馬頭東部の城郭群

「栃木県の中世城郭」さんの情報で武茂城から北東の大子方面に県道52号、国道461号に沿って北側の山に小さな城が点在することを知った。
これらはこの地の中世の領主武茂氏が運用した城郭群であるが、いつの時期のものかは分らない。
武茂城−鳴神山城−健武城-武部城(またはその北の狼煙台)−石生山城−大平城と武茂川、盛谷川に沿って並んでいるので狼煙リレー用と推定される。
これらの城、実際に見てみると、戦闘用の機能はそれほど感じさせない。
これらの城で戦闘を交えるほどの遺構でも規模でもない。
精々、100人も詰めれるかどうかという規模である。

これらの城の目的、それは武茂氏が佐竹氏の配下に入る前、大子方面から侵攻してくる佐竹氏を警戒して整備したものだったかもしれない。
または、那須氏側についた武茂川上流の一族の大山田氏に備えたものであったのかもしれない。
逆に那須氏の侵攻を佐竹氏側に知らせるものであったのかもしれない。
この点は分らない。

福島の棚倉から久慈川沿いに佐竹の本拠地、常陸太田までは対白川結城氏用の狼煙リレーが行なわれていたので、大平城からさらに東の茨城県側の八幡館、鎌倉館、女倉館、依上城などを経由して、久慈川に沿った佐竹氏の幹線狼煙ルートに接続していた可能性もある。
大平城と八幡館の間はかなりあるので、もし、この間に中継ポイントが存在していた場合は佐竹氏への連絡ルートであったという仮説が成り立つであろう。

対那須を想定した場合、佐竹氏への連絡は国道293号線の常陸大宮市緒川方面への狼煙リレーの方が距離が短く、河内城、高部城、小瀬城などからの援軍の到着も早いのでこのルートの方が可能性が高い。
ちなみに、このルート、茨城県側は街道沿いに適度が距離で高沢城から高部城、そして檜山城を経由して小瀬城までというようにいくつかの城郭が存在しており、このルートで現実、狼煙リレーが行なわれていたようである。

しかし、栃木県側が良く分らない。
もしかしたら国道293号線沿い、矢又川に沿ったいくつかの山に狼煙台が存在していた可能性がある。

いずれにせよこんな田舎に似合わない厳重な狼煙リレー設備である。
こんな山間の僻地に存在するこれらの遺構、おそらくはここが金の産地であり、重要拠点であった証拠でもあるのであろう。
この地の領主は宇都宮一族の武茂氏であるが、本家の宇都宮氏の本領との間には、犬猿の仲の那須氏がいて飛び地状態となっている。
武茂氏の実力、1、2万石程度のものだったろう。
動員兵力も精々500程度だろう。とても単独で存続できる力はない。
結局、最終的には東の佐竹氏に従属し、佐竹氏のバックアップで那須氏と対抗する。

しかし、佐竹氏の真の狙いはこの地の金であろう。
八溝山周辺は金の産地であり、これをねらって佐竹氏は白川結城氏からまず大子地方を奪還し、ここを直轄とし、さらに棚倉方面に侵攻する。
それに伴い武茂領も狙ったのであろう。その狙いは金だったように思えるが、当時、どの程度の産金量があったのか分らない。
武茂氏は佐竹氏配下となるが、その後も武茂氏の地位に変化はなかったが、上納金を納め、安全保障をしてもらっていたのかもしれない。
小田原の役後、佐竹氏の絶対権威が確立すると、武茂氏はこの地から移封されてしまう。
この移封の佐竹氏の狙いは、武茂氏から金山(砂金採取場?)を取り上げ、直轄にするのが目的であったと想像できるのだが・・・。
山に眠る小さな城砦群、黙して語らず。
以下、鳴神山城から大平城に続く城郭を紹介する。
【参考:栃木県の中世城郭、余湖くんのホームページ】

