坂井御城(茂木町坂井)再訪
坂井は「さかのい」と読むのだそうである。
茂木町中心部から北西に約2q、茂木城の北西方向を守る城でもある。
この坂井御城がある岡の南下(坂の下)に湧く井戸が地名の語源なのだそうである。

ここに行ったのは2013年3月31日だった。
城の下、下古屋に建つお宅に断りを入れて登った。
その時、おばあちゃんが対応してくれた。
それから9年、2022年12月9日、茂木町教育委員会と茨城大学の調査に招かれ久々に訪れた。
あの、おばあちゃんは3年ほど前に亡くなっていた。合掌!

9年振りの城址、9年前と全く変わっていなかった。
主郭部@、Aは下草がなく綺麗に管理されていた。
違っていたのは切った竹が山積みだった斜面部が竹が腐って見やすくなっていたことと、竹やぶ状態で見れなかった星宮神社に続く東側が竹が切られていて良く見れたことである。
今回は前回見れなかった城址西下の平坦部も見た。
その結果を基に描いたのがこのイラストである。

城は東側の土塁を持つ帯曲輪がある城郭部、上古屋と西下の「下古屋」という字の平坦地からなる。
この台地には西から上がり、南に下る道があり、これが古道であったといい、街道を取り込んだ関所城だったようである。

@城郭部主郭、9年前と同様きれいである。 A 主郭西側下の土塁を持つ帯曲輪(横堀?)
B下古屋西端 C 下古屋南から見た城郭部

しかし、この西下の丘B、C、広い。
馬場があったとは言うが、他には何があったのであろう。

城郭部分、北西側が厳重な造りであり、東側は防御が薄い。
北西側は那須氏の領土である。
堀切があるのかと思ったが、段差しかない。
星宮神社の跡地は城郭部より高く、城域でも不思議ではないが特段何もない。
この方面は本城である茂木城の方向であり、茂木城からの軍勢が後詰に来るという前提であろう。

(2013年の記事)
坂井御城(茂木町坂井)
茂木町中心部から国道294号線を烏山方面に北東に1km走ると、坂井(さかのい)地区となる。
ここで国道294号線は国道123号線と合流する。
合流する場所に「芳賀北部森林組合」があるが、ここから坂井川を挟んだ対岸の竹に覆われた山が城址である。
山の標高は130m、比高は35m程度である。山というより高い丘程度のものである。

この丘陵の西端は平地になっており、その東が北に突き出た山となっており、ここが城址である。
南西側に丘が延び、星宮神社が昭文社の地図に載っているが、この神社はすでに崩壊して他の神社と統合されてしまってない。
さて、この城、攻め口がない。

星宮神社跡地側からアプローチしたが、孟宗竹が刈られて束となっており、とても入れそうにない。
これは逆茂木そのものである。
おまけに野ばらが密集している。これではどうにもならない。
そこで西側に迂回する。

西側には帯曲輪@が明瞭に確認できる。
奥に一軒の農家があり、その脇から入れそうである。
その農家「枝川さん」、そこのおばあちゃんに許可をもらい突入。
ちなみにこの枝川さんのお宅の場所Dが「下古屋」というのである。
居館の場所であろう。なお、この付近には「枝川さん」が多い。
おそらく城主の末裔ではないだろうか。

南、国道294号沿いから見た城址、竹林の部分。 @西側の帯曲輪、竹林の部分が主郭部 A主郭(左)西側の横堀?または土塁付帯曲輪
B主郭部、北側は平坦だが、南側は緩斜面。 C主郭(左)東側の腰曲輪、土塁はない。 D西下の下古屋は居館の地。現在は枝川家宅。

枝川さんの家から東に登れば城址であるが、段々となっている。曲輪であろう。
そして土塁間のあいだを抜けると横堀Aに出る。
いや、これは横堀ではなく、土塁を持つ帯曲輪といった方が妥当かもしれない。
幅8mほど、主郭側からの深さは4mほど。
これが西側、北側は堀状であるが、東側Cは帯曲輪状となって主郭をほぼ1周する。

