下横倉城(宇都宮市下横倉町)
宇都宮市北部、東北自動車道宇都宮ICの東に宇都宮動物園がある。
この動物園の東、田川対岸(東岸)の標高208m、比高50mの山が城址である。
下の写真は北側から見た城址である。
城へは南の山麓にある保古神社@の裏を上ればすぐに到着する。
なお、東側から城址に入る林道があるが、これは軽トラが通れる程度の道であり行かない方がよいだろう。
山の上は南北に細長いやや南に傾斜した平場になっており、標高が若干高い北側に南北に50m四方くらいの大きさの不整形の四角形、三角形の2つの曲輪が並び、北側の曲輪の北側以外を堀が巡る。
比較的単純形状であり、単郭の館を2つ並べただけという感じである。
曲輪間は堀で仕切られるが、堀の一部は林道が通り破壊されている。 それ以外はほぼ完存状態である。 でも、ここも余り管理された状態ではなく、荒廃、藪化しつつある。 北側の郭が本郭であろうが、二郭との間の堀の西側に土橋Fがある。 本郭の北では堀が竪堀となる。 2つの曲輪の西下に腰曲輪が確認され、南側にも物見台と思える平坦地Hが存在する。 宇都宮氏家臣の横倉氏の城であったという。 徳次郎城とともに宇都宮城の北、田川方面を守る城であろう。 |
@南端にある保古神社 | A二郭東の横堀 | B二郭南の切岸と横堀 |
C本郭、二郭間の堀、西側 | D本郭の入り口部(ここは後世のもの?) | E本郭、二郭間の堀、東側。 道路を付けたので広げられているらしい。 |
F本郭、二郭間の堀、西側にある土橋 | G本郭西側の横堀 | H南側にある平坦地は物見か? |
徳次郎城(宇都宮市徳次郎町)
この名前、町は「とくじろう」であるが、城は「とくじら」と読むのだそうである。
もともとは「とくじら」と言ったようである。
宇都宮市北部、日光自動車道徳次郎ICの東、日光街道(国道119号)と田川の間に挟まれた台地が城址である。
ガソリンスタンド横の細い道を入ると正面が堀である。
河岸段丘に築かれた平城であり、東西200m、南北400m程度はある広い城であり、4,5の曲輪がある。
曲輪間を幅10m以上の長大な堀で区画した城である。
堀はかなり埋没しているが、現在でも4m程度の深さがある。
道が曲がる先にこの杉林の中を入って行く道がある。
それ自体が堀であるが、しばらく行くと、堀が南に分岐している。
その南側の曲輪が二郭。
さらに進むと、再度、堀が南に分岐し、その南東側が本郭である。 本郭はほぼ100m四方ほどの広さがあり、ここだけは土塁を持つ。 北側と東側は二重堀構造である。 曲輪内は杉林であるが、ほとんど手入れされていなく、かなり鬱蒼としている上、倒木が多い。 冬なら何とか入れるが夏場はとても無理。非常に不気味である。 ド藪ではあるが、遺構はそれほど失われていない。しかし、城址を示すものは一切ない。しかも、藪が酷く、満足に歩けない。 |
@二郭西側の堀 | A二郭北側の堀 | B本郭、二郭間の堀 | C本郭内部 |
城内は藪であるが、東側の田川沿いに回ってみると、左の写真のように堀が見えている。 川沿いから城内に入るルートも存在していたようである。 または、川沿いに舟付き場があり、物資の陸揚げ場があったのかもしれない。 城主は、宇都宮氏家臣、新田氏という。 新田義貞が出た上野新田氏の子孫であると言われる一族である。 宇都宮氏の家臣になったいきさつは分からないが、義盛・昌言・義定と続いていたという記録が残る。 なお、武家の姓は、地名から取るという例がほとんどである。 この「徳次郎」という地名は、新田氏当主が代々「徳次郎」を名乗っていたため、この名が城につき、やがて地名となったものという比較的珍しい例である。(奥州相馬氏も同じ例である。) |
天正4年(1576)の「多気山城構築出陣人名」に宇都宮氏の家臣として「新田徳次郎」の名が、また、『皆川正中録』の天正13年8月の条に宇都宮国綱の幕下として「新田徳次郎」の名前が見られる。
この城も慶長2年(1597)宇都宮氏の改易に伴い廃城となったのであろう。(栃木県の中世城郭を参考にした。)
逆面城(宇都宮市(旧河内町)逆面町)
宇都宮氏の家臣逆面氏の城。 宇都宮市北部、日光に向かう県道63号が逆面で県道159号と分岐する。 そこの交差点から西に入り、山田川を渡ると「逆面城跡」の解説板がある。 この解説板の北に見える山が城址である。 宇都宮領の北部を守る城である。 左の写真は東側の山田川沿いから見た城址である。 民家の左手付近に居館跡がある。 |
