那須町の城

波月山砦(那須町伊王野)36.9667、140.1823
伊王野から県道60号線を白河の関方面に約2.5q、三蔵川の北に標高418.1mの波月山がそびえる。
麓からの比高は約170m、結構高い。
その山頂にある。

↑南側、堀の内地区から見た波月山
城には西側の貯木場から林道が延び、それを進めば山頂の北直下に出る。
しかし、この林道、既に使われなくなって荒れている。

このため、上郷公民館付近から直登が一番かもしれない。
比較的山は荒れていないので何とか歩くことは問題ない。
しかし、水平距離は約600mであるが、比高170mある道なきルートであり、それなりにきつい。

@山頂部南下を覆う帯曲輪

遺構は簡素なものであり、山頂に径約7mの平場A、西下に2枚の腰曲輪、さらに山頂から高度で約20m西下の斜面に幅4mの帯曲輪@が約70mにわたり半円状に巡る。
一方、北東下の北東に続く尾根筋に作業道を通すため、かなりの破壊を受けているが、堀切Bが存在し、竪堀Cが残る。

Aここが波月山山頂、径7mの大きさに過ぎない。 B山頂北下の堀切は作業道建設で破壊を受けている。 C堀切Bから下る竪堀は残存している。

この程度の遺構に過ぎなく、物見と旗等を立てて白河関から伊王野に近づく敵を牽制する程度の役目しか想定できない。
この山の南1qに「堀の内」集落がある。

高さ4mの切岸上の集落である。
位置は36.9596、140.1824である。
地名から推定すればここに伊王野氏家臣の館が存在していたと思われる。
ここの館主が運用していたのであろうか?

伊王野城と伊王野館(那須町伊王野)
幕末、天狗党に伊王野資清という人物がいた。
彼こそが、この城の城主であった伊王野氏の子孫なのだそうである。

伊王野城は霞が城ともいい、伊王野小学校の北側にそびえている標高330m、奈良川からの比高が100mほどの山にある。
この山は北側から南に張り出した尾根であり、城はその末端部にある。
東側に米沢が流れ、この方面の傾斜は急である。
西側は奈良川が流れる平地であり、この方面の傾斜はやや緩い。

そして、尾根末端の麓が伊王野小学校であり、ここが館跡である。
写真は南から見た城址である。小学校が館跡、その後ろが城であるが、尾根に堀切が見える。

その南には八溝山方面から西流する三蔵川が流れ、奈良川に合流する。
また、この地は陸羽街道が西側をとおり、棚倉方面への街道が分岐する交通の要衝でもある。
城には西側国道349号沿いに「霞が城入口」という看板があり、ここを入る。

車でそのまま三郭南の腰曲輪まで行ける。駐車場自体が腰曲輪である。なお、この車道の途中はすりばち状になっており、池がある。
この場所にも何らかの施設はあったものと思われる。

居館は伊王野小学校の地というが、ここは江戸時代寛永4年(1627)から同10年まで陣屋を置いたという地であり、当初はこの西側の地が居館ではなかったかと思う。
主郭部はこの場所の東側であるが、南側を覆う尾根@を見ると、櫓台のような平坦地があり、堀切が見える。
この尾根も城域であったと思われる。
主郭は4つの郭と周囲の帯曲輪からなる。
南北400m、東西最大150mが城域である。駐車場から北に向かうと曲輪を2つ経て三郭Aになる。
水平距離で100m位である。非常に広い郭であり、60m径ほどある。
正確には巴形をしており、北西側に延びている。この部分は最大100mはある。
周囲を高さ2mほどの土塁が覆い、虎口が北西側と東側、南側にある。ただし、南側の虎口は後付けのようである。
整備されているのは三郭までであり、この先はひたすら藪である。

二郭Bは三郭の北側にある三段構成の郭である。
1つの郭というより小曲輪の集合という感じである。
曲輪間は3,4mの高度差がある。東西40m、南北70m位の大きさである。
北端に櫓台があり、土塁が西に延びる。