主郭Bは北側は平坦であるが、南側はだらだらと傾斜している。
北側の平坦部は30m×20m程度の広さであるが、さらに南側に45mほど続く。
南側は帯曲輪や横堀と合流するが、その南側が竹でどうにも確認できない。

末端部は星宮神社との間の鞍部であろうが、そこには堀が存在していたようである。
城の来歴は分からないが、城は北、西方向に対している。
茂木方の城とすれば、茂木城の北東方面の出城であり、想定する敵は千本氏、那須氏であろうか。

航空写真は昭和49年国土地理院撮影のものを使用。
参考:余湖くんのホームページ、芳賀の文化財 第19集 城館・陣屋跡 編

山内要害(栃木県茂木町山内)

新規に確認した城館である。栃木県東部茂木町のさらに東端部、旧山内小学校の北約1qの標高200mの山にある。
約500m東は茨城県である。
県道171号線が西下の八反田川が流れる谷間を通る。
←西側県道171号線脇から見た城址のある山。道なんか途中でなくなる。あとは突撃あるのみ。
城に行く道なんかはないが、人が通ったような場所がありそこを入り、あとは尾根筋をひたすら登るだけ。
折から晩秋に行ったため、急傾斜であり、落ち葉が積り、滑ること!
冬山を登るのに似るが、滑った場合、冬山の方が雪が緩衝材になりけがの可能性は低いかもしれない。

北東から南西に延びる尾根状の山が城郭であり、全長は約400mと長い。
山は広葉樹の林であり、秋冬は葉が落ちて視界は良い。
ここは、一見、城郭とは思えないような自然状態の山である。

段々となった曲輪、堀切、土塁の存在で城郭と判断できるが、堀切、土塁は風化、埋没が進んでいる。
約300m離れた標高200mのピーク(36.6005、140.2447)がT、標高180mのピーク(36.5990、140.2429)がV、その間の標高175mの比較的平坦な鞍部がUの3つの部分に別れる。
尾根上の平坦地とその周囲の斜面部を平坦化して曲輪を設け、TとVの北東側に堀切@、C、Dを置いただけの簡素な城である。

@ Tの東端の堀切。 A Tの北側に土塁があるが、風避け土塁では? B Tの腰曲輪、上部側は切岸は明確だが、南側は曖昧。
CUの鞍部からVに向かうと堀切が2本ある。その1本目。 D U主郭直下の2本目の堀切。 E U主郭部、広葉樹の林のため秋は見通しが良好。

Tは北側に土塁?を持つがこれは風避け土塁と思われる。
南側が広い尾根であり曲輪が段々に重なるが、切岸が明確なのは山頂近くのみ。B
南側に延びていく尾根の末端は曖昧となる。

2つのピークT、V間の鞍部Uはほぼ自然地形である。
Tとの間は比高20mほどの急斜面であり、途中の尾根には中央部に低い竪土塁が見られる。
Uから鞍部に下がり、2つの堀切C、Dを過ぎるとVであるが、ここも主郭Eの南側、西側が緩斜面であり、曲輪はあるが曖昧な感じである。
末端部は幅10〜15mの尾根が西に緩やかに下る。
西下の斜面部には井戸跡と思われるくぼみがある。

歴史については不明である。
自然地形に少し手を入れただけのものであり、軍勢をある程度の期間、安全に駐留させるための一時的な城、陣城あるいは住民の避難場所のようにも思える。
北東側に堀切を置いているが、城からの視界は西側に開けている。
一方、東方向は山に遮られてよく見えない。
東の者が西を監視する目的も感じられる。
西側尾根斜面はかなり急勾配であり、それだけで特段の防御は不要かもしれない。
堀切は背後、尾根伝いからの襲撃を警戒した感じである。