健武城(那珂川町健武)36.7528、140.1900
旧馬頭町市街地北には武茂氏の本拠武茂城があり、そこから東、武茂川の上流方面の北側の山に鳴神山城、式部城等多くの城館が並ぶ。
この健武城は何故か長い間、発見されていなかった。
2023年に発見され、2024年2月にようやく確認された城である。
山頂の本郭の標高は225m、武茂川からは約100mの比高である。

↑ 西側から見た城址
城へは南西下から尾根伝いを登る道があるらしいが登り口が分からない。
このため、旧健武小学校裏から直登という手段を取った。
「裏から」と書いているが、そう簡単には行かない。
旧小学校の地と城のある山の間には深い沢があるのだ。
その沢を渡るのがまず悩みである。
旧小学校跡地の北側に水田があり、水田の一番東端に藪に埋もれた橋がある。
それを渡れば山にとりつくことができる。その橋がなかなか見つからない。
橋を渡った所には道跡はあるが、既に誰も山に行かなくなり、道も篠竹地獄になっている。
ここを強行突破すると、広葉樹の林となり、斜面を登る。

そして、標高180m付近の平場に出る。
ここが城域か?と思うが、さにあらず。
さらに40m以上登らないと主郭部には行けない。
その間が急斜面である。
このような急斜面であるため、南側には特段、何もない。いきなり主郭部なのである。
この方面からの攻撃は想定していないように思える。

苦闘の末に到達した山頂の主郭部@、広くてスッキリしているが、曲輪と思われる段差は見られるものの特段、何もない。
粗く削平されていることは認識できるが、ただの山に近い。

しかし、この城の城らしい遺構はその周囲にある。
北に延びる尾根を行くと、深さ約4mの堀切Aが現れる。
末端は普通は竪堀になるが、この堀切は東西で帯曲輪になる。
この帯曲輪が主郭部の北側を覆う形となる。

北西端部では横堀状Dとなり、その南側は竪堀となる。

一方、堀切Bの北側に土壇があり、長さ約20mの緩斜面の曲輪を経て2つ目の堀切Bがある。
深さは約2.5mと埋没が進んでおり、幅も約5mしかない。
堀切Bの北側にも土塁がある。

さらに長さ約25mの曲輪を経て3本目の堀切Cがある。
この堀切も小さい。深さは約1m、幅約4mであり、通路状である。
この堀切から北に道がついているので、通路を兼ねた堀切と思われる。

この道を北に行ってみたが、道はそのまま先に延びているのである。
山上を通る道を管理する城の可能性もある。

@城内最高箇所、ここが主郭、周囲に段々が展開する。 A北に向かうとこの堀切に出る。竪堀はなく帯曲輪に繋がる。 B 北側2本目の堀切
C 北側3本目の堀切。ここから道が北の山中に延びる。 DAの堀切から派生した帯曲輪は西側で横堀状になる。 E南西下に下る尾根筋には小曲輪が連続する。

一方、主郭部に戻ると、東に派生する尾根に小曲輪が確認でき、南西下に延びる尾根には途中から明瞭な曲輪Eが現れる。
その先が始めに書いた登城口と推定される場所まで続いているようである。
おそらくこの道が大手道であろう。

城主等は分からないが、武茂氏家臣に間違いないだろう。
居館があったとすれば旧小学校の地あたりがふさわしいように思える。

仲丸城(栃木県那珂川町(旧馬頭町)盛泉)
武茂城のある旧馬頭町中心部から東の茨城県大子町方面に県道52号線、健武から国道461号線(馬頭街道)を武茂川沿いに向かうと、北側の山に「鳴神山城」「武部城」「石生城」「大平城」が連なる。
さらに境明神峠を越え、茨城県側、大子町に入ると「鎌倉館」「八幡館」「女倉館」「下金沢未城」「依上城」「芦野倉城」が国道461号線沿線に並ぶ。

