四斗蒔砦(那須烏山市小木須)35.6119、140.1976
茂木町の北東部河又地区の西側は那須烏山市の小木須地区であるが、その南端、四斗蒔の北西の標高292mの山にある。
木須川に沿って県道274号線が北上し、河又で山内から延びる県道171号が交差し、烏山への入口上境方面に通じる。
分岐点は四斗蒔の600m東である。

今は山間の過疎の谷間に過ぎないが、戦国時代、ここは交通の要衝だったのである。

↑四斗蒔集落から見た北東に聳える城址。右に見える道を行けば到達できる?かもしれないが、保障できない。

四斗蒔地区の標高が114mであるので城のある山の比高は約180mある。結構高い。
国土地理院の地図だと、道が城址まで延びているのであるが、麓近くでは道は確認できるが、城址付近にはその道は確認できない。
すでに消失してしまっているのだろうか?
つまり、行く道などないようである。

城址南西の尾根を遮断する高さ3mの礫岩。降りるのが怖い。
こんなものあったら堀切なんかいらん!
礫岩を降りたら綺麗な尾根が続く。この先が城址である。

麓から城のある山は見えるので、ともかく、沢を行き、途中から尾根に上がりひたすら城を目指す。
でも尾根も谷も結構急であり、岩場が立ちはだかる。そこを突破し、何とか南西に延びる尾根から城址に到達。

城は単郭であり、主郭@は40m×25mほどの広さ、南東端が高さ約1mの土壇Aを持つ。
ここは狼煙台か?曲輪内の削平は良好である。

主郭北側に腰曲輪、犬走りと帯曲輪を置き、北に延びる尾根に三重堀切Dを北西に延びる尾根に4本の堀切B、C(うち2本は二重堀切C)を置く構造である。
また、土壇から南東に下る尾根が大手道、登城路であったらしく、途中に腰曲輪Eが何か所かある。

@主郭部内の削平は良好である。
藪を払えば現役復帰可!
A南西端部に土壇がある。狼煙台か?
ここから大手道が下る。
B北西に延びる尾根にある1本目の堀切
C北西に延びる尾根は高度を下げながら続き、
末端部に二重堀切がある。
D北に延びる尾根の付け根には三重堀切がある。 E Aの土壇から南東に下る尾根の途中にある曲輪。
 堀切は見られない。このルートが大手道だろう。

この構造から南東側、四斗蒔地区から登っていたことが分かる。
北側に延びる尾根に堀切が多数構築されるため、想定する敵は北方向ではないかと思われる。

その場合、茂木氏の城という事になり、北の那須氏に対する城であるとの想定が成り立つ。
城址からは南に大峰山が見えるため、感知した異常を狼煙で大峰山経由で茂木城に伝達していたことが想定される。

その逆に 康正3年(1456)の足利成氏指示による那須持資による茂木満知攻めが行われている。
その要因は成氏に敵対する宇都宮氏攻撃に茂木氏が消極的だったことによるとされるが、真意は不明である。

この那須氏による茂木氏攻撃は3月から12月まで続けられたが、茂木城は落城しなかった。
この時、那須氏は茂木城近くに陣城を築き腰を据えて攻撃したという。その陣城こそが大峰山の山頂にあった大峰山城である。
大峰山城の狼煙を那須氏の本拠の烏山方面に伝達する中継所という想定も成り立つ。
しかし、1450年頃の山城に三重堀切等があるものだろうか?もっと後の時代の城のように思える。
それに味方の方向に堀切が構築されているのもおかしい。

やはり、茂木氏側の城の可能性が大きいのではないかと思える。
(2024.3.19調査)