陣城とすれば、戦国時代はこの付近は佐竹、茂木、那須3氏の勢力境であり、茂木氏は佐竹氏の家臣化している。
佐竹氏が那須氏を牽制するため、軍勢の駐屯地として整備したものではないだろうか。

九石館、九石城、九石北城(茂木町九石)
「九石」この字、まず読めないでしょう。
「さざらし」と読むのである。まさに珍名である。
そこにある九石城、茂木城の北2.5q烏山方面に抜ける市道沿い九石地区にある。
城跡に樹齢800年を越える「九石のけやき」↓がある。

県の天然記念物に指定されており、幹の内側は枯れているが、樹勢は衰えていない。
見事な古木である。

城が存在していたのが、450年前のことなので、当時からすでに今に近い大木だったことになる。
この付近が城跡であり、けやきのある場所の北側民家がその場所であり、今も子孫がすんでいる。
遺構はかなり曖昧であるが、民家の宅地の中には遺構が残っているという。

築城は、建久4年(1193)那須与一宗隆の兄十郎為隆の築城というが、約4年後、千本城を築城し、千本氏を名のり、ここは千本城の支城であったという。
江戸時代、九石地区は一時細川氏の茂木領になったが、江戸中期元禄11年(1698)に旗本の梶川与惣兵衛頼照の領地となり、地名の「大木の下」も、この「けやき」を愛した梶川氏が命名したという。
この梶川与惣兵衛頼照は、元禄14年(1701)「松の廊下」で吉良上野介義央に斬りかかった浅野内匠頭長矩を取り押さえた人物である。
なお、九石は幕末まで梶川領であり、名主の九石家屋敷を陣屋としていた。
城址の西側が縄文時代の九石古宿遺跡であり、ミミズク土偶、山型土偶が出土している。

・・・と書いたのが以前の記事であったが、城址と言われる場所、そこは岡が北側に張り出した部分であり、岡中心部側より地勢が低い。
居館を置くなら問題はないが、城砦という感じではない。ここは九石館と言うべきである。



この付近にはもっと城を築くに相応しい場所もいくつかある。

また、「芳賀の文化財 第19集 城館・陣屋跡 編」に乗っている縄張図、城のある地とはかなり違う、いや、全く一致しないのである。
その中で余湖さんが本当の九石城を見つけたという記事を書いた。
それでその場所に行ってみる。

古宿集落の西の畑の脇に「古宿遺跡」の解説板があり、そこから西側に見える岡@であり、農道が延びる。
そこは以前、怪しいと思った場所そのものであった。
下の写真@の岡である。

遠目にも岡が段々になっており、道が登城路のような感じで曲がりながら岡の上まで延びている。
それに「芳賀の文化財 第19集 城館・陣屋跡 編」の「古宿の西の岡」という記述とも一致する。

そこに行ってみるとまさにそこが本物の九石城であり、千本城のスケールモデルのような中世城郭であった。
「芳賀の文化財 第19集 城館・陣屋跡 編」の縄張図ともほぼ一致する。
「古宿遺跡」の解説板がある場所からは比高25m程度であろう。標高は199mである。

農道を行くと、帯曲輪があり、堀底道のような場所Aを通り、二郭に入る。この道が本来の登城路であったものと思われる。
その場所には土塁Fがある。
西側が本郭であり、東西80m、南北50m程度の広さ、内部は平坦である。
かつては畑であったらしいが、現在は木が植えられている。
北側に高さ1.5mほどの土塁Bがあるが、本来、全周を覆っていたようである。
西側には一部痕跡が残る。

A北側の土橋から見た堀底状通路 B本郭の北側は土塁が覆う。 C本郭西下の横堀?土塁付帯曲輪?
D南側に展開する曲輪から見た本郭と帯曲輪 E 二郭は北側に向けて緩斜面、未整備状態。 F二郭と本郭を結ぶ土橋入口の二郭側の土塁