西側は横堀Dであるが、藪である。
二郭の北が堀Cありその北が本郭である。この堀、深さ9m、幅は15m近くある巨大なものである。
本郭はやや東に張り出した形であり、60m×30mくらいの広さであるが内部はひたすら藪である。

西側4m下に帯曲輪があり、さらに6m下に横堀Eがある。
本郭の北側に巨大な堀Cを経て北郭がある。
本郭からの深さは10m程度はある。
北郭は本郭と同じくらいの規模である。
内部はHの堀で2つに区画されている。
その北側に再度Jの堀切があり、土橋がある。西下は横堀Iがあるが、林道で破壊されている。
その先に堀切Kが2本ある。ここが城の北端となる。

この城のある山は北側からだらだらと高度を下げてきているため、もし、攻撃するなら北側から尾根に沿って攻めるのがセオリーであろう。
北郭の守りは厳重であるが、尾根筋からの攻撃の防護拠点としてのものであろう

主郭部の東西の斜面には曲輪がいくかあるが、とても確認できない。
写真を撮っても藪しか写っていないカメラ泣かせの城である。
これだけ見事な遺構が残っているのなら、もう少し藪を何とかして欲しいものである。
@先端部西に延びる曲輪の遺構 A 三郭内部、戦国期の館跡である。 B 二郭は段々状、その最上部には神社が。
C二郭と本郭(右)間の堀 D 二郭の北を西に下る竪堀 E 本郭西下の横堀
F本郭と北郭間を西に下る竪堀 G本郭(右)と北郭間の深い堀。 H北郭内の堀
I 北郭西下の横堀は林道で
破壊されている。
J 北郭、北の虎口。 K 最北端の堀
伊王野城は那須七騎の一人、伊王野氏の城である。
伊王野氏は鎌倉時代、那須氏を継いだ宇都宮朝綱の子、那須資頼(頼資と改名)の次男は資長が、伊王野に分家し、伊王野次郎左衛門尉資長を名乗ったのが興りという。

当初は麓の居館に住み、この山には詰めの城は古くから存在していたと思われる。
その居館が右の麓の伊王野小学校の地である。後ろの山が伊王野城である。
この居館、南北111m、東西126mの規模があり、四方に土塁と堀を巡らしていたという。
築城は長享元年(1487)というが、これは詰めの城を本格的に整備したころであろう。
築城後、居館は伊王野城の三郭の地に移ったらしい。
戦国時代が迫りつつあることによる措置であろう。

現在残る伊王野城の遺構は大規模で戦国末期の要素が多く、長い年月をかけて整備を続けていったものであろう。
伊王野氏は以後戦国時代まで、那須氏を支え、ある時は那須氏に反抗して生き残る。

その戦績としては、東寺合戦、上杉禅秀の乱、結城合戦等への参陣、19代資宗、20代資信の時代には宇都宮氏、芦名氏、岩城氏、佐竹氏らと戦ったり、佐竹氏と同盟し、宗家と戦っている。
宇都宮氏と戦った五月女坂の合戦(1549)で敵将宇都宮尚綱を討ち取ったのは伊王野氏家臣鮎瀬弥五郎である。
最盛期の所領は13000石であったというから宗家を除けば、那須七騎筆頭である。
動員兵力は300名程度であろう。(伊王野城は300名程度が立て篭もる規模の城ではなく、やはりその家族や領民が緊急時に立て篭もることも考慮していたのであろう。)
この伊王野氏であるが、小田原の役でつまづく。

役以前から同じ那須七騎の大田原、大関氏は豊臣秀吉と渡りを付け、いち早く参陣しているのに対し、那須資晴の説得に手間取り、参陣が遅れてしまう。
この結果、改易はされないが、減封され、加増を受けた大田原、大関氏の後塵を拝することになってしまう。
当主、伊王野資信は文禄の役に加藤清正に従い参戦して軍功を上げ、関ヶ原の戦いで東軍の属し、上杉方の強行偵察侵攻部隊を関山で破っている。

