塩原城(那須塩原市中塩原要害)36.9836、139.7930
あの名湯「塩原温泉」にある城であるが、温泉街からは西約2q、箒川にウトウ沢川が合流する地点の崖上にある。
字名はずばり「要害」である。
川面の標高は574m、城址の標高が620mなので比高約50mある。
そこまでは木の葉化石館前から西に延びる細い道を登って行く。
道は箒川に沿った斜面を登って行くが、やがて山から抜け、目の前に平坦地が広がる。
その台地平坦地の南端部に城がある。
しかし、遺構が・・一部は立派であるが、全体的に曖昧である。
解説板によると城域は東西約300m、南北約250mの広さがあったという。
従来、結構遺構は残っていたようだが、水田開発でかなり破壊されてしまったという。
城址東側は現在水田になっているが、そこも城域だったようである。
だから曖昧な印象を与えるのである。
城には西側から入るが、沢が南に流れ、天然の水堀の役目を果たす。
西側は民家であるが、おそらく家臣の屋敷があったのだろう。
沢を越えると東に高さ約5mの切岸がそびえ、坂虎口@がある。
ここを入ると城の主郭部である。
@城の入口の坂虎口、ここを上がれば主郭部である。 | A @の虎口を上がった畑の縁部には低い土塁がある。 | B Aの畑の北側に堀が一部残る。 |
虎口を入った場所が本郭と思いきや、そこではなく、そこの南東側C、そこは約30m四方の広さであり、虎口や馬出しもあったようである。
そこはかつて水田になっていたそうであり、ほとんど荒れているが、東に高さ約2mの土塁とその外側に堀Dが残る。
北側にも堀の痕跡がある。
従来は南側の箒川の崖面以外の3方向を巡っていたようである。
C @の虎口を入った東の奥側が本郭という。 | D本郭の東側には土塁と堀が残る。 | E 二郭の東にある沼は水堀跡という。 |
虎口を入った場所、ここが二郭なのであろう。
内部は畑である。北側部分の西側は低い土塁Aが巡る。
北側には土塁があり、堀Bがあるが、堀はさらに東に延びていたようである。
途中で埋められように思えるが、そんな形跡も感じられない。
二郭の東側は林となるが、さらに東側に沼Eがあるが、これは水堀跡と思われる。
二郭はL型をし、本郭の北側、西側を覆っていたようである。
本郭の東側は林であるが、ここが三郭かどうか分からない。
遺構があるのかないのか?見た限りでは確認できないが。
しかし、東西約300mというのでここも城域とは思うが。
箒川方面からは非常に攻めにくいが、岡上に上がられてしまうとかなり弱い感じがする。
特に平地が続く北側から攻撃されたら危ないと思われる。
ところでここの東に「戦場」という字がある・・多分「いくさば」と読むと思うが、この地名の謂れは何だろうか?
塩原氏は塩原から三依、横川(鬼怒川上流の福島県境に近い地域)を支配した豪族。保元元年(1156)八郎ヶ原に八郎館を築城し、治承2年(1178)塩原城を築城して居城とする。
鎌倉時代は長沼氏の家臣となるが、応仁2年(1468)宇都宮氏に滅ぼされる。
その後、文亀2年(1502)には会津の葦名氏家臣、小山出羽守が城主となり大改修を受ける。葦名氏の勢力は下野北部にまで及んでいたのだ。
戦国時代は宇都宮氏家臣の塩原越前守が城主となるが、慶長2年(1597)宇都宮氏の改易に伴い滅亡し廃城となった。
(「那須の戦国時代」「とちぎの古城を歩く」を参考にした。)
田野城(那須塩原市下田野)36.9392、139.8953
城址は高原オートキャンプ場になり、遺構はほとんど湮滅している。
ここは箒川に面した北側の岡上であり、標高は372m、箒川からの比高は約20mである。
↑南東側、箒川沿いに見た城址。箒川の上流方向が塩原温泉である。
キャンプ場は一部、遺構を利用している部分もあるようであるが、それが城のどのパーツなのか分からない。
かろうじて箒川に面した台地の縁の南西部に遺構が残存している。
残存部は東側に少し傾斜した勾玉型をしており、長さは東西約70m、土塁を東と北側に持つ。
東側と北側に堀が残る。
@曲輪先端部の土塁と堀 | A北側の土塁、しかし、低い。 | B北側は深さ約4mの堀が残る。 |
これだけである。
キャンプ場内にも遺構があったはずであろうが・・・。
この地は箒川に向けて緩く傾斜している土地の末端部であり、本来は北側に2重の掘が半円状に取り巻いていたという。
その場所がどこなのか、今となっては分からない。
城主は関谷氏という。
関谷氏は関谷太郎兼光が川崎城の堀江氏(前期塩谷氏)の家臣となって成安年間(1299-1302)築城。
天正13年(1585)主君、川崎氏の没落に伴い、関谷氏も没落したという。
真木城(那須塩原市金沢)36.9187、139.9022
野沢城ともいう。東北自動車道西那須野塩原ICの西約4qにある。
東下を箒川が流れ、南約3qには宇都野城がある。
城は標高344mの東西に細長い岡にあり、南下には野沢川が流れる。川面からの比高は12mほどである。
また、北側は深さ約8mの谷津が入る。幅は約20mはある。
人工的に横堀に改変しているようであり、西側の末端は野沢川の崖面に合流させ、独立した岡を造り出している。
岡東側には箒根神社が建つ。
神社には東側、県道30号線側から参道の石段が付いており、そこを上がる。
上がってビックリ、木の上に「猿」がいるではないか!
奴も驚いただろう。しばし睨み合い。
@東側の本郭に建つ箒根神社、左手に土塁がある。 |
この部分が本郭@であり、約60m四方で東側に突き出しが付く。
岡は幅約8mの堀Bで東西に分断され、東側、神社側には土塁Aが構築される。
堀に面して土塁間が開いている。D
堀の西側が二郭Cである。長さは約100mある。
現在、堀から北側に下るように道が付いているが、これは社殿建設資材を搬入するため、軽トラが上がれるように後付けしたものと思われる。
従来は二郭の北側から入るようになっていたと思われ、竪堀のような登り道がある。(でも、藪で写真を撮ったがさっぱり分からない。)
二郭から堀を渡って本郭に入ったと思われる。
多分、二郭側から木橋が架かっていたのではないかと思われる。
A本郭西側を覆う土塁、土塁の向こう側が堀 | B本郭(左側)と二郭間の堀 |
C二郭内部は広く平坦である。 | D本郭西側、土塁間に開く虎口を堀底から見る。 |
川崎城の支城であり、川崎氏家臣、大舘弾正義則が寛正2年(1461)築城し、天正12年(1584)大舘義行の代に大田原綱清に攻められ落城したという。
その後、宝永5年(1708)洪水で被害を受けた箒根神社をここに遷宮したという。