西側、南側は高さ5mほどの切岸になり帯曲輪があるが、西側は横堀状Cになっている。
北側も帯曲輪になっているが、西側に傾斜しており、未整備状態である。
南側の帯曲輪Dには一か所、堀のような窪みがあり、その東側は2段の曲輪が南側に突き出る。
さらに東に行くと一周して登城路に出る。

一方、二郭Eは北側に緩く傾斜しており、未整備状態のような感じである。
東側の切岸は高さ7mほどの2段の帯曲輪がある。
二郭の北側には小さな堀切があり、さらに北側にも曲輪があるが、そこは自然状態に近い。
北側の造りが多少手抜き気味ではあるが、本郭の周囲はメリハリが効いてすばらしい。
もしかしたら北側を整備中に廃城になったのではないかと思う。
ここが本城ならけやきのある場所は居館というべきであろう。

ところが、九石城、これだけはすまない。

「古宿遺跡」の解説板がある場所から北を見ると、北側の岡に土塁Cが見える。
そこに行ってみると、間違いなく土塁であり、その北側に幅8m、深さ5mほどの横堀があり、土橋Bがある。
横堀の長さは60mほどか。
土塁の南側は東西80m、南北70mほどの平坦地である。
ここの標高は170mである。その周囲は帯曲輪になっている。
北側の堀は帯曲輪となって東側と西側を覆う。東側はさらに3段ほど曲輪が重なる。

上の写真@は南側、古宿地区から見た城址である。土塁が見える。左の林が櫓台跡のような場所である。

西端には20m四方ほどの場があり、ここに井楼櫓が存在していたのではないだろうか。
南側は谷津を掘りこんだ切岸Aになっており、高さ8〜10mほどの急勾配になっている。
下には帯曲輪がある。

A南側の鋭い切岸、高さ8mほどある。y B北側の堀に斜めに架かる土橋 C北側を覆う土塁。
D城址南側、虎口跡か?
撮影場所付近に堀があったかもしれない。
古宿地区に建つ古宿遺跡の解説板。
撮影位置側が九石城。先の林部が九石館。
古宿遺跡で拾った砥石とスクレイパー

南西側Dだけが古宿につながるが、そこには堀切が存在していたと思われる。
ここは九石城の北を守る出城だったのではないかと思われる。
ただし、城内が古宿側より地勢が低く、古宿側からは丸見えである。

なお、「古宿遺跡」から九石城に向かう農道脇の畑、ふと見たら石器が・・赤チャートのスクレイパーと砥石が転がっていた。
まさにここは縄文の遺跡でもあるのだ。
航空写真は昭和49年国土地理院撮影のものを使用。
参考:余湖くんのホームページ芳賀の文化財 第19集 城館・陣屋跡 編

金剛寺薬師堂跡(茂木町町田本郷)
余湖さんが城郭の可能性があると紹介していた場所である。茂木町北部の町田地区にある。
ここは茂木町の須藤地区と東の那珂川東岸の牧野地区を結ぶ県道338号線沿い、須藤三叉路からは1.2q東にある。
県道沿いに「薬師堂」の標識があり、谷津を挟んだ南側の山がその場所である。
南から北に張り出した岡の先端がその場所であるが、3方が急勾配であり、比高30mほどのある岡であり、とても登れない。
山頂部が削平されており、30m四方の平坦地に薬師堂があり、その北側が土壇のようになっている。
南側は土橋状になっている。
これは人工の地形である。小さいものであるが、街道筋を監視する物見台としての要素は備わっている。
しかし、明確な城郭という伝承はないようである。

