桜田要害(大田原市中野内)36.9058、140.1418
高館城の東約1q、黒羽城の北東約4qにある。
県道27号線が通る松葉川沿いの谷沿いにあり、この谷の交通を監視する城の可能性がある。
しかし、谷沿いから少し奥まった場所にあり、城から谷一帯が良く見えるかどうか疑問である。

谷を見渡すのには死角があるような気がする。
なぜ、この場所に城を築いたのか?

城のある山の標高は295m、松葉川からの比高は約80mである。
城のある山付近は作業道が入っており、城近くまで作業道を通って行くことができる。
しかし、林業等、山での作業が行われなくなっており、道は荒れている。
一番困るのは棘のある草木が生えていることである。

この城には北側の谷津沿いについている林道を歩き、城のある山の東側の谷沿いの道につく作業道を上がる。
この道は尾根筋に出る。

@ 尾根筋は広くなっており、ここも曲輪と思われる。

そこがおそらく城域であると推定され、緩斜面であるが広いスペースとなっている。
ここの標高は277mである。

ここの北西側が高くなり、その南側斜面、水平距離約50m、比高約15mにわたり曲輪が展開する。
まず、土塁を伴う掘Aが現れる。横堀である。
両端は竪堀となって斜面を下る。
掘幅は約8m、深さはかなり埋没しており約2m、中央部にきれいな土橋Bがある。

ここから3枚ほどの曲輪Dが段々と重なる。
いずれも平坦に削平されている。そして、山頂の曲輪Eとなる。

山頂部の曲輪はバナナ形をしており、総延長は約30m、北側下約4mに犬走りがある。
北東側に尾根が下る。
北側も尾根がつながり、堀切Fが2本ある。
尾根の50m先に径約4mのピークがある。
ここは物見台か?

A主郭部入口の横堀 B Aの横堀には土橋が架かる。 C Bの土橋を渡るとこの曲輪に出る。削平度良好。
D主郭部最高部の本郭直下の曲輪 E本郭はバナナ状の曲輪になっている。 F北側に延びる尾根から見た主郭部と堀切

一方、横堀から南にも曲輪が段々に展開し、堀切を介し、物見台と思われるピークがある。

城の来歴は分からないようである。
城の性格であるが、北にある青木要害とともに、高館城の背後、東側を守る城ではないかと思う。
本郭の北側の尾根を行くと尾根伝いに高館城方面に通じる。

両郷砦(大田原市両郷)36.9401、140.1729
田中要害の北約900m、田中北物見台からは北約450mの山にある。
この山は田中要害等がある山系の北端に位置し、松葉川が東から流れ、この山の北で南に向きを変える。
半島先端の岬という感じである。

↑ 西側から見た城址。まるで岬である。先端に「山之神」がある。麓を松葉川が流れる。
その岬の先端が主郭であり「山之神」が祀られる。
ここの標高は309.4m、北下が285mなので比高約25mである。
岬先端部は岩剥き出しの崖であり、松葉川が水堀の役目を果たす。
山の神へは東側から参道が延びる。

山之神がある先端部付近から南側に徐々に標高が下がる。
約70m南に土塁を持つ堀切がある。
幅は約6m、深さは約2m、土塁の高さは曲輪側から約1mである。
先端部からその間、特段、何もない。
単郭である。
堀切の南側は徐々に山の高度が上がっていく。

@先端に建つ「山之神」 A 南端にある堀切と土塁

この砦であるが、ここで流れの向きを変える松葉川の東側、上流方向を監視する役目が想定される。
しかし、青木要害を攻略した佐竹氏が次のターゲットとして伊王野氏を狙った砦の可能性もあるかもしれない。(2024.3.11)

田中北物見台(大田原市両郷)36.9374、140.1708
田中要害の北、約450mにある。西下を松葉川が流れ、その東の山にあるが、斜面は急である。
標高は318m、西下の水田が278mであるので比高は約40m、北には谷が入る。

田中要害からは北に延びる尾根を行けばここに着く。
ただし、沢が入っているため、かなり東に大回りすることになる。

↑ 西から見た城址、中央やや左に見える橋の真上に遺構がある。右側に田中要害がある。

城は松葉川と北の沢に対して南から突き出た最高箇所に帯曲輪を「V」字形に構築し、その変曲点部分に土塁@、Aを置いただけのものにすぎない。
帯曲輪Bの長さは約40m、幅は5〜7mである。
深さは約3m、土塁の高さは帯曲輪側から約1.5m、土塁の北側に平場が突き出しており、その周囲は急斜面である。

変曲点部の背後が主郭Cということになるが、比較的平坦ではあるが、特段何もない。
南側はダラダラと少しづつ高度を下げて行くだけである。
北側のみを意識している。
南には田中要害があるので防御は不要ということかもしれない。

@北端部にある土塁と掘 A @を主郭側から見下ろす。
B西側の帯曲輪 Cここが主郭なのだが・・南側はだらだら傾斜するだけ。

しかし、田中要害の城主、田中氏は北に本拠を置く伊王野氏の家臣である。
家臣が主家を意識するのはおかしい。
連絡の場とも考えられるが、北方向に対して戦闘的で圧倒的な防御力があるのである。

これはなんだ?
永禄年間(1558〜70)少し南側にある青木要害は佐竹氏に落とされている。
当然、この付近も佐竹氏に占領されたのであろう。
佐竹氏が次のターゲットとして伊王野城を狙った砦なのかもしれない。
(2024.3.11)