城は東側を山田川が流れ、比高40mほどの標高200mの山に主郭部を置き、その南の裾に居館を置く、典型的な根小屋式の城である。 この解説板のある場所の字名が「堀の内」であり、読んで字のごとく、居館である二重方形館の土塁、堀の一部が残っている。@ 山城部分に行くには2通りある。 1つは居館跡のさらに北奥にある大きな民家A裏から上がるルート、これが大手道であろうが、これは民家の許可が必要である。 もう1つは少し西の白山神社裏から上がるルート。 前者は二郭Bに上る道であり、後者は尾根を300mほど歩いて遠回りになるが、三郭Iの外れ、搦手口に出る。 なお、城址は民有地であり、特に三郭は「しいたけ栽培」が行われており、見学には注意が必要である。 民家裏から上った場所の二郭は南北50m、東西30mほどの大きさであり、内部は杉林。切岸の勾配が素晴らしく、民家からの高さは8mほどある。 南側と北側に土塁がある。 北側は土壇状であり小さな社がある。 |
その北に巨大な堀切Dがあり、土橋Cが本郭の入り口に通じる。
ここを入ると本郭であるが、そこは巨大内枡形状Eになっている。
直径30mほどの空間であり、北側以外は土塁が取り巻く。
北側の一段高い部分を上ると本郭F中心部である。
5角形のような形をしており、径60mほど、南側から北側を高さ2m程度の土塁が取り巻く。
北側に虎口Fがあり、そこを出ると幅10mほどの堀Gがあり、土橋がかかる。
この堀は本郭の西側から南側をまわる。
C本郭入り口の土橋 | I三郭西端の土塁 |
その北西側が三郭Hであるが、どこまでが三郭か良く分からないが、山の地形に沿ってL形をしており、全長は200mほどある長大な曲輪である。
北側、西側には土塁がある。
なお、三郭は「馬乗りばんば」とも言うそうである。
西端は搦手口があり、そこを出ると白山神社に通じる。
おそらくこの三郭は住民の避難場所と言った感じである。
この他、斜面部等には腰曲輪が数段ある。
総じて本郭周辺がメリハリがある城であり、特に大手虎口の土橋と堀切は見事である。
@麓の居館跡の土塁 | A麓の民家を通らないと城に行けない。 | B二郭内部、北端に土壇がある。 | D本郭、二郭間の堀切 |
E本郭内部の枡形 | F本郭西の三郭側への虎口 | G本郭、三郭間の堀 | H三郭内部、北側を土塁が覆う。 |
「栃木の中世城郭」によると、逆面氏は代々、多功氏と並ぶ宇都宮氏家臣団の「武闘派」の武将であったようであり、小山義政と戦った裳原の戦いの際、宇都宮勢の中に逆面阿波守の名が見えると言う。
戦国末期の天正13年(1585)宇都宮国綱が北条方に付いた皆川氏を攻めようとした時、慎重論を唱える諸将を尻目に、逆面周防守が堂々と主戦論を主張したという。
さらに天正16年(1588)佐竹氏の援軍を得た宇都宮国綱が再度、皆川広照と戦った時は、広照を追い詰める勇将振りを見せた武将という。
その逆面氏、代々の居城である。
城は、慶長2年(1597)の宇都宮改易の時に廃城になったと思われる。(栃木県の中世城郭を参考にした。)
ユウカヘ城、西山城(宇都宮市(旧上河内町)冬室町)
中里城から東北自動車道下をくぐり北西1q、東に山田川を見る県道159号沿いから、少し西に入った標高210m、比高40mの尾根先端近くに西山城があり、その400m北、標高255m、比高85mの山の頂部にユウカヘ城、別名、冬室城がある。
この名前、「要害」が訛ったものであるが、普通は「竜貝」「龍崖」「竜ヶ谷」「竜ヶ井」などと書く場合が多いが、カタカナで表記するのは珍しい。は
ユウカヘ城の東800mには東北自動車道上河内SAが位置する。
両城は至近距離にあり、連携して運用されていたことは想像できる。
まず、ユウカヘ城であるが、冬室下地区の消防団車庫から西に少し入った場所に苔むした解説板がある。 その解説板によると、今から約1200年前の平安時代、平城天皇の時代、藤原諸時が下野の国司として赴任、冬室城を築いて居城したと書いている。 事実関係はともかく、まず、城址に向かう。 解説板の横にお堂があり、その北に墓地がある。 その奥を山に向かって杉林の中を登って行く。 この山は比較的緩やかな山である。しかし、その山の頂上には何もない。 城址はその頂上から少し北にある。 小竹の中に土塁が確認され、その前には堀@がある。 堀はかなり埋没している。堀はそのまま曲輪を1周するが、西側はかなり曖昧な感じである。 東側には虎口Aが残るが、堀は埋もれているのか腰曲輪状となる。 これが本郭なのだろう。50m×60m程度の大きさで卵形をしている。曲輪内は小竹が密集していてさっぱり分からない。 本郭の北側下にも曲輪があるが、雪が降ってきたので行くのは止めた。 平安の城ということになっているが、これはあくまで伝説だろう。 見た限り、戦国時代の城という感じである。それにしては南側に続く山には特段の遺構もない。 普通ならこの方面にも堀、土塁等何らかの防御施設を構築するものであるが。全体に要害性も低く簡素な造りである。 南の麓にある西山城の詰城という説もあるが、西山城と比べても手抜きの造りといった感じである。 住民の避難城、あるいは陣城・宿城のようなものであったのではないだろうか。 |
