沢村城(矢板市沢)
箒川の南岸沿いには下流から福原要害、佐久山城、沢村城といった那須氏の代表的城郭が並ぶ。
この沢村城は矢板駅から北東4q国道4号線から県道52号線に入り佐久山方面に向かい約2qの位置にある観音寺や沢村温泉神社北側の標高250mの山に築かれる。
箒川の標高が200mであるので川面からの比高は50mほどである。
佐久山城からは西に5km、大田原城からは南西6kmの位置である。
例によって那須氏系城郭の特徴である豪快な横堀がうねうねと這い回る見ごたえのある城である。
城のある山は箒川沿いに東西に細長く延びており、北側の箒川に面した部分は断崖状になり、南側に面した部分は緩い斜面である。
本郭を箒川に面した断崖上に置き、南側斜面に横堀を二重にまわしている。
温泉神社の社殿@付近から既に段郭が確認でき、館などがあったものと思われる。
県道から神社に行く参道の脇の水田が堀跡Nであったという。
神社社殿の裏を登ると直ぐ1つ目の横堀(三の堀)Aである。
この堀は神社裏で三方に分岐Bし、1本は東に1本は北にそして1本が西の観音寺方面に向かう。
分岐点から西側が北三郭である。
堀は結構埋没しているが、幅は8mほど、本郭側は6mほどある。
堀沿いに北に向かい土塁間を過ぎると2つ目の横堀(一の堀)DMが現れる。
この堀は本郭の周囲を3/4周する。
土橋Cがありここを通ると本郭に行ける。
堀の北側は広くなり西側が曲輪となる。
ここが北二郭である。
この曲輪Lは本郭の北側を覆い、途中で断崖となる。
本郭の東側に向かう堀は本郭の南東下で2つに分岐する。
この分岐点近くの堀底は広く武者溜Kを兼ねていたようである。
ここから見上げる本郭は10m程度の高さがある。
急角度で圧し掛かってくるような切岸は圧倒的な迫力がある。
ここで分岐した堀の1本は本郭と二郭を隔てる堀(二の堀)となり北側は箒川に落ち込む。
H
本郭と二郭間の堀Iは本郭側からは8mほどの深さがある。
また分岐した1本はそのまま東に向かい二郭の南側を覆う。
本郭Eはいびつな菱形のような4角形をしており40m×50mの広さがある。
北側に高さ4mほどの土壇があり、東西に土塁が延びる。
土壇F上は直径8mほどの大きさであり、実質的な天守台である。
城を象徴する丸太組の櫓があったのであろう。
この土壇の東側は完全な崖でおまけにオーバーハングしている恐ろしい場所である。
覗き込んで思わず後ずさりしてしまった。
南側にも土塁がある。
本郭の周囲は本来は全周土塁が覆っていたようである。
本郭の東の二郭は本郭側の土塁があり、東西70m、南北20mの細長い曲輪である。
東端に堀があり、東側に20m四方の曲輪があり、その東にも堀がある。
この先は家臣の館があったらしい。
二郭の南側は二の堀があるが、その南は斜面であり、下に平地がある。
この部分が三郭であり、南は一の堀で区画されている。
城域としては家臣の館部分も含めて東西500m、南北200m程度はあったと思われる。
(曲輪名や堀の名は「那須の戦国時代」掲載図にしたがった。)
@城址のある山の南の山麓にある 沢温泉神社。 この裏手に壮大な堀がある。 |
A神社裏を登ればこの三の堀が現れる。 | B三の堀の西側は観音寺まで続き、 いくつかの堀が分岐する。 |
C本郭の南西直下、 一の堀に土橋がかかる。 |
D一の堀は本郭と二郭の北側を 除いた周囲を覆う。 |
E本郭内部。南側にも土塁がある。 | F本郭の北側に高さ4mほどの大きな 土壇がある。櫓台であろう。 |
G本郭から北の大田原方向を見る。 下に箒川が流れる。 |
H本郭東の二の堀北側は箒川に 落ち込む。堀底までは8m程度ある。 |
I二の堀の底から見た南側、 右が本郭、左が二郭。 |
J二郭の南まで一の堀が延びている。 | K本郭の南東で一の堀と二の堀が 合流し、堀底が武者溜のように広くなる。 |
L本郭の北西側。 一の堀はここで曲輪状になる。 |
M本郭(右)西下の一の堀。 堀の左側の平場が北二郭となる。 |
N県道52号の北側の水田は 水堀の跡という。 |
2kmほど東にある将軍塚古墳。 佐久山城との中間点。 砦として利用していたのではないだろうか。 |
この城は平安末期の文治3年(1187)に那須資隆の7男、あの那須与一の兄、満隆が築城したという。
満隆は沢村氏を起し代々居城し、塩谷氏に対する那須領の境目の城の役目を演じた。
戦国時代、応永21年(1414)福原城の那須資之と、沢村五郎資重が不和となり、那須家は上那須家と下那須家に分裂し、支族や佐竹氏まで巻き込んで泥沼の内戦が起こる。
沢村氏は那須資之の攻撃を受け、耐え切れず稲積城に移り、さらに烏山城に移る。
その後この城の城主が誰であったかは分からない。
しかし、今に残る遺構は那須氏一族の城の中でも特筆できるほどの堂々とした戦国城郭である。
塩谷氏というより、その背後にいる宇都宮氏に対する防衛拠点として大田原氏あたりが整備したのではなかったのだろうか。
廃城は那須氏改易時ころであろう。
それにしてもこれだけの遺構を持つ城なのに城址への案内もなく、どこにも解説板がないのはどうしてだろうか?
少なくとも城址碑や解説板がある佐久山城より遥かに立派な城と思うのであるが?