烏山城(那須烏山市)
 烏山市街地の西、標高202mの城山にある壮大な山城。
近世まで使われていた城ではあるが、江戸時代は山麓の館が主な城主の生活、領内統治の業務の場であったと思われ、山上の部分は江戸初期までにしか使われなかったらしい。もっとも江戸時代の烏山藩は2万石程度の石高であり、壮大な山城を整備する余裕は経済的にもなかったであろう。
 そのような訳で山上の遺構は中世城郭の雰囲気を十分に残している。
おそらく江戸時代に改変されたのは、石垣が見られる本丸(中世では二郭)と常盤郭の部分程度ではないかと思われる。

 城の歴史は長い。築城は定かではないが、延暦年間(792-805)坂上田村麻呂がこの地に砦を築いたのが最初というが伝説の域を出ない。
 烏山町誌によれば応永25年(1418)那須氏10代資重が築城し、稲積城より移ったと記している。
 しかし、烏山城記では明応年間(1492−1500)資重の孫、資実が築城したと伝える。
その後、小田原の役で改易されるまで、那須氏の本拠地として、一族、家臣の内部抗争、宿敵佐竹氏、宇都宮氏との攻防、和解そして北条氏との戦いに明け暮れることになる。
 那須氏の領土は10万石程度と少なかったものの烏山城の堅固さと強兵を擁していたことにより滅亡することはなかった。
 しかし、最後は小田原の役への出兵を渋ったという政治的判断ミスが致命傷となって秀吉により取り潰されてしまう。
 一時的に江戸時代初期那須氏は大名として烏山城に復帰を果たすものの再度領地を没収され、旗本として幕末を迎えることになる。
 江戸時代、烏山城主は目まぐるしく変わり、復活した那須氏も一時城主に名を連ねる。
織田信雄が城主であった時もあった。最後は大久保氏の時に明治維新を迎えている。
城の規模は南北1000m、東西最大700mという広大なものである。
山上に4つの主郭が南北に並び、その東に常盤郭、厩郭等の帯曲輪、腰曲輪が取り巻く。

城のある山は西側の傾斜が比較的緩く、残る3方は傾斜が急である。
このため、壮大な横堀が主郭部西側に掘られ、さらにその西側斜面に防護を強化するため多くの郭が築かれる。
江戸時代の本丸は主郭部の南端に位置し、石垣が見られる。
本丸を移したのは中世時代の本郭が火災で焼失したことによる。ここは中世では二郭であった。
南北100m、東西80m程の長方形をしており北側が高い。その北が堀を隔てて中世の本郭である。
大きさは二郭と同程度であるが、周囲に土塁を持ち、東側は横矢がかかる屈折がある。
その北が堀を隔てて一段低くなり三郭があり、四郭(北郭)と並ぶ。
四郭から東と北に下る尾根筋には曲輪が築かれ、西側は箱堀を経て五郭となる。
主郭部西の横堀は深さ20m、幅50mというとてつもなく大きなものであり、箕輪城の大堀切と同程度のものである。
箱堀であったと思われ、堀底は平坦である。主郭部西の尾根筋にも六郭があり、その北側に横堀が築かれる。
大手は中世は三郭東に出る十二曲であったと思われるが、江戸時代は南の七曲になったようである。
七曲の入口に江戸時代の館跡がある。ここを登る太鼓丸曲輪があり、車橋という堀切を経て主郭部に至る。
 太鼓丸の南には毘沙門山という烏山城の主郭部の標高と同程度の山がある。城の防衛上、この山にも出城が築かれていたものと思われる。
また、この山の方が四方が切り立っており要害性が高い。尾根城郭を築くのならこの山の方が良いように思うが、居住性はない。

烏山市街地から見た城址。 麓の江戸時代の烏山藩の陣屋跡。 主郭部入口に当たる車橋跡。堀切であるが橋はあったのか不明。 本丸(中世の二郭)南の石垣。江戸時代のものであろう。
主郭部西の巨大な横堀。幅50m程度 本郭、二郭間の堀 本郭内部。杉が鬱蒼としている。 城址南の毘沙門山。ここも出城であろう。

予想以上のダイナミックな城郭であり、唐沢山城と比べても遜色がない、場合によっては凌ぐのではないかと感じた。
栃木県内ではナンバー1の城であろう。
しかし、良く整備され、訪れる人も多い唐沢山城等に比べ、烏山城址は杉の鬱蒼とした大木に覆われ、暗い印象がある。
また、藪もひどく、整備は余りされていない。したがって訪れる人も少なく、城の全容もつかみ難い。
明らかに損をしている。惜しいことである。

稲積城(那須烏山市下境)

稲積城は烏山から那珂川下流 qの右岸、下境地区の比高20mの丘陵地にある。
 この丘陵は北側が頭となる「おたまじゃくし」のような形をしており南北1qほどある。右の写真は大将古家に向かう途中の尾根から見た稲積城である。
 しかも結構幅も広く、最大で400mほどもある。西下には那珂川が流れ、東は水田地帯となっている低地である。
 この城の歴史はかなり複雑である。
 築城は天仁2年(1108)9月、須藤下野守資道によると言われている。
那須氏の拠点となったのは、永万元年(1165)那須宗資が神田城より移った時である。
 宗資は平治の乱の時に源義朝に味方し敗れ、兄資房と甲斐、稲積庄に逃げ、許され帰国して神田城より根拠地をここに移し、亡命時代に信仰していた甲斐の稲積明神を城内に建てたという。
 この稲積神社は代々那須家の崇敬を受け、那須氏が没落した後も烏山藩歴代藩主の保護を受けた。
左の写真は稲積神社北端にある大岩である。御神体でもあり、物見台でもあったのだろう。
宗資の跡を継いだ資隆は、現黒羽町の高館城に移るが、応永24年(1417)に、沢村城の沢村五郎資重と福原城の兄資之との戦いに敗れ、沢村城を捨てて稲積に戻り、再度、拠点となった。
以後、福原城の兄資之を上那須、稲積城の資重が下那須と呼び、抗争が繰り返される。
 しかし、資重はより堅固な烏山城に拠点を移した。
  しかし、この時に廃城となった訳ではなく、以後、烏山城の南を守る支城として存続していたようである。
 稲積城の歴史は複雑であるが、平山城であり領内統治の政庁としての立地条件は良いが、その反面、攻撃を受けた場合の防御に問題があったことに要因があったと思われる。
 特に周囲の山から城内は丸見えである。
 佐竹氏の攻撃を受けた時は、東の五峰山に陣取られ、城内に向けて矢を放ったと言う。
(どう考えても届く訳ないが。丸見えの方が問題であったのであろう。)
 遺構は、稲積神社の周囲にある土塁が紹介されるが、「御城・中城・外城・下城」などの地名が残っているように、神社南側の集落内にも立派な土塁が残り、最南端の「おたまじゃくし」の尾に当たる部分にも土塁が残っている。
 南端部が御城といい、北に中城があり、二、三重の土塁が存在し、最も防御が厳重である。このことから、ここが本郭に当る部分であったと考えられ、城主の館や政庁はここにあったのであろう。この丘陵全体が城域であったが、岡の3つの隅に土塁、堀で囲んだ曲輪がある非常に変った構造である。
 神社南側の広い平坦地は外城というが、居住性が良く、また、ある程度の要害性もあるため、家臣の屋敷があった場所であり、非常時の住民避難場所であったと思われる。
中城北側の土塁を外城から見る。 左の土塁を横から見る。 御城の土塁。 御城東側の切岸。