これらは街道筋の監視の役目の城でもあるが、緊急時の連絡網、すなわち狼煙リレー用でもあったと思われる。
しかし、狼煙リレーの城であったことを想定すると、県境を挟んだ大平城と鎌倉館の間が直線で約4qあり、離れすぎている。
なお、狼煙リレーと言ってもいわゆる「狼煙」という光学的手法だけではなく、太鼓や鐘といった音響手法も用いてあるいは併用していたものと思われ、必ずしも城館間で狼煙を視認できる必要はなかったのかもしれない。
その査証として「太鼓館」とか「鐘撞堂」などの城名や城内地名が存在する。

しかし、狼煙、太鼓や鐘の音は風や霧、雨等の天候条件に左右される。
大平城も鎌倉館の山間の4qという距離は離れすぎており、情報が伝わらないリスクが大きい。

このため、大平城と鎌倉館の間にもう1つ城が存在しているのではないかと言われていた。
その城が仲丸城である。
大平城と鎌倉館からそれぞれ約2qの距離にあり中間点である。
場所は「うぐいすの森ゴルフクラブ」の南西端の山である。

下の写真は東側から見た城址。下の道路は国道461号線。

この山は東側のゴルフクラブとの間に谷津があるためか、または山頂に神社があるためか、ゴルフ場の敷地にはなっておらず、山は削られることなく、遺構は完存状態にある。
山は国道461号線のすぐ脇にあり、山頂に小さな社があり、東下に小さな鳥居があり、そこから山の東斜面を一直線に登る階段がついているので、わずか5分で登れる。
しかし、この山の斜面、急勾配であり、階段も一直線に登るようになっているため、キツさは半端ない。
このため、這いつくばって登るのが一番である。(でも、階段を降りる方が怖い。)

城のある山の標高は236mに過ぎない。
下の国道461号線の標高が194mであるので、比高は42m、意外と低い。
山頂部は木が茂っており分からないのだが、ここからは大平城も鎌倉館も直接見ることはできないと思われる。

この山の南、盛谷川、国道461号線を挟んで反対側の山の方なら大平城も鎌倉館も見える可能性がある。
おそらく、狼煙台としての機能を考えれば、これは狼煙ばかりでなく、音響(太鼓、鐘)でも情報を伝達していたことを示しているのではないだろうか?

この城の管理者は盛谷川、国道461号線を挟んで南側の「宿」集落に居住していたと思われるが、その場所からの登城時間も重要であり、敢えてこの山に城を置いたのではないかと思われる。
なお、この宿集落、名の通り馬頭街道の宿場町である。集落内を通る細い道が当時の馬頭街道であろう。

その仲丸城であるが、規模は小さく、ささやかなものである。というより「セコイ」!、でも完全なる城であるのは間違いない。
全長は約90m、幅は最大15mほどに過ぎない2つの曲輪からなる尾根式連郭城郭である。
南端部に社がある東西10m、南北23mの東西に50pほどの高さを持つ低い土塁が覆う場所がある。
ここが主郭であろう。

ここからは南の眼下に馬頭街道を望むことができ、街道監視のための城であることが理解できる。
南側には櫓台か狼煙台があったような場所がある。南に竪堀が下るが、これが本来の登城路であろう。
廃城後は参道として使われていたのであろう。
この登城路沿いに2段の腰曲輪があり、全面に低い土塁を持つ。
横堀を兼ねた塹壕である。
主郭の防衛陣地であろうか?

