両郷3兄弟
県道27号線が通る松葉川の谷沿いには田中要害、青木要害、桜田要害等、多くの城郭が山々に並ぶ。いわゆる城郭密集地帯である。
それだけ、この谷筋が重要な街道筋ということである。その中に田中要害がある。
主郭部の直径が約40m、堀を入れても約50mに過ぎない単郭の小さい城であるが結構評判はよい。
何と言っても完存であり、藪化もしていないからである。
構造は主郭周囲を帯曲輪、一部横堀が巡り、入口は坂虎口、城に通じる尾根筋には堀切があってもいいはずなのだが、ない!
風化が進んでいることを含めてもこの程度の城では戦闘はできない。
その程度の城である。

ところが、この付近に田中要害と同じ構造の城が2024年2月に確認された。それも2城も。
田中要害の南約2qにある河原地区の東西の山にある。河原西要害、河原東要害と呼ぶ。
この2つの城、河原集落の両側に位置することから河原地区に関わる城であろう。
同一の構造であり、同一の設計者による縄張であろう。
田中要害が伊王野氏家臣の城だったので、河原西要害、河原東要害も伊王野氏の城と思われる。
いずれも、単郭、楕円型であり、長軸約50〜60m、短軸30〜40m程度の規模に過ぎなく、何しろ帯曲輪の幅は1.5〜2m、主郭の切岸の高さは高い場所でも2mに過ぎない。
敵の侵攻を見張り、周囲や付近の城に知らせる役目であろう。
どの城も比較的勾配の緩い山にあり、そのような山に戦うための城を造るとしたら、深い掘を多重に回したり、尾根筋にも堀切を造るのが定番であろうが、全然、そのようになっていない。
尾根筋はもとより、斜面部のどこからでも攻め上がることができるだろう。
この城で戦う意思は感じられない。

田中要害(大田原市両郷)36.9347、140.1684
田中要害(大田原市両郷)36.9347、140.1684
3兄弟のうち、既に知られていたのはこの田中要害である。
一番、メリハリが効いていて、城主伝承もある。兄貴分、長男と言えよう。

しかし、ここは個人のお宅の中を通らないと行けない。
家の方に声をかける必要がある。快く了解してくれるが、不在の場合は困る。
幸い、おられれたので良かったが。

このお宅の北の山が城址なのであるが、標高は306m、比高は約40mに過ぎない。
場所は那須町と大田原市の旧黒羽の境付近、直ぐ北は伊王野氏の本拠、伊王野城である。
県道27号線、松葉川の東側の山にある。

城は南側に坂虎口があり、切岸の高さは約4m、西側は帯曲輪であるが、北側に回り込むと横堀となる。
東側は横堀が回るが埋没が進んでいる。
東下にもう1本、帯曲輪がある。
北側では帯曲輪になる。
曲輪内は北側が少し高い。このようなコンパクトな城であるが、山の斜面の傾斜は緩く、防御はいささか心元ない。

@ 南から尾根を登ると坂虎口に出る。
左右に帯曲輪、横堀が延びる。
A城内北側最高箇所・・特に何もない・・ B主郭東側の横堀、かなり埋没している。
C主郭南側は帯曲輪になっている。 D Cの帯曲輪は西側で横堀となる。

地元では「ゆうげい」と呼ばれる。
もちろん「要害」が訛ったものである。
伊王野氏家臣、田中氏の城と言われる。
居館は麓の民家の地であろう。
伊王野城の防衛拠点にしてはいささか防御力に疑問が残る。
むしろ城がある両郷地区の統治拠点といった感じである。
伊王野氏没落に伴い廃城になったのであろう。

河原西要害36.9241、140.1533と東要害36.9189、140.1600(大田原市河原)
西要害のある場所は河原集落の西の標高290m、比高55mの山である。
愛宕神社の南側から入る道を行くか、または愛宕神社に行き、その北側の畑に出たら尾根沿いに西に向かえば城址である。