この功績で2000石を加増され、2738石の旗本となる。
居館は寛永4年(1627)、山城から再度、小学校の地にあった館に移る。
大名となった大田原、大関氏に比べると影は薄く、大阪冬の陣・夏の陣にも参加しているが尻つぼみ状態であった。
そして 当主が次づぎと病死し、跡継ぎがなく寛永10年(1633)改易となってしまう。

一族の残った者は水戸藩などに仕え、その子孫が続いている。
江戸末期、天狗党の乱に登場する伊王野資清は水戸藩に仕官した一族の子孫である。

備中郭館(那須町伊王野)
道の駅 東山道・伊王野の東に位置する。
伊王野からは県道27号線が黒羽方面に分岐し、三蔵川をわたると川に面した河岸段丘をあがる。
河岸段丘の縁、道路から東側を50mほど先に高さ4mほどの土塁がちらりと見える。
これが備中郭館跡である。この土塁、近くで見ると重厚である。南西端部は櫓台ではないだろうか。
川からは15m程度の高い場所である。

この館跡、内部が民家なのである。
元那須町町長益子氏のお宅とか?館は60m四方ほどであるが、西側には明確に堀跡が残る。
東側は藪状態でさっぱり分からないが、この方面は岡続きである。
南側は埋めてしまったようである。

多分、北側以外の3方を堀と土塁が存在していたのではないかと思われる。
なお、この館の南側は抉れた感じの窪地であるが、その南側はより高い岡である。
この岡の上からは館内が丸見えなのであるが・・・果たして、この状態で良かったものだろうか?

@虎口、内部は民家である。 A南西端の土塁は櫓台か? B西側の堀跡

伊王野氏重臣、薄葉備中の館であったため、「備中郭」と言われている。
この地には「薄葉」姓が非常に多いが、子孫であろう。

今の住人、益子さんとの関係はわからないが。
ちなみにこの地の益子氏は現在の益子町を拠点にしていた益子氏が宇都宮氏により滅亡された後、那須氏系の伊王野氏や大関氏を頼って残された一族が移ってきたと言われる。
参考:那須の戦国時代、栃木県の中世城館跡、航空写真は国土地理院が昭和50年に撮影したものを使用

芦野城(那須町芦野)
西を流れる奈良川の平地に臨む標高320mの山上にある。
平地の標高が260mであるので比高は60mほどであるが、山頂の主郭部西斜面Jの勾配は急である。
城のある山は東側の山地が西に張り出した尾根部分末端の盛り上がり部であり、半独立的な山となっている。
下の写真は西の芦野氏館から見た城址である。高い木のある部分が本郭である。

城へは芦野の街を通る旧道沿いにある芦野郵便局から東に入る道を上がる。
この道が大手道であったといい郵便局付近に番所があった。
道は坂を登り楊源寺に向かうが、南に折れて那須歴史探訪館のある地に至る。
道が曲がる付近にも番屋があったという。

資料館の地までは車で行ける。この付近は平地になっているが、ここも曲輪であったらしい。城址はこの東の山である。
山の勾配は急であり、上から覆いかぶって来るような迫力がある。
道が付いているので道を進めば城址である。
東屋が腰曲輪にあり、この付近が裏門である。その南側に広い平坦地が広がる。
ここがYの曲輪Bである陣屋跡である。
歪んだ長方形の曲輪であり、南北80m、東西150mの広さがあり、周囲を土塁が巡る。
南西端に枡形@があり、ここが表門である。
江戸時代の陣屋と言えば大体、平地や岡にあり、方形で周囲を土塁や堀で囲むというイメージであるが、この陣屋は全くそのイメージとは異なる。