社のある場所から北側に尾根が続く。
山の斜面は急勾配であるため、曲輪などを置く必要はないが、この尾根続き部分が最大の弱点である。
当然のセオリーとして、この尾根筋は2本の堀切で遮断される。
1本目は社から20m北にあり、幅は約4m、深さは約2mであるが、かなり埋没している。
社側に土塁がある。
@先端部、社がある曲輪、低い土塁を持つ。 A北側の曲輪と隔てる堀切 B北端の堀切

その北に尾根上を削平した、全長約40m、幅約5mの細長い「く」字形の曲輪があり、ここが二郭である。主郭部より若干、標高は高い。
この曲輪の北東端に幅は約4m、深さは約3mの堀切を置く。
ここが城の末端部となる。
ここからは尾根が低くなり、ゴルフ場となる。

一方、二郭が「く」字状に湾曲する部分の西側に小さな尾根が派生し、2段の小曲輪がある。城主は分からないが、ここは武茂氏の領地であり、武茂一族の者か家臣の者であろう。

健武山神社(たけぶやまじんじゃ)

那珂川町役場のある旧馬頭町中心部から茨城県大子方面に県道52号線を約2km、健武地区にある。
解説によると「延喜式内下野十一社の一つで大同元年の創始。大字健武字武部と天梅の地にあって祭神は「日本武尊」と「金山彦命」の二社で日本書紀に「日本武尊白鳥云々……欲録其功名即定武部」。
この地方の産金は「那須のゆりがね」として昔から和歌にも詠まれ遠く都にもその名が知られていた。

「金山彦命」については、続日本後紀に「承和二年下野国武茂神に従五位を授け比神採砂金の山に座すとみえる」。
そして水戸斎昭が深く崇敬し社領十七石を寄進され、毎年の例祭には奉幣紙が遣されていた。
ここには「古代産金の里」の碑が建てられ「奈良時代の天平19年(747)奈良に大仏鋳造が始められ、仏像に塗る黄金に不足し聖武天皇は大層お悩みになられた。
この年下野国から黄金の発見が奏上された。

これがわが国最古の黄金である。この地の黄金は長年にわたって朝廷に献上され大陸文化の輸入に役立った。
のち、平安時代の承和2年(835)黄金を産する山に鎮座する武茂の神に従五位下の位が授けられた。
かくの如くこの地はわが国最古の産金の里であった。」と刻まれている。

ちなみにこの金とは武茂川で採れる砂金のことであったという。
いわば、この神社「黄金神社」とも言えるのである。
「しまった!手は合わせたが、財布を持ってなくて、お賽銭は入れなかった!」

神社の名前が武力に係るが、武部・健武は「建部すなわち日本武尊の御名代部」のことという。
当時、ここより北はまだ蝦夷の影響があり、この付近に大和朝廷の北方侵略の軍事的拠点があったようである。その守護のための神をここに鎮定したと思われる。

なお、武茂川の上流、八溝山から南は常陸大宮にかけての山地には金の産出があり、戦国時代は佐竹氏が白川結城氏と戦いの末、奪取し、開発が行なわれ、最盛期には佐渡、越後に次ぐ産金があったという。


鳴神山城(那珂川町藤沢)
那珂川町役場から県道52号を大子方面に東進すること約1km、消防署の分署がある。この北の山が城址である。
山の標高は260m、比高は140mほどである。南北500mほどの細長い城域を持つ。

この城へは北に続く尾根沿いから行けるのでそれほど大変ではない。

馬頭小や武茂城の北にある森林公園内の道路を東に向かい市道との交差点から林道に入ると北端の尾根まで行けるが、この林道、途中が荒れていて車で行くのは余りお薦めできない。
ともかくこの林道の終点(どうも地図上は道が延びているようであるが、道は尾根の頂上部でなくなっている。)から尾根沿いに南に500mほど行くと城址の主郭部である。
この城、主郭部の東半分は明確なのだが、西半分は非常に不明用。


上の写真は南側から見た城址である。

北の尾根部も土塁や竪堀はあるのだが、自然地形と混在した状態であり、不明確なのである。
もしかしたら整備途中で廃城になった可能性もある。
北から主郭部方向に向かうと2本の土塁で斜面を包み込むような場所がある。
@北に続く尾根の土塁に囲まれた曲輪? A主郭部入口の堀切と土橋・・だが、分からん。 B 主郭部東の曲輪
東側に明瞭な竪堀があるのだが、この部分の意味は良く分らない。
さらに南は上部が平坦に削平された尾根があり、土塁に囲まれた場所@がある。
その先、下りとなり、堀切跡のような場所があり、おなじみの堀切、土塁Aが登場する。