現地の解説板を要約すると
「奈良時代、中央で失脚した道鏡が下野芳賀郡に流され、この町田の地の照旭山金剛寺に6年留まり「遠近の立木もしらぬ山中に覚束なくも呼ぶ小鳥かな」と詠み、女帝(孝謙天皇)を来るのを待った。
そのため、旧地名の渕田は待田と言われるようになり、のち当地の領主須藤十郎為隆(九石城主)が町田と改めたという。
金剛寺はここの岡のうえにあり、その後、名残の薬師堂は近隣の信仰を集めてきたが、昭和27年焼失、今は代わりの小堂が建っている。」と書かれている。

北側県道338号線沿いから見た薬師堂跡の岡 岡の上部平坦地。小堂があるだけ。 岡から見た県道338号、絶好の物見である。

この地に多い、道鏡伝説の場所の1つであるが、この削平地の広さはお堂は建てられるが、寺院を置くことは無理だろう。
おそらく金剛寺は別の場所にあり、薬師堂のみがここに建てられていたのであろう。
それがいつ建てられたか不明であるが、城址を利用して建てられた可能性が大きい。
解説にも須藤十郎為隆が登場する。
その城、九石城はここから南500mにあるので、九石城の北を監視する物見台であった可能性もある。

航空写真は昭和49年国土地理院撮影のものを使用。
参考:余湖くんのホームページ

小家台城(茂木町河井)
小家台と書いて「こやんだい」と読む。茂木町北東部、那珂川南岸の河井地区の山中に八幡神社がある。
標高は254.3mある。この神社は多くの地図に乗っているが、そこの地が城址なのである。
と、言っても、本当に城と言えるか断言できないようなものである。
こんな山の中であるが、ちゃんと車で行けるのである。

河井地区にある中川中学校から南に林道が延びる。
この林道は国道123号の馬門の滝付近に通じる。
その林道の途中にトンネルがあり、その北側に西側の山中に入って行く道がある。
その道の終点が神社なのであるが、その道、車が通れるか不安であるが、問題なく通行できる。
終点が城址である河井八幡神社@なのであるが、直径30mほどの社殿がある平坦地Aがあり、北と東に派生する尾根に曲輪らしい段々があるが、はたしてそれが城郭遺構であるか、確信は持てない。
南側の斜面にも曲輪Bのような段々が認められる。

現地解説板には、
『創社は、天平宝字(757年)2月15日といわれる。
康平年中源義家(八幡太郎義家)奥州征伐の時、八幡山に在陣し、戦勝祈願の信仰により、社殿を再建したと伝えられる。
寛永、天和、宝暦年中に社殿を修改築したが安政五年(1858)山火事で全焼し、万延元年(1860)再建された。
 本殿は、小規模であるが、四面上下いたるところに彫刻を用い、向拝柱にある小竜の巻きつけ、柱の地紋彫り等余すところなく彫刻で埋めつくされている貴重な建造物である。(茂木町指定文化財)』
@神社入口、この場所も曲輪跡か?
ここまで車で来れるのである。
A河井八幡宮社殿、この地が本郭?
北側に低い土塁がある。
B 南側斜面に小さい帯曲輪のようなものがある。
これが遺構かどうか分からない。

結局、この伝承が城の由来のようである。
北関東に多くある義家伝説の1つであるが、1000年以上の年月が経ってしまい伝説の城としか言えないであろう。

なお、この神社に纏わる「河井のささら」という伝説もある。
その内容は、永保3年(1083)後三年の役に際し、奥州征伐に向った源義家がこの地 に残した長寿姫は病を得て逝去し、村人らは哀れんで、中秋の名月になる とささらを舞い、これが河井のささらの始まりとされる。
また、ここは「河井八幡宮の社叢」として栃木県指定記念物[天然記念物]に指定されており、椎樫(推定樹齢500〜800年)、赤松(推定樹齢150〜200年) がある。
椎樫は北限とされ、椎やコナラなどが混在し、下層樹木にはヤマツツジ、コナラ、スズタケなど、古木が多く生育している。
参考:余湖くんのホームページ芳賀の文化財 第19集 城館・陣屋跡 編