日光周辺の城

鶴ヶ渕城(日光市上三依)
国道121号(会津西街道)を鬼怒川温泉、川治温泉方面から会津方面に北上すると、東の塩原温泉方面に国道400号線が分岐する上三依の交差点がある。
ここから更に1.5kmほど北に行った場所に城がある。

場所が非常に表現しにくい場所であるが、国道に沿って西に男鹿川があり、川にかかるロープで閉鎖されたコンクリートの古い橋がある。
(多分、廃棄物の不法投棄をされるため閉鎖されているのじゃないかと思う。)
この橋を西側に渡ると、渡った先の南側に城址碑と解説板がある。
その先、南側にに角馬出のような張り出し@がある。
西側と南側には堀、土塁A、Bがある。東側は男鹿川Cである。
城という名は付いているが、これは街道閉塞施設である。
会津鉄道の線路を越えた西側の田代山の山麓から土塁と堀がここまで下り、谷間の男鹿川に接した場所に南側に20m四方程度の角馬出のような張り出しを設けただけものである。

山から下って来る堀と土塁は豪快であり、総延長400m程度あるという。
さらに東側の姥捨山の山上に物見台という曲輪群があるが、こちらはほとんど自然地形らしい。
何とか見れるのはこの角馬出のような部分周辺の堀、土塁くらいであり、他は一面の笹薮である。

この会津西街道は古くから、下野から会津に行く主要街道であり、幕末、戊辰戦争の宇都宮城攻防戦で敗れた土方歳三率いる旧幕府軍と新撰組の混成部隊が会津に撤退して行った道でもある。
その街道を監視し、侵攻を受けた時の防衛施設として築かれたのが、この鶴ヶ渕城ということになっているが、平常時は関所であり、馬出の南東部が抉れており、ここから街道が馬出内に入り、北に抜けたという。
この部分は、敵に攻撃を躊躇させるための威圧を狙った程度のものにしか思えない。
しかし、馬出背後の土塁は堀底Aから5mほどの高さがあり、この狭隘部を塞ぐこの堀と土塁の北側に大勢の鉄砲隊を配置し、密度の高い火点を構築すればすれば、いかに大軍であってもこの狭隘部ではその効果は限られ、そう簡単にここを突破することはできないだろう。
それができるのは上杉氏クラスの戦国大名だろう。
長沼氏時代には姥捨山の部分だけだったらしい。
当時の長沼氏の仮想敵は宇都宮氏であろうか。
当時、麓の遺構があったかどうか不明であるが、麓の遺構は関ヶ原前夜に上杉景勝により、馬入峠や母成峠の防塁同様、対徳川用に整備されたものと言われている。
さらに時代は下り戊辰戦争の際、会津藩がこの街道で会津に侵攻する官軍に備えてさらに整備したとも言われる。

左の写真は馬出の北側土橋から内部を撮ったものである。前面(南側)に土塁がある。
左側は溝状になっており、ここから馬出に入ったらしい。
A馬出西側の堀と土塁。笹薮が凄い。 B馬出南側の堀、土塁上から深さ4mほど。 C東を流れる男鹿川の渓谷