雄寺跡、南三郭の東には帰一寺跡がある。
東下の集落が「余瀬」であるが、語源は「寄せ」であり、根小屋地区である。
ここには、新善光寺跡、光明寺跡・大正院跡などがあり、出城も兼ねていたようである。
この余瀬を通る道路が、東山道(中世では関街道・秀衡街道)であり、余瀬は古くは粟野宿と言い交通・軍事の要衝であった。
大関増清はそれに目を付けここに城を築いたと思われる。(この街道沿い、北の伊王野、芦野も同様に那須一族が城を置いている。)

なお、白旗山の名は、源頼義が奥州の安倍頼時追討の際、この地に白旗を翻して軍揃いをなしたのによるという。
余瀬の地名も、この地で軍勢を寄せ集めたことから寄勢と称され、後に余瀬と改められたという。
その白旗城であるが、先端部分が宅地などで、西側の帯曲輪が豚舎等になって破壊されているが、その他の部分はほぼ完全状態である。

しかし、ほとんど放置状態にあり、藪状態である。特に北側の曲輪はすさまじい。
豪快な堀なども藪に埋もれており、写真を撮っても何が写っているのか分からない状態である。
この城の見学は夏場はとても無理である。
多分、蜘蛛の巣、藪蚊、蛇の天国であろう。
訪問は冬場しか無理である。
それでも何とか遺構が確認できる程度である。
城南端部に解説板があり、そこから北に向かう。
途中で山道に入って行くと三郭と南三郭(解説板等では「丸」を使っているが、城が現役時代には「丸」という言葉はない。このため「郭」を使う。)間の堀切@に出る。

この道が大手道であろう。
この堀切は改変を受けているようであるが、かなり深い。本来から登城路なのであろう。
この堀切に面した曲輪W、Xの切岸は10mほどの高さがある。
おそらく、この堀底を通り曲輪W西側の帯曲輪E(幅15mほどある。)ー曲輪Wを経由して本郭である曲輪Tに入ったか、曲輪W東側の帯曲輪B−曲輪W経由で本郭に入ったのであろう。

なお、この堀切の上、曲輪W、X間には曳き橋式の木橋が架っていたのではないだろうか。
曲輪Wは80m×40mほどの広さで、若干、南側に傾斜している。 内部は杉林であり、一部伐採され内部は歩きにくい。
東下8mほどに帯曲輪Bがあるが、2段構造になっており、さらに北側で一段高くなる。

曲輪Xは、城のある尾根の先端部であり、南方向、東方向の物見の曲輪でもある。
堀切に面して義経塚という土塁があるが、大手筋を警戒するためであろう。
曲輪の真ん中に堀Jがあるが、これは通路だろうか。南側はU字型の堀のようになっている。
また、東側は二段になっており、上の曲輪は墓地となっている。

曲輪Wと本郭(曲輪T)間の堀Cは深さ5m、幅20m程度であるが、竪堀にはなっていない。
本郭Dには愛宕神社があるが、ほとんど朽ち果てていて、ドキっとするくらい不気味である。
冬場だからかろうじて来られるのであろうが、夏場は不気味さが最高調だろう。

この曲輪は60m四方ほどであり、曲輪Wよりは2mほど高い。東側は帯曲輪になっている。
西側の帯曲輪は豚舎になっている。本郭の北側、曲輪U側に土塁がある。
その北側に堀Fがあるが、この堀、南側が凄い。深さが10m、幅が30mほどになる。
北側は虎口のようになっていて、そこを下ると、曲輪U、Vの東をまわる横堀Gがある。
曲輪Uまでの高さは10m以上あり、蛇行する。
曲輪Uは幅40mほど、南側以外を高さ1mほどの低い土塁が覆う。
北側に堀があるが、西側が曖昧である。この北が曲輪V(北城)であるが、この曲輪、東西南北90mまたはそれ以上はあると思われるが、藪と倒木で良く分からない。
東側には低い土塁があり、その下に横堀がある。
北城の北端には高さ4mほどの土塁Hがあり、その北に深さ10m以上もある巨大な堀Iがあり、台地と遮断する。
この堀は100m近くあるようであるが、とんでもない藪。
その北はもう畑であり、ここが城の北端である。
この城の印象は深い切岸と堀である。

これは黒羽城の切岸と堀とイメージが重なる。
黒羽城の堀は関ヶ原直前、徳川氏によって改修したというが、もともと大関氏時代からかなりの規模であったことが伺える。
しかし、この遺構、藪に埋もれさせておくのは惜しい。でも破壊されないだけマシということかもしれない。
参考:那須の戦国時代、栃木県の中世城館跡、航空写真は国土地理院が昭和50年に撮影したものを使用

@曲輪W、X間の堀切 A曲輪W内部、結構藪状態。 B曲輪W東側の帯曲輪群
C曲輪T、W間東下の堀 D曲輪Wから本郭内部を見る。手前が堀。 E曲輪W、西下の帯曲輪
F本郭と曲輪U間の堀 G曲輪U、V東下の横堀 H曲輪V(北城)北端の土塁
I曲輪V北端の巨大堀 J曲輪X内の堀?通路の窪み