何しろ比高は40mくらいある山の上である。こんな山上にある陣屋は他にあるのだろうか。
おそらく戦国時代の居館の位置そのままだったのであろう。
東側に土塁Cがある。こちらが搦め手であろう。表門の南側には大きな竪堀がある。

主郭部はこの北側である。陣屋跡からは15mほど高い。
主郭部はL形をしており、南西端の本郭H(曲輪T)の北に曲輪UIが、東側に曲輪VE、W、Xの3つの曲輪が並ぶ。
曲輪間はFなどの堀切で仕切られ、堀切は主郭周囲を巡る帯曲輪に通じる。
東端にDの堀を置き、東の山地との間を遮断する。
しかし、主郭部の曲輪はいずれも小さく、最終的な抵抗の場程度のものであり、生活の場には適さない。

城が機能していた当時はこの部分には武器蔵、火薬蔵、食料蔵があったのではないだろうか。
居館や政庁は戦国時代も陣屋のあった場所にあったのであろう。実質的にこの広い郭が城の主要部であったのだろう。
この部分が始めにあったのかは分からないが、この平坦地を造る工事量はすごいものである。
おそらく築城当初は山上の主郭部のみの小さな城であったのであろう。
本郭と考えられる南西端の郭HはL形をしており南北40m、東西30mほどの広さである。
北側に深さ5m幅6mほどの堀切があり、その先に曲輪UIがある。
この郭は南北30m、東西25m程度の大きさであり、本郭より3mほど低い。

居館や政庁は戦国時代も陣屋のあった場所にあったのであろう。実質的にこの広い郭が城の主要部であったのだろう。
この部分が始めにあったのかは分からないが、この平坦地を造る工事量はすごいものである。
おそらく築城当初は山上の主郭部のみの小さな城であったのであろう。

本郭と考えられる南西端の郭HはL形をしており南北40m、東西30mほどの広さである。
北側に深さ5m幅6mほどの堀切があり、その先に曲輪UIがある。
この郭は南北30m、東西25m程度の大きさであり、本郭より3mほど低い。
北側、東側に小さい郭が段々に続いている。

本郭の東側は深さ6m、幅8mほどの立派な堀切Fがあり、曲輪VDである。
この郭は直径20mの大きさに過ぎず、本郭より1mほど低い。
真ん中に窪みがあり、北側が土塁のようになっているが井戸だろうか。
それとも火薬庫だろうか。
それとも後世のものか、倒木の跡か分からない。

曲輪Vの東側には深さ7m、幅10mほどの鋭い堀切がある。
南端は竪堀のようになっているその先に曲輪W、Xが続くが、いずれも直径20mほどの広さであり、南側に腰曲輪がある。

@陣屋表門の枡形 A表門南下の竪堀 B陣屋内部
C陣屋東の土塁 D 城東端の堀 E曲輪V内の窪みは火薬庫?井戸?
F本郭と曲輪V間の堀 G 本郭(右)から曲輪VとWを見る。 H曲輪Vから見た本郭
I 本郭から見た曲輪U J本郭、曲輪U西下の帯曲輪 K曲輪Uから見た本郭

築城は、天文年間に那須七騎の1人芦野氏が築いたものであるという。
場所的にはここは那須領の最北端であり、北は白河結城氏の領土である。
那須氏と白河結城氏はそれほど激しい抗争はしていないが、それでも何度か刃を交えており、那須領の最北端を守る城であった。

芦野氏は、那須氏の一族で、那須資忠の四男資方が芦野三郎を称したのが始まりという。
本家の那須氏を支え、那須七騎の1人に数えられている。

那須氏は上那須氏と下那須氏との対立等、結構お家騒動が多い家であるが、芦野氏は始めは上那須氏に加担する。
この過程で上那須衆は佐竹氏と結び下那須氏に抵抗する。
しかし、上那須衆は劣勢となり、芦野氏も下那須氏に従うようになる。

