神田城(那珂川町(旧小川町)小川)
 
神田城は小川町市街地の南部の水田地帯の中、国道239号を馬頭方面から西に進み、那珂川に架かる若鮎大橋を過ぎて左手に見える河岸段丘上にある。
 東西63m、南北108mの大きさを持つ完全な長方形の館であり、鎌倉時代の領主の館の形態をそのまま残している。

 その中でも最大規模を持つものではないかと思われる貴重な遺構である。
土塁の高さは4m程度あり、西側の一部は欠損しているものの他は完存である。
 堀は西側は埋められているが、残る3方向はそのまま残っている。

 土塁上から堀底までは8〜10mはあり、近世城郭並みの立派さである。
全て水堀であり、東側は沼地のようになっている。
 郭内はなんと水田になっている。
館の入り口は東側が大手という説もあり、その部分の土塁が切れているが、どうもここは郭内の雨水の排水路のように思える。
南側にも土塁の切れ目があり、堀に木橋が架かっていたようである。
ここが大手ではないかと思われる。
郭内部。かなり広い。
現在はなんと水田
郭内南東端の土塁。
高さ4mはある立派なもの。
北側の堀を土塁上より見る。
高さ8mはある。幅は20mくらいある。
東側は下まで10m程度。下は沼地である。

 『那須家系』によると、讃岐神田を元の領地にしていた那須氏の先祖、須藤権守貞信が、寛治2年(1088)、八溝山中の岩嶽丸を退治した功績によりこの地を賜り、天治2年(1125)築城して讃岐国神田から移り住んだのが始まりとされる。
 この時、故郷の地にちなみ築いた館にその名前を付けたのが始まりと言われている。

 かの那須与一が那須資隆の11男としてこの城で誕生したという説もある。
 以後、那須氏の拠点は稲積城、高館城、烏山城と転々とするが、戦国期でも十分に通用するような立派な遺構が現在も残っているため、神田城もそのまま廃城となったとは思えず、烏山城の北の守りの拠点として継続して使われていたものと思われる。
 何しろ川向こうは那須氏の大敵佐竹氏に属する武茂氏の拠点である。