武茂城(那珂川町(旧馬頭町))
馬頭町市街地を見下ろす北の山に武茂城がある。
この地の中世戦国時代の土豪、武茂氏の本拠である。
築城は正応年中(1188)に宇都宮景綱の三男泰宗によると言われ、城完成後、名を武茂常陸介と改め武茂庄十余郷を領した。
これが武茂氏の興りである。
ちなみに武茂氏は徳川の家臣、大久保氏の先祖でもある。 泰宗の長子時景は美濃守に任じられ、五人の子のうち長子泰藤が三河国上和田郷に住み、その子孫が姓を大久保と改めたのが大久保氏である。 烏山藩最後の藩主がこの大久保氏であり、先祖の地の直ぐ近くに封じられた訳である。 話しは戻るが、時景の四男氏泰が武茂の家督を継いだ。 氏泰は初め狩野郷を領して狩野将監と号した。 長子綱家がその跡を継ぎ、綱家の長子持綱は本家宇都宮満綱の養子となって応永十四年(1407)、宇都宮氏の家督を相続し、武茂氏は一時断絶となった。 その後、永正三年(1506)持綱の孫にあたる芳賀成高の子正綱が、武茂太郎と称して武茂氏を再興した。 しかし、正綱は寛正四年(1463)宇都宮明綱の死後、宇都宮氏を継いだため、正綱の三男兼綱が武茂氏を相続した。 武茂氏はこのように完全な宇都宮氏の系統の一族であるが、兼綱の時代には、内乱を克服した常陸の佐竹氏の勢力が武茂地方にも及ぶようになり、武茂氏も従属するようになる。 その後、佐竹氏の先陣として、対立する那須氏との戦いに明け暮れる。 天正11年(1583)武茂守綱は一族の大山田綱胤、鳥子泰宗らとともに那須資晴と久那瀬の愛宕山で戦い、星豊前守らの奮戦で、資晴の軍を打ち破った。 守綱の跡は豊綱が継ぎ、那須氏との間の戦いが激しさを増している。 特に天正10年(1582)には、那須資晴に攻め込まれ苦戦に陥った。 この攻撃は奇襲であったため、援軍が遅れ、合図用の鐘が武茂城に運ばれた。 小田原の役が終わり、佐竹氏が常陸を完全に統一すると、武茂豊綱は那須氏内応の疑いが架けられ、文禄四年(1595)常陸の久慈郡大賀村に知行替えとなった。 その後の武茂城は佐竹氏の家臣太田五郎左衛門が守った。 そして、関ヶ原の役後、佐竹氏は秋田移封され、武茂豊綱、太田氏もこれに随行し、武茂城は廃城となった。 |
武茂城の遺構は、ほぼ完全な形で残っている。 ここには完全な戦国城郭の姿が見られる。 築城当時はより簡素なものであったと思われるが、戦国期に拡張され、今日残る姿になったものと思われる。 城は乾徳寺の西側と東側の山に分れ、一城別郭式である。 城域は東西700m、南北300m程度と広い。 このうち西側の山にある城が本城である。 静神社社殿のある場所より北側一帯が主郭部であるが、鳥居のある山麓の参道@からここまでは比高50mはあり、きつい石段を登る。 当然、この石段は後付けであり、当時は社務所のある曲輪を通るジグザグの道であったと思われる。 静神社の社殿Aがある地が曲輪Xであり、東に曲輪WBがあり、その北の一段高い場所が曲輪Vである。 その周囲には帯郭、腰郭Eが見られる。 東側の曲輪には井戸の跡が残る。 ここから東の谷間の居館があったという乾徳寺に下る道がある。 この道が大手道なのだろうか。 曲輪Vの北側に深い薬研堀(現在は埋もれて箱堀のようになっている。)Cがあり、土橋を経て北側の曲輪Uに入る。 本郭、曲輪Tは曲輪U北の一段高い部分であるが、別の郭という感じはしない。 本郭の北東側に天守櫓跡があるが、天守がこの時代にある訳はなく、高い物見台があったものと思われる。 主郭の周囲下には幅7mほどの横堀Hと土塁が取り巻き、腰曲輪Eに堀底が合流する。 本郭北側は横堀の延長の堀切Fがあり、その北側の尾根と遮断されている。 その北側の尾根には明確な郭はないが、北側に堀切Gがあり、西側には横堀がある。 その北の尾根には防備設備はない。 この城は北に続く尾根伝いに攻め込まれる可能性は余り考慮しているようには思えない。 どちらかと言うと尾根を退避路と考えているように思える。この北の部分は住民の避難場所ではなかったかと思う。 本郭の北側以外の方面は郭や堀を厳重に巡らして強固な作りであるが、これに対して北側尾根筋の防御は大したものではなく、何となく意外であった。 |