芦野城は天文年間(1532〜1555)に芦野資興が築いたという。
資興は太田道灌に軍法を学び、和歌の道にも通じた文武兼備の将であったといい、武将としても優れていたという。
築城のノウハウは道灌から学んだというが真偽の方は分からない。

芦野一族は軍事能力に優れ、天文18年(1549)九月の早乙女坂の合戦では、資興の子資豊が参戦、敵将宇都宮俊綱を討ち取り、宇都宮勢を壊滅させる。
資豊の子資泰は、天文21年、結城義親の白川城を攻撃して結城勢を破り、永禄4年(1561)、結城義親との合戦でも那須勢軍を指揮して義親勢を破っている。
佐竹氏と那須氏の対立が激しくなり、天正6年の幕焼澤の戦い、10年の武茂城攻撃、11年の佐竹、宇都宮連合軍との烏山川原表の合戦、12年の喜連川城主の塩谷孝信との合戦で活躍する。
そして運命の天正18年(1590)の小田原の役が起こる。
この時、芦野盛泰は小田原に参陣し、領土保全に成功する。

関が原の戦いでは東軍に付き、この地で大関氏や大田原氏とともに北の上杉氏をけん制。その功で江戸時代も生き残る。
芦野氏の所領は1100石に過ぎなかったが、1600石を加増され2700石を領した。
戦国時代はもっと多く3000石程度はあったらしいが、その軍事力はせいぜい100人程度の兵力に過ぎない。
この軍事力でこの城は大きすぎる。緊急時には領民を避難させる場所でもあったのであろう。
江戸時代には、実際は5000石は超えていたらしい。その子資泰の頃より代々交代寄合となり、この地で幕末を迎えた幸運な一族である。

芦野氏館(那須町芦野)
芦野城の西下の平地、国道294号線の西側の水田地帯の中にポツンと城址碑と解説板がたっている。
芦野氏が始めて居館を構えたのがこの場所という。
「吾妻鏡」には建長8年(1256)6月2日の条に「奥の大道に夜盗強盗が蜂起しているので取り締まるように」との指示が「芦野地頭」にも出されたといい。
この芦野地頭が芦野氏のことと推定され、このことから、芦野氏は鎌倉時代に地頭としてこの地に来て、地頭館としてこの芦野館を築いたと推定される。
芦野氏の出身は明確ではないが、この地の名門である那須氏から養子を向かえることにより、那須一族に連なり、那須7騎の1人として活動した。
那須領の北端に当たり、白河結城氏への抑えが役目だったのであろう。
戦国時代が始まると、この平地城館では心もとなく、応永年間(1394−1428)ころ、南側にある館山城に移ったという。
鎌倉から室町初期の方形館の様式を伝える。
周囲の水田より少し高い畑がある場所が主郭であり、一部、土塁の残痕と思われる地膨れが見られる。
畑の周囲が一段低く水田となっているが、これが堀跡という。
館は南北100m、東西120mほどの規模があったという。


館跡に建つ城址碑と解説板畑が主郭部らしい。

わずかに土塁の残痕が見られる。
右の水田が堀跡という。
昭和50年の航空写真に写る館跡。
堀跡が明確に確認できる。

館山城(那須町芦野字館山)

芦野城から南西側にやたら目立つ岩山がある。近くに行くと「館山城」という看板がある。
これは行けるかと道を行く。道は岩山の東側を登り、そこで終わり。
どうも石切場跡を展望台にするらしいが、落石危険、立ち入り禁止となっている。
これじゃあ、展望台にできないじゃないか?
ともかく、どうにもこの先には行けない。
この岩山の上が城址らしいが、たいして遺構らしいものはないらしい。
というより石切のため、先端部は破壊されていると言った方がよいようである。
おそらく当時は岩むき出しの姿ではなかったのではないだろうか。
芦野氏が初期に城をかまえたのがこの城であり、天文年間には芦野城を築いて本拠をそちらに移したことにより、廃城になったという。
東下から見た城址。凄い岩山である。 岩山直下から見た城址