ここから南が主郭部であるが、先にも書いたように西側、北側が緩斜面のままであり、曖昧なのである。

C主郭部 北下の横堀

主郭は60m×30mの大きさの曲輪に北東側に40m×8mほどの曲輪Bが1mほどの段差を置いて突き出す。
この突き出した曲輪の周囲はメりハリがあり、東下から北側下8mに横堀Cが巡る。

一方、主郭から南に下る尾根にも曲輪が段々に120mほどに渡って展開し、南端が堀切で終わる。
この城も狼煙リレーを担う城であろうが、整備途中のような印象もある。
北に続く尾根の遺構は非常時の住民避難用のスペースではないかとも思われる。


健武山神社北東のピークにある遺構
式部城に行くはずがなぜか・・というか、いつもどうりというか、間違えて、健武山神社の裏山に登った。
その裏山、植林された杉林であるが、あまり手入れはされていなく倒木が多い。
勾配もきつくもなく、緩やかというものでもない。

比高80mほど登ると西から延びる尾根に出るが、その付近、切岸が段々になっている。
一見、城郭遺構のように見えたが、植林に伴うもののようである。
その証拠に山頂部はただの山。

尾根伝いに北北東に向かうがどうも尾根上には道があったようであり、一部、尾根が堤状になっている部分もある。
この尾根を進んでいくと、途中に虎口のようなS字の堀状の通路のようなものがあり、その上部に土壇を発見。
古墳のようにも見えるが、明かに人工的なものである。尾根上の関所のような感じであった。
木戸が存在していたのかもしれない。

横堀状の通路 これは、土壇?あるいは古墳なのか?
さらに北北東に100mほど尾根伝いに行くと、標高250mのピーク部に狼煙台と思われる周囲を土塁で囲み、南側だけ開いている遺構があった。
このピーク部、健武山神社の裏の西から延びる尾根と、神社東から延びる尾根、そしてさらに北北東に続く尾根の合流点に位置する。

鳴神山城と石生山城を直線で結べばその中間にこの場所がある。
神社からは水平距離で500m、比高で110mほどの位置である。

どうやら武茂城、鳴子山城、式部城、さらに北方をつなぐ山間の道、そして狼煙台であったようである。

残念ながら、小竹が密集しており、写真を撮ってもさっぱり分からないので写真は掲載しない。
肉眼ではちゃんと見えるんだが・・・。


武部城(那珂川町武部)
那珂川町役場から県道52号を大子方面に東進すること約3km、武茂川の南に整備中の県道52号バイパスと合流する。
この交差点の北西の山が城址である。
標高は243.6m。比高は90mほどである。

その交差点と旧道沿い西の「ミツトヨ」の工場の間の民家の間に北の山に登る道がある。
この道を登って行けば城址に行ける。

山麓の民家や畑のだる台地、南向きで日当たり良好である。
ここに居館があったのではないかと思われる。

山道を行くと途中で道はあるのか、ないのか分らない状態となるが、なんとか登ることは出来る。
しかし、この山の斜面、かなり急である。南の主郭直下の山腹に湧き水があり、今も水が出ている。


麓の民家にも引いているようである。
おそらく、昔からの水場だったのではないかと思われる。

強引に斜面を登ると東に下る尾根から登る山道に出る。
この道に合流して西の山頂部に行くとすぐに城址である。
城址と言っても単郭。
幅30mほどでカーブを描いた総延長100mほどの曲輪が主郭である。

内部@は平坦ではあるが、北と西側には若干、傾斜している。
杉が植林されていたようであるが、今はあまり管理されていないようである。

@主郭内部はやや傾斜しているが平坦、藪状態。 A主郭西の堀切 B城域西端の横堀、埋もれている。鉄砲塹壕?
C主郭北側の切岸と帯曲輪 D手郭東の腰曲輪 南の山麓の台地は居館跡か?