↑ 県道27号線から見た西の山にある河原西要害

一方、東要害は両郷小学校の東の標高311m、比高75mの山にある。
両城は約1q離れている。

なお、ここは黒羽の北東約7qに位置し、南西1.5qに青木要害が、北東約2qに田中要害がある。

前述したようにこの2つの城、構造が田中要害と全く同じである。

近世、河原地区には宿があったというが、この2つの城の存在から中世まで遡ると推定される。
宿を統括する武家の屋敷もこの地区にあったのであろう。

西要害は南北約60m、東西約30mの楕円型の主郭の周囲を帯曲輪が回る。
切岸の高さは約2m、帯曲輪の幅は1.5〜2mであるが、東側は犬走りになる。

北東側、北西側A、南東側に低い土塁がある。
北東端に坂虎口@がある。
主郭内は北東側が少し高いが、内部Bは不整状態である。
@北東端部にある坂虎口なのだが・・・分からん! A北西端の土塁を持つ帯曲輪、右が主郭部 B主郭内部は余り整地されていない。

↑ 県道27号線から見た河原東要害、右側のピーク部である。

東要害は南北約50m、東西約40mの規模であり、やはり帯曲輪が周囲を回る。
切岸は北側は3mほどの高さがあるが、他の方面は緩い。

特に南東側は帯曲輪からそのまま主郭部になるといった感じであり、非常に曖昧である。
南側に坂虎口がある。
主郭内には祠が祀られ、西側からの参道が2本確認できる。
どちらが正規のものか判断できない。

@南側にある坂虎口 A北側を巡る帯曲輪 B主郭に祀られる祠

大塚要害(大田原市中野内)36.9204、140.1439
城郭密集地帯の県道27号線が通る松葉川が流れる谷の両郷交差点から県道42号線で那珂川方面に向かう道沿いの北側に見える丘が城址である。
この丘は西から低地に張り出し標高は247m、低地部からの比高は約10mに過ぎない。

北側から見た城址 南から見た城址

要害という名が付いているが、要害性は感じられず、居館である。
南側は改変を受けており、畑になっているが、南西側がオリジナルの状態なのか分からない。
北側の丘には遺構が残っているが、すさまじい篠竹地獄であり、突入してみたが、堀等は分かるが、写真が撮れる状態ではない。


@篠竹が生えている場所が北の帯曲輪
A北西下に池がある。中央の若干低い場所に掘がある。 B南東に突き出た畑は曲輪の跡で高い切岸を持つ。

東に2つの曲輪があり、土塁で仕切られる。
その北側に腰曲輪、堀を介し、西側に曲輪があり、その西側が堀となる。
現存で東西100mほどの大きさか?南北はどこまでが城域が判断できないが、畑になっている部分を除けば約70mである。
小山氏の支族矢野氏の築城という。
矢野氏は小山氏の支族であるが大関氏の家臣となりこの地に住んだという。

青木要害(大田原市両郷)
この城、横堀が尾根にそって何本も走るなど、なかなか技巧的で面白い。
しかし、欠陥の城としか思えない。
山城は山の最高箇所に本郭をおいて、その周囲に曲輪を展開させるか、尾根末端部に本郭を置く場合には、尾根筋に何本もの堀切を構築して、尾根伝いの攻撃を防ぐ形式を取るのがセオリー。

この城、タイプとしては後者に近いが、尾根筋には大きな堀切Dが1本だけである。
右の写真は東側から見た城址である。中央の森のある山である。左の山が尾根続きでこちらの方が高い。

その尾根最高箇所には岩場Gがあるのだが、そこ付近には特段なにもない。
普通ならこの岩場に通じる尾根筋は3本あるのだが、城に通じる尾根以外の2本の尾根に何本もの堀切を入れるのが常識と思う。
しかし、そんなものは全くない。

