大将古家城と高館城(那須烏山市下境)

稲積城の東側の山に大将古家と高館城がある。稲積城の南東2qの標高304mの山が大将古家であり、那珂川からの比高は250mである。
右の写真は稲積城から見た大将古家(中央右手の最高個所)と高館城(中央やや下の山)である。
 大将古家という名前が非常に変っているが源頼朝が奥州藤原氏攻撃に向かう途中に陣を置いたとか佐竹義重が稲積城攻撃のために陣を置いたことで付いた名前という。
 したがって、この大将は源頼朝か佐竹義重を指すということになる。
 しかし、実際に行ってみると余りに高い山すぎて、こんなところに陣を置く必要は感じられない。
 城自体もほとんど自然地形に近く、物見台程度のものである。確かに稲積城は一望のもとに納められる。
これに対して高館城は段郭を重ねただけの古い形式の城であるが、ちゃんとした城であり、曲輪も広くかなりの人数を収容できる。
左の写真は西側の山ろくから見た高館城である。
 これらの城は佐竹氏が那須氏攻撃の陣を敷いた場所というより、逆に那須氏が稲積城防衛のために築いた城と考えた方が妥当かもしれない。
 ここに少数の部隊を篭らせていただけで、心理的にも威圧効果がある。
それに周囲の崖が険しすぎて攻撃もできない。高館城なんかは那須氏が住民保護の逃げ城として用意した城と考えたほうが良いのかもしれない。
大将古家に行くには稲積城から真東に向かい南に曲がる上り道を行く。
 道を上がり終えるとちゃんと標識が出ている。ここまでは車で行けるが後は山道を1.5kmほど歩く。

城が近くなると尾根は細くなり、北側は崖である。途中に堀切があるが、自然地形かもしれない。
 尾根上にピークがいくつかある。山頂が近づくと高さ5mほどの岩がある。自然の物見台、櫓台としても十分に通用する。
 肝心の主郭は長さ50mほどであり、平坦であるが、土盛りがいくつかある。
 これは13塚のような交通の安全や境界の鎮守のためのものらしい。南側に3段、北側に2段の曲輪がある。
 北側下には幅は5m程度の帯曲輪が東側から回っている。さらに下には帯曲輪が2段配置されている。
 簡素な城であり、それほどの手は加えられていない。やはり物見の砦程度といって差し支えない。
 高館城にはやや西側から北に張り出した細尾根を行く、この尾根は両側が崖で結構怖い。
 途中が落差5m程度の岩があり、これを下りる。しばらく行くと尾根に堀切がある。標高220m地点であるので既に大将古家からは80mほど下っている。
 この尾根を20mほど登ると何と城(高館城上の城)がある。段郭を2つ重ねただけのものであるが、切岸は人工のものである。
 大将古家からはここまで水平距離で400mである。40mほど下ると鞍部になるが、ここが高館城の大手らしい。
 20mほど登ると高館城である。上の城の西250m、標高は230mである。 

大将古家に行くには稲積城から真東に向かい南に曲がる上り道を行く。
 道を上がり終えるとちゃんと標識が出ている。ここまでは車で行けるが後は山道を1.5kmほど歩く。
 城が近くなると尾根は細くなり、北側は崖である。途中に堀切があるが、自然地形かもしれない。
 尾根上にピークがいくつかある。山頂が近づくと高さ5mほどの岩がある。自然の物見台、櫓台としても十分に通用する。
 肝心の主郭は長さ50mほどであり、平坦であるが、土盛りがいくつかある。
 これは13塚のような交通の安全や境界の鎮守のためのものらしい。南側に3段、北側に2段の曲輪がある。
 北側下には幅は5m程度の帯曲輪が東側から回っている。さらに下には帯曲輪が2段配置されている。
 簡素な城であり、それほどの手は加えられていない。やはり物見の砦程度といって差し支えない。
 高館城にはやや西側から北に張り出した細尾根を行く、この尾根は両側が崖で結構怖い。
 途中が落差5m程度の岩があり、これを下りる。しばらく行くと尾根に堀切がある。標高220m地点であるので既に大将古家からは80mほど下っている。
 この尾根を20mほど登ると何と城(高館城上の城)がある。段郭を2つ重ねただけのものであるが、切岸は人工のものである。
 大将古家からはここまで水平距離で400mである。40mほど下ると鞍部になるが、ここが高館城の大手らしい。
 20mほど登ると高館城である。上の城の西250m、標高は230mである。
 この3つの城は尾根で繋がっており、1体化した城と言える。
高館城は他の2城に比べるとはるかに城らしい感じである。
 土塁や堀切といった象徴的な城郭遺構はなく、段郭構造の古い形式の城であり、切岸を堀替わりに使っている。
 曲輪は4段ほどになっており、北側、東側に展開する。西側は急斜面であり、北側、東側も途中から急斜面になる。
 最高箇所の本郭は直径40mほどの大きさである。この周囲に段々に帯曲輪が取り巻く。曲輪の幅は30mほどあり結構広い。
 切岸は3、4m程度の高さである。城域は150m四方程度と思われる。かなりの山中にあり、ここまで来る道はどの方面から来ても険しい。 
大将古家西の尾根の物見? 大将古家の本郭 大将古家北下の帯曲輪 大将古家、高館上の城の間の尾根にある岩。これも防御施設だろう。
高館上の城南の堀切。 高館上の城北側の曲輪。 高館城の本郭部。 高館城の曲輪。結構広い。