周囲7mほど下に幅10mほどの帯曲輪C、Dが巡る。
西側に深さ6mほどの堀切Aを介し、10m四方ほどの小さな曲輪があり、その西下にU字型の横堀状の堀切Bがある。
北側は山地に続く尾根であるが、加工されている。

東からえぐるような形に加工された堀切があり、地勢が下がって行く。
そして尾根末端に小さな堀切がある。ここが北限である。

この尾根に沿って山道があるが、植林に伴うものであるが、北から繋がる古道を利用したものであろう。
この道を行くと狼煙台のある北西のピークに通じ、さらに北の大山田方面にも行ける。
非常にシンプルな形状の城であるが、切岸等は明確である。
狼煙台を多少大きくし、多少の兵も置ける程度の規模のものである。

大平城と石生山城(那珂川町大平)
那珂川町役場から県道52号経て国道461号を大子方面に東進すること約6km、武茂川支流の盛谷川と大内川が大平で合流する。
同様に国道461号と県道232号が合流する。


↑ 南から見た城址。
右端が大平三叉路。
中央正面、やや右に二渡神社の石段がある。
社殿の裏の道を上がると城址まで行くことができる。

この合流点、交差点の北の山が城址である。城へは交差点から国道461号を西側に50mほど進んだところに石段がある二渡神社から登って行く。
なお、車は盛谷川にかかる県道232号の大平橋の南側に駐車スペ−スがありそこに止められる。
この二渡神社の石段、ほとんど壊れていて、コケが生えているので非常に怖い。

神社裏に山に向かう道があり、城址が「おしろ山」と言われ、道が整備され、案内が出ているのでこれに沿って行けば辿りつける。
城のある部分はこの山塊の南東部のビークにあたり、標高は280m、比高は120mである。

城ではあるが、極めて簡素なものであり、ゆがんだ楕円状の単郭であり、長軸90m、幅30m程度のもので、西側から北側にかけて低い土塁が巡り、周囲は切岸と帯曲輪がある。
尾根続きの北端の土塁が高く、堀は深いが、北に続く尾根が広いため、これでは役にたちそうにもない。
ここも狼煙台程度のものである。

@主郭西の土塁、かなり曖昧である。 A主郭北の堀 B主郭東の腰曲輪または犬走り。

ここから北の尾根を行き、西側にカーブを描くように3つくらいの尾根上のピークを越えて進むと、標高334.8mの三角点のあるピーク(ここが中岳?)
そしてその南西の標高350mのこの山塊の最高点、石生山に行くことができる。
石生山にあるのが、石生山城である。


↑  大平三叉路南から見た西に見える城址。
撮影場所からの比高は200mある。


しかし、大平城からそこまでの道、途中までは印がついているのであるが、途中からなくなり、見当をつけながら小竹の藪の中を進むことになる。
周囲が見通せないので方向感覚が狂う。
磁石がないと遭難する恐れさえある。

で、何とか標高334.8mの三角点に到着するが、そこには遺構はなかった。
石生山城はそこから鞍部に降り、再度登った場所であった。
この城も尾根沿いに300mほどの長さがある。

しかし、堀切は3本ほど確認できたが、馬出のような曲輪があったというが、知らないで通過してしまうほどの不明確なものであり、戻る時にようやく確認できた。
そんなことで、いつの間にか山頂部の電波設備があるところまで来てしまった。

その山頂部も朽ちかけた社があるが、ただの山に近い。南西側の尾根にも曲輪があるが、不明確なものであった。
結局、城としては狼煙リレーの中継所程度のもののように思える。

@北端の馬出のような曲輪の帯曲輪 A堀切なんだが・・・なんじゃいこれ、藪じゃん。 B山頂の主郭であるが・・ただの山に近い。