この最高箇所の岩場は若干、防衛の役には立ちそうであるが、ここを占領され、背後の堀切付近までは簡単に侵攻可能である。

攻撃側からすれば、この岩場Gを占領すれば、城を落したも同然なのである。
この堀切D付近から弓矢で攻撃されたら、ターゲットはすべて低い位置にあり、やられ放題、まして、火矢での攻撃を受けたらどうにもならない。

しかし、どういう訳か遺構だけは文句なく素晴らしい。
メリハリが効いているのである。

城の本郭、ここがどこか分からない。
山頂側の一番高い場所、普通はここが本郭と思えるが、内部はだらだらしており、背後を守るための曲輪のようである。
どうも龍念寺裏手に位置する細長い曲輪Wこそが本郭のように思えるのであるが。

その青木要害、黒羽市街から県道27号を伊王野方面に約7km北上。
すると両郷中学校がある。中学の西500m、松葉川の対岸に龍念寺という寺がある。
この寺の裏、北の山が城址である。

城には寺の住職さんの住まいの裏手から道が延びるので、断りを入れて登れば行ける。
その道は重機が入る道のようであり、伐採した木を搬出する道のようである。
山の北側にも同様の道路があり、その道からも行けるようである。
城は寺北側の標高280mのピークから東の尾根に展開する。
なお、東の松葉川付近の標高は220mであるので比高は60mほどである。

城はT字型をしており、岩場から東に下る尾根にT、U、Vの3つの曲輪、さらに曲輪Uから南東に分岐する尾根に曲輪Wを配置する。
一番高い位置にあるのが曲輪TEである。
30m×15mの曲輪であり、岩場からは高さで10mほど低い。

岩場側に深さ6mほどの堀切Dがあり、堀は横堀となり曲輪T、U、Vの北側と曲輪Tの南側Fを覆う。
先に述べたが内部Eの削平は甘く、ただの地山の状態である。

堀を介して、1段低い場所にある曲輪Uは20m四方ほどの曲輪であるが、段々状の曲輪の集合に過ぎない。
その東が曲輪VBであるが、ここは40m×20mほどの広さの曲輪であるが、やはり内部の削平は甘い。
曲輪Tから曲輪Vの末端までは高度差として15mほどはあると思われる。

一方、曲輪Uの南東に深さ6mほどの堀切@があり、曲輪Wが展開する。
60m×20mほどの広さで、曲輪U側の堀切に面して土塁があり、さらに堀がある。
この曲輪の東側は5m下に横堀Aがあり、西側は5m下に帯曲輪がある。
内部は比較的平坦である。
やはり、この曲輪Wがしっかり造られている点では本郭のような気がする。
曲輪TからVは曲輪W防衛用のものではないかと思う。

@曲輪U(右)とW間の堀切 A曲輪W北側を覆う横堀 B曲輪V内部は平坦化されていない。
C曲輪U(左)V間の堀。通路か? D 曲輪T(右)西端の堀切 E曲輪T内部。平坦化されていない。
F曲輪T南の横堀 G尾根ピークの岩場。
防衛上、重要地点であるが、
周囲に堀切等はない。
南の麓にある龍念寺。ここは居館跡か?

城主は、この地の領主青木氏という。
多分、居館は龍念寺の地ではなかったかと思う。

佐竹義昭が那須領に侵攻し、小滝城(大田原市)攻撃し、落した時、青木要害の兵は逃亡して城は、自落してしまったという。
その時の城主は青木三河守というが、地元の土豪とは思うが、大関氏の家臣であったかどうかは不明である。
城の構造も理解できないが、城主、城兵の行動もまた理解できない訳の分からん城である。
・・遺構は素晴らしいのだが・・。
なお、この城も余湖さんの縄張図で見逃すことなく遺構を堪能できた。感謝!
参考:那須の戦国時代、栃木県の中世城館跡、余湖くんのホームページ