武茂城の東の谷間には、武茂氏の菩提寺乾徳寺があり、本堂裏の墓地には、武茂氏歴代の墓がある。 左が乾徳寺である。 左側が武茂城、右手に東城があり、その谷間である。 ここが居館の地であったという。 この寺の山門が武茂城の城門を移築いたものという。 この地、城のある山に囲まれた安全地帯であるが、どこかジメジメした感じを受ける。
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@静神社の参道、ここが入口 | A曲輪Xに建つ静神社 | B曲輪Xの東に曲輪Wが存在する。 |
C曲輪U、V間の堀。薬研堀であったというがかなり埋まって 箱堀状になっている。 |
D曲輪T(本郭)。曲輪Uより2m高くなっている。 北東端に天主台という名の櫓台がある。 |
E Cの堀の東の帯曲輪にはHの横堀が合流。 井戸跡があり、乾徳寺に下る道がある。 |
F本郭北の堀切。深さ7mほどある。 | G北端の堀切 | H本郭東下の横堀。横矢をかけながらカーブしている。 |
武茂東城
乾徳寺の東側の尾根にある東城は余り知られていなく、整備もされていないが、遺構は良く残る。 規模(広さ)は本域と同程度であるが、段郭を重ね、斜面に帯曲輪等を巡らしただけであり、複雑さはない。 曲輪T、U間は段差@があるだけである。 さすが、東端の尾根には大きな横堀状の堀切Aで切られている。 さらに東にも堀切は存在するが規模は小さい。 北側の帯曲輪には土塁Bがあるが規模は小さい。 武茂城、西城も共通であるが、主郭部の後ろの防備が弱い。 本城と居館の東を守る出城であることはな違いないが、背後の山は住民の避難場所であり、想定の敵である那須氏の軍勢の侵攻方向である南方面を城で抑え、後ろに住民を隠すことを意図していたように思える。 戦国期の武茂氏の知行は1万石程度であり、動員兵力は500程度であろう。 この兵力から見ると、2つの城の規模ははるかに大きい。 おそらく戦時に領民を避難させるスペースとして、また、佐竹氏の本隊が来た場合の駐屯地、宿城としてこのような規模になったのであろう。 |
@曲輪T本郭(左)と曲輪U間の段差。 | A本郭東の大堀切。 | B本郭北の腰曲輪。前面に土塁を持つ。 |
武茂西城(那珂川町馬頭)
武茂城の西の山、馬頭小学校の裏山に出城があることは、「栃木県の中世城郭」さんの情報で知った。
南北に長く全長100mほど、幅は30mほど。北から南に張り出した尾根の先端部を利用している。
↑南側にある馬頭小学校、裏の山が城址である。 2つ曲輪があったようであるが、南端は削られており、良く分らない。 尾根続きに北側の地勢が高いので北端に堀切@(現在では深さ4mほどに埋もれている。)を置き、堀に面し曲輪内は土壇がある。 曲輪内は南に段々になっており、西側は土塁が覆うが、東側はない。 西側の土塁から深さ5、6mほどの横堀Aが土塁に平行して構築され、現在、堀底が遊歩道になっている。 主郭の南側は堀切Bになっており、この堀底を回りこんで主郭内に入るようになっている。 西側の尾根が馬頭院の地であるが、この方面には沢があり、これほど厳重な防備はいらないと思うが・・・。 |
それより、尾根続きの北側の方が攻撃しやすく、防備を厳重にすべきであるが、堀は1本のみ。北に行ってみるが、特段、城郭遺構らしいものもない。
@主郭北端の堀 | A西側を走る横堀は遊歩道になっている。 | B主郭南側の堀切 |
一方、西の尾根は馬頭院の墓地であるが、こちらは墓地になっていて城郭遺構が存在していたのか分らない。
ただし、墓地最北端部の尾根が窪んでいる。
ここはもしかしたら堀切跡の可能性もある。
なお、馬頭院の西の山が馬頭公園であるが、ここにも出城があったのかもしれない。
しかし、そこは公園化されており、全くなにも分らない状態である。
南端の廃寺跡に建つ社殿の廃墟 | 北西側の尾根にある馬頭院も城域か? | さらに西にある馬頭公園の地には何か存在したのか? |