 攻撃する側からすればとても攻められないであろう。位置的には稲積城の真東であり、支城と見るのが妥当である。
 佐竹氏が使ったというが、陣城にしてはしっかりしている。
 那須氏の城を奪って使用したのだろう。この場所に陣を置かれたら稲積城の城内は丸見えであり、心理的に威圧効果は大きいであろう。
 この3つの城は距離は結構離れてはいるが、別々の城ではなく、尾根で繋がった、1体化した城と捉えるのが妥当である。当然、本城は高館城であり、その背後を上の城が守り、物見として大将古家があるという関係である。上の城と大将古家は緊急時の逃走経路を確保する役目もあったのであろう。

大木須城(那須烏山市大木須)

大木須は「おおぎす」と読むのだそうである。「大木須大膳館」ともいう。
ここは那須烏山市の東部茨城県境の山中であり、東の山を越えると6qで茨城県常陸大宮市の旧緒川地区の大岩である。
戦国時代はこの付近が那須氏と佐竹氏の勢力境界であり、山向うの大岩には佐竹氏の最前線の大岩城がある。
佐竹氏の那須領侵攻はこの地区をとおっていたと思われ、常に緊張をはらんだ地区だったようである。
城は常陸大宮から緒川をとおり、小舟城南から大岩の谷をとおり烏山に向かう県道12号線と県道274号線が交差する大木須の交差点から、県道274号線に入り500m南下し、さらに行人峠に向かう道(これが本来の街道ではなかったかと思う。)と県道274号線の間にある北から南に張り出した尾根の末端の盛り上がり部にある。
城のある山の標高は230m、麓が165mほどであるので比高は65mほどある。それほど高い山には見えないが結構な比高があるものである。
山の東側と南側は急坂である。位置からして佐竹の那須領への侵攻を監視する砦である。
狼煙台であった可能性もある。ただし、西側の烏山までの6qの間には高い山があるので、狼煙リレーで連絡しなければ役には立たなかったであろう。
那須氏の支族、木須氏の城であるが、この木須氏は、明応年間(1492〜1501)に那須資実の次男であった頼実が興した家である。
大木須、小木須を領したため、地名を姓に取り入れ木須民部太輔を名乗ったようである。
この木須氏は天文20年(1551)、那須高資の千本氏による暗殺事件に巻き込まれ、同行した木須頼実の子、康実が殺され、これにより木須氏は一家が離散してしまったため、廃城となったといわれる。
しかし、那須氏と佐竹氏の抗争はその後も続くため、城は存続し、最終的に廃城になったのは戦国末期、那須氏と佐竹氏が和解したころではなかったかと思われる。
城はごく簡素な直線連郭式の砦にすぎず、早期通報のみがこの城の役目であったようである。
しかし、佐竹の大軍はそのまま烏山、稲積方面に進出しているので、この城に篭った木須氏はどうしたのであろうか。
おそらく通報終了後、城を放棄し、山伝いに烏山方面に避難したのではないだろうか。
城の麓に立派な農家があるが、この付近に平時の居館があったのではないかと思われる。
城へはこの農家の裏から行けるようであるが、そうも行かず、西側の沢沿いから入る。
ところがこの沢、湧き水が多く足場が悪い。夏場はマムシの楽園と思われ、とても行けないであろう。
沢を入り途中から尾根に出、そのまま南に向かうと城址である。
城は南北100mほど、東西は最大でも30mほどしかないささやかなものである。
城というより砦である。尾根筋にはキチンとした堀切は1本しかない。
幅も6mほどで申し訳程度のものである。
尾根筋からの攻撃を受けたら一たまりもない。とても篭城して抗戦する思想は感じられない。
堀切から主郭部までは数段の曲輪があるだけである。主郭には直径6m、高さ2mほどの土壇があり、小さな社がある。
子供の頭ほどの石が土壇に積まれているが、これは投石用のものと思われる。
この土壇は狼煙台のように見える。
その南側に曲輪が3段ほどあり、虎口が埋もれてはいるが確認できる。
この主郭部の広さは30m四方程度である。南の麓に下りる道がかろうじて確認でき、道沿いに小さな曲輪が造られている。
南側から見た城址。麓の民家が館跡ではないだろうか。 北側にある堀切。主な防御施設はこの堀切のみ。 主郭部にある土壇。狼煙台であろうか
丸い河原石が沢山積まれていた。
主郭部は3段構成になり、直径30m程度の広さしかない。