金枝城(さくら市(旧喜連川町)金枝)
那須一族の金枝氏の城であるが、喜連川の塩谷氏との境目の城でもある。
しかし、喜連川塩谷氏の倉ヶ崎城は南西わずか2kmという至近距離である。
あいだには低い丘陵があるだけ。
これでは隣どおし、果たして深刻な抗争があったのだろうか。

城は烏山から県道25号に沿って江川を北西に9kmほど行った金枝地区にあり、金枝集落の東にある比高50m、標高200mの山が城址である。

この城、遺構は那須氏の城郭共通のメリハリが聞いたAクラス、ところが藪度もAクラス。

見学に適した冬場でさえ、倒れた孟宗竹、密集した小竹、イバラで歩くのが大変である。
南北に並ぶ2つの曲輪が主郭であるそれほど大きな城ではないのだが、歩きにくいため、見学に時間がかかる。
この城へは城址北側の道路沿いから入るのが比高が稼げて良いかもしれない。

斜面を登って行くと、本郭周囲をまわる横堀@北側に出る。
幅は10mほど。
本郭はこの堀からさらに10mほど上。
この横堀はほぼ主郭部を1周する。
@本郭北側の横堀 西側の江川から見た城址。左側の鞍部の道から行くことができるがとんでもない藪。

東側、西側では横堀が分岐する。
この横堀を西側に行くと、西に下る竪堀Aがある。

この堀が登城路も兼ねていたようであり、土橋状になっており、東側は本郭と二郭を隔てる堀、その堀から本郭に上る虎口がある。
また南に行くと二郭内に入るようになっている。
この堀は深さが5mほどある深いもの。

本郭Cは東西40m×60mほど。南側に高さ2.5mほどの土塁があり、虎口が開く。B
その虎口を出ると二郭間との堀であるが、土橋はなく、おそらくここには木橋が架かっていたのであろう。

この橋を渡った先が二郭北側の櫓台のような場所であり、その南側が二郭Fである。
二郭は西側以外を高さ5mほどの土塁が覆った形となっており、その内側が3段ほどになっている。
南北70m、東西50mほどだろうか。
西側下は横堀Eがある。さらに西側斜面には2本の横堀が構築されているという。
明らかに西側、喜連川方面に防備を多重化した造りであり、ここが喜連川塩谷氏との境目の城であることが、実感できる。

A本郭西下に下る竪堀 B本郭南側の土塁間に開く虎口 C本郭内部はそれほど藪ではない。
D二郭西側の虎口 E二郭西側の横堀 F二郭内部

南北朝期の正平・元中年間(1346〜1392)頃、那須資藤の4男隆経が、この地に分家し、地名を取って金枝備中守を名乗ったのに始まると言う。
金枝氏は以後、那須氏の1武将として天文18年(1549)五月女坂の戦い、永禄10年(1567)の大崖山合戦、天正13年(1585)の薄葉ヶ原の合戦に出陣している記録が残る。

(余湖くんのホームページを参考にした。)