東の山田川付近から見た城址のある山 | @本郭南の土塁と堀 | A本郭東の虎口 |
その南の麓にある西山城は、なだらかな丘陵上に築かれた単郭の城で不整径な5角形をしている。 ほぼ完存状態である。 しかし、それほど藪ではないが、管理はされていなく、倒木が沢山ある。 冬場以外は見学は不適当であろう。 下の写真は東側から見た城址である。 写真左端の尾根が低地に突き出た先端部分から登れば数分で城址である。 それほど大きくはなく、郭内だけなら径は60mほどか。 周囲は土塁と空堀でグルっと囲まれ、北側から西側にかけての土塁D、Eの高さは2,3mほど、所々、櫓があったような感じで広くなっている。 郭内からの堀@、A、Cの深さは現在でも5mほど、幅は10mほどある。 当時はかなり鋭いものであったことが想像できる。 切岸は数箇所、カクカクした横矢Aが掛かっている。 東側に堀底から上がる虎口Bがある。 単郭の小規模な城であるが非常に技巧的でメリハリがある。 |
城がいつごろから存在していたのかは分からないが、戦国時代後期に整備されたとして間違いないだろう。
しかし、この城、特に記録にもないそうである。
宇都宮氏系の城と推定され、それなりの城主がいたのか、それとも宇都宮氏や佐竹氏の援軍などの大将クラスの宿城なのか?
南側がだらだらした緩斜面であり、特段、防御施設はない。
この方面、曲輪と土塁、堀がもう1重にあってもいいような気もするが。
@南側コーナー部の堀 | A南東部の堀の折れ | B東の虎口 |
C北側の堀 | D郭内北側の土塁 | E郭内西側の土塁 |
右岡城(宇都宮市(旧上河内町)中里町)
県道159号と国道293号が交わる中里交差点の県道159号の1つ北の宿組の信号を左折、山田川を渡り、西に800mほど走ると、西組地区の北側に「右岡城」の解説板がある。
左の写真は南東側中里城の南側低地から見た城址である。
この解説板の案内通りにその後ろの道を登って行くと城址である。 |
その遺構であるが、堀は明確であるが、幅が狭い。 |
@二郭の横堀 | A本郭から見た南側の堀と二郭内部 | B南下に延びる堀 |
( (鳥瞰図は余湖くんのホームページ、「栃木県の中世城郭」を参考に作成した。)
中里城(宇都宮市(旧上河内町)中里町)
右岡城の2つ東の岡に中里城がある。別名「峰城」ともいう。
城のある岡は南北に長く、その山頂部に城がある。
東下を山田川が流れ、川からの比高は30mほどである。
南端部に白山神社があり、その裏を登って行けは城址であるが、この白山神社が分かりにくい。
できれば地元の人に聞くのが一番だろう。
この神社が分かれば、城は攻略したも同然である。
下の写真は南から見た城址である。
白山神社が右端に位置する。
神社の裏を登って行くと切岸があり、これも城の遺構のようである。 さらに登ると土壇があり、社が置かれている。 これは櫓台なのか? その北側が城郭遺構である。単郭の方形の城である。 南側が大手なのであろう。堀、土橋があり、虎口両側に櫓門があったのか、土壇がある。 曲輪内は50m四方程度の広さであり、藪である。 東側は高さ1mほどの土塁が覆う。 北側の土塁は曲輪内からは高さ3mほどあり、北側への防御を考慮している。 その北側には特段の遺構はない。 さらに北の道路が通る切通しの道は堀切の跡だろうか? |
城周囲の堀は1周しているというが、西側は帯曲輪状であり、堀とは思えない。
城の南側、東側は勾配が緩く、段々状であるため、曲輪跡であろう。
南の白山神社、ここから登る。 | @主郭の南にある土壇は櫓台か? | A主郭入り口の土橋、堀と門櫓台 |
B西側の帯曲輪 | C北側の堀 | D北東端部の堀 |
山賊の兄弟蔵宗・蔵安の出城として築かれたというが、これは伝説だろう。 後に宇都宮一族、氏家氏の祖氏家公頼(宇都宮朝綱の三男)の次男で、中里郷を領し中里氏を名乗った中里紀七郎秀方・中里筑後守高信の居城となったという。 この城も宇都宮氏の改易に伴い廃城となったのであろう。 なお、この城のある岡と右岡城の間にある公民館のある岡(左の写真)にも城郭遺構らしいものがある。 ここも陣城の1つであろうか。 (鳥瞰図は余湖くんのホームページ、「栃木県の中世城郭」を参考に作成した。) |