山居台城(益子町山本)
益子町南部の田野から茨城県桜川市の旧岩瀬を結ぶ県道257号線沿いの西側の山にある。
町立山本小学校の南900mの標高165mの山である。比高は60m程度である。
この山へは東側の裾野に大きな牛小屋があり、その脇の西に入る道を行く。
なお、車は牛小屋付近までしか入れず、そこから先は徒歩がよいだろう。

しかし、この山道、ほとんど人が歩かないのだろうか、荒れており、そのうち藪に閉ざされるだろう。

この山道、途中で左右に分かれるが、右側、北に行く道を行く。
すると堀切のような場所に出る。いや、ここはおそらく本物の堀切@であろう。
そこから比高で20mほど緩斜面を登ったところが城址である。

↑は南側の登口の牛小屋前から見た城址である。
←@ 城址南側の南の山と隔てるこの切通しは堀切であろう。

城と言っても、小さなものであり、南北80m、東西50m程度であろうか。南側は横堀Aのようになっている。
この横堀、東側は犬走りのようになり北側の堀切と合流し、さらに西側を巡る。

主郭Bは東側にピークがある3段構造になっていおり、南北55m、東西40mの卵型をしている。
南側の横堀から4mほど高く1段目があり、さらに2mほど高く2段目があり、さらに1m高く3段目がある。
3段目は直径が15mほど。主郭は北側に傾斜しており、北側は段差が曖昧となり、北端に深さ4mほどの堀切Cがある。
その先はほとんど自然地形である。

主郭の西側は尾根状に下り、25mほど下に曲輪のような平場がある。
一応の基本的な遺構はそろっているものの、造りと規模は陣城や物見程度のものである。
@城址南側の横堀、かなり埋もれている。 A主郭内部は3段になっているが、藪が酷い。 B北側の堀切

城の来歴は不明である。山本古屋城が北1.2kmほどであり、その詰めの城とも考えられる。
とすれば益子氏家臣、高塩氏の城である。
しかし、この城のある山、北方面の眺望は良いが南は見えない。
南の勢力が益子氏を牽制するためのものの可能性がある。
しかし、益子氏と対立する笠間氏の勢力は岩瀬付近どまりでここまで北上していたのか?
そう考えると単なる住民の避難城であったのかもしれない。

航空写真は昭和49年国土地理院撮影のものを使用。
参考:余湖くんのホームページ

山本古屋城(益子町山本)
山本小学校の北にある光明寺の東側一帯の本郷堀の内地区全体が城址である。
光明寺は樹齢170年の見事なしだれ桜が有名であるが、その桜の東側の切岸の上にBの土塁が存在し、そこが城の一部であることが分かる。

@南側の城址碑、切岸の上が城址 A本郭に当たる鯉渕家の土塁。畑が堀跡。 B光明寺裏の民家に残る土塁

C北西端部の切岸、竹林の中に堀が存在する。

下の写真Dは光明寺としだれ桜この寺の裏の岡が城址である。

城は光明寺の東側一帯、東から西に張り出した丘の末端部にあり、東西250m、南北200mほど。
堀の内と呼ばれる鯉渕家の屋敷Aが本郭に相当し、45m×40mほどの広さがあるという。

南側@の位置に城址碑があり、北側が高さ4mほどの切岸になっている。
周囲に一部、土塁が残り、堀跡が水田や畑として残る。
屋敷のような曲輪が並び複数の郭があったようである。
集落全体が段々状になっており、これらは切岸の名残である。

輪郭式に近い多郭構造であったらしい。どちらかというと武家居館団地のような感じである。
城は高塩伊勢守政平が大永年間(1521−28)に築城し、天正11年、水谷勝隆に落とされ、廃城となったと言う。