寺宿要害(大田原市寺宿)36.9141、140.1732

松葉川の支流、松葉川の東の谷、前松葉川の流れる谷筋には大久保館があり、その詰の城である羽黒山要害がある。
寺宿要害は羽黒山要害から北を流れる前松葉川の支流、木佐美川の北側の山にある。
なお、この木佐美川を上流方向に行くと尻高田要害等がある北野上地区や武茂川の上流、八溝山の山麓、川上地区に通じる。
羽黒山要害とともにこの街道の出口を抑える城、のように思えるのだが・・・そうでもなさそうである。

↑ 西側、大久保館跡付近から見た城址のある山、先端から約600m奥にある。

羽黒山要害は高すぎる。あくまで避難所だろう。
この寺宿要害、この城も西端部から直線で約600mの奥地にある。

西端部に横堀状の古道があり、この古道を北東に進むと、緩やかな傾斜の竹林を抜ける。
この後、古道は尾根上を通り、アップダウンを繰り返す。
すると堀切が現れる。位置は36.9134、140.1708である。
さらにこの先にも埋もれたような堀切がある。

さらに登ると比較的平坦な山の上に到達するが、そこには何もない。
そこから少し東に向かうと段々状の城郭遺構が見えてくる。

城への入口部は横堀状である。古道か? 城への道の途中にある堀切 城址西下のピークの平場は住民避難場所か?

ここが寺宿要害なのであるが、山の北東端部に造られ、山の比較的緩やかな南側と西側に掘@がL形に構築され、急斜面の北側、東側には掘はなく帯曲輪が構築されている。
南側の掘は土塁を曲輪側に持ち、土塁の高さは0.5m程度である。
掘幅は約4m、深さは約1.5m、長さは25mに過ぎない。
土塁間に土橋がある。
西側は深さが約3mあるが、北側に向かうと堀は不明瞭になる。
曲輪Aは約40m×25mの小さなものであり、北東側が若干高い。

北東側に尾根が延び、3〜4段の腰曲輪Bがある。
北下の鞍部が切通しCがあるが、これは堀切を拡張したものではないかと思う。
深さは約3m、幅は約5mある。この切通し(堀切)の北側は高度を上げて行く。

@城南側を覆う横堀 A曲輪内、比較的平坦で北側が若干高い。
B北下の腰曲輪 C北側鞍部の切通しは堀切を利用したものか?

この城も住民の避難場所と推定され、南側に広がる平坦部及び西下の平坦地が避難場所で、曲輪内は領主の居場所だろうか?
西の麓の大久保氏が管理していたのではないかと思われる。(2024.3.11)

大久保館(大田原市大久保)36.9112、140.1644
黒羽町誌には「那珂川の支流前松葉川添いの標高243mの前郷河岸段丘上に構築されている。
郭は約五〇アールと小規模である。
南東には土塁があり北側に堀が一段低く畑地として残り、単濠単郭の館として確認できる。
東南側には小河川が流れ背後は丘陵の山々が広がり、小規模ながら防禦力のある館跡である。
この館の歴史は不明であるが、江戸初期の堂坂観音堂墓碑銘に大窪氏(大久保氏)の名もあり、大久保氏と関係を持つ館と考えられる。」と書かれる。

南側から見た館跡、土塁なんてあるのか? 東から見た館跡。若干、段丘の高い場所にはあるが・・・

で、その場所に言ってみたのだが、農家の宅地になっており、土塁や堀は確認できない。
どうやら湮滅しているようである。
西側に丘があり、その丘の方に何かあるかもしれない。

羽黒山要害(大田原市木佐美)36.9055、140.1675
大久保館のある大久保地区の南東にそびえる堂々とした山、羽黒山にある。
山頂に羽黒社が祀られているのでこの名が付いたという。

↑北側、大久保館の東から見た城址。堂々たる山である。山裾を前松葉川が流れ水堀の役目を果たす。
 山頂左の平坦部が下の縄張図のC、住民の避難スペースか?


標高は373m、西下を流れる前松葉川からの比高は136mである。
城には木佐美川が合流する北端部にある橋(36.9090、140.1662)を渡って突入する・・・が、この橋、閉鎖されているし、川を渡っても道は薮化している。
かろうじて道跡がありそれを辿る。すると山麓部に平場がある。
これはなんだろう?石列で土留めをされている場所もあった。


@城址の入口にあたる堀切。埋没が激しい。

(注 縄張図の右下に堀切が存在するが確認漏れ&描き漏れ!)

山頂へは尾根を上がればいい。この尾根、比較的勾配が緩く藪もそれほど多くはない。
しかし、距離が長い!比高は136mもある。
だらだらして時間がかかる。その分、じわじわと疲れが溜まる。

山頂近くにようやく堀切@を発見。
でもかなり埋没している。これが大手なんだろうか?

A山頂に建つ山の名前の元となった羽黒社 B山頂周辺の主郭部周囲を覆う帯曲輪 C主郭部東下に広い平場がある。住民の避難場所か?

さらに登ると主郭であるが山頂の主郭部は急斜面の北側を除き、帯曲輪が一周する。
この帯曲輪が囲む範囲が主郭部であるが、40m×30mくらいの広さである。
そしてその上の羽黒社の祠Aが建つ場所が山頂であり、主郭である。
祠の周囲を低い土塁が囲むが、これは祠に伴うものであろう。
この羽黒社、すでに管理されていないようであり、荒れている。
一応、屋根に積もった枯葉を取り除いておいた。

その祠の建つ場所の周囲、南側に腰曲輪が見られる。
東に降りると帯曲輪Bが堀切、横堀状になり、東下に平坦な場所Cが広がる。
この平坦地、東西約100m、南北は緩く傾斜しやはり約100mか?
東側は細尾根が北に下り、曲輪状となり切岸加工がされている。

この城、北下の大久保館や付近の住民の緊急時の避難場所であろう。
特に山頂東側の広いエリアは住民の避難場所には適していると思われる。