千本城2025

栃木県茂木町の戦国領主は茂木氏が代表的存在なのだが、茂木町には那須一族千本氏や宇都宮一族益子氏の領地もあり、城館がある。
2025年1月、千本氏の本拠千本城に行った。
前回行ったのが2008年3月8日なので実に17年振りである。

17年目と同じように、あのおっかない山道を車で「おっかねえ、おっかねえ」と言いながらトボトボと電波塔の所まで。
城は17年前とほとんど変わらない状態だった。

畑になっていた三郭、四郭は耕作が放棄されていたくらいか。
確かにこんな高い場所で耕作するのは大変であろう。
しかも過疎化も進んでいるし。

この城、山城なんだけど、城主が山城に住んでいたという。
茨城では珍しいタイプ、そういう城、笠間城くらいかな。

でも栃木県に入ると茂木城とか烏山城とか、城主が山城に住むタイプの城がある。
居館があるので当然、広い城である。

そしてこの千本城、もう1つ特徴がある。戦国最末期の姿を伝えているのだ。
築城は古いが、秀吉が天下統一を果たした頃、千本氏が大改修を行った。
なお千本氏は那須一族なのだが、当時は茂木氏に乗っ取られてしまっている。
各地の城や上方の城も見て、その技術を取り入れている。
それなので馬出とか桝形虎口などがそのまま残る。
しかし、江戸時代は麓に陣屋を構え、山城は廃城にしている。

@二郭の内桝形への入口部の虎口、両側に掘がある。 A @の虎口を入った内桝内。 B本郭と角馬出間の堀
C本郭内部、ここに屋敷があったのだろう。 D本郭東下の深い堀切 E南端の堀切、ここを越えると出城である。

だから、戦国末期の姿がフリーズされているのだ。
廃城といっても全く破壊されていない。廃城ではないのだ。
千本氏、乱世が訪れたら山城を復興させる気だったように思う。

しかし、その時が訪れることはなかった。
今回は西側に位置する展望台と言っている出城(西出城?)と南側にある出城にも行った。

展望台という名の出城、展望台という名の通り、眺望がすばらしい。
北は那須連峰、西は宇都宮・鹿沼方面、南は筑波山がバッチリ見える。
それらの結果も加えてHP記事をリバイス。

E四郭(右)西下の堀切 F出城入口部の曲輪 G展望台上は平坦で眺めが抜群である。
展望台から見た北方向、那須岳の雄大な姿を望める。 展望台から見た南方向、遠く筑波山が見える。

展望台から見た西側、宇都宮、鹿沼方面

以前の記事 千本城(茂木町千本)
国道294号線の茂木を烏山間の山間にこの千本城がある。
この付近、道はくねくね曲がり、山の谷、尾根が複雑に入り組んでいる。
この城もそんな山の1つにあるが、車で行けるのである。(でかい車は無理)。

麓の国道294号線沿いから見ると、山の上に電波塔が見るが、その北の山が城という。城への入口を捜すがよく分からない。
しかし、この城、さすがに地元では有名であり、地元の人は、誰でも知っている。
分からなかったら聞けば済む。
ともかく、地元の人の指図どおり、どこをどう走ったか分からないが、ともかく、めでたく城址到達。
(後で地図を確認したら国道294号線沿いの赤石公民館東500mの分岐する道を南に入り、登って行く「尾軽」集落に向かった道を走った。)
この城、予想以上に巨大である。南北400m、東西150m、いやもっと大きいかもしれない。
堀や塁壁も豪快。

右の写真は西側、県道338号線沿いから見た城址のある山。

城の標高250m、西下の須藤中学校付近の標高が150mほどであるので、比高は110mほどである。
標高200mの東下の尾軽の集落が根小屋に当たるのではないかと思われる。
尾軽部落から高度で50mほど登るとそこが城址である。
その道沿い下に帯曲輪がすでに認められる。

部落から登ってくる道は配水場に出る。ここは切通しになっているが、堀切C跡であろう。
ここから主郭部に上がる道がある。
この配水場付近も城郭遺構があり、下に帯曲輪がある。
さらに南側の電波塔までの間の鞍部に堀切と竪堀Dがある。
電波塔の場所も物見台であろう。

また、この切通しから西下、千本神社方面に下る道沿いの南側の山も段々状になっており、これも明らかに曲輪である。
ここは出城というか、大手曲輪なのであろう。

主郭部に入る坂道を登って行くと、虎口があり、広い場所に出る。
ここが郭5であり、畑になっている。
虎口部は、もともとは枡形構造になっていたらしい。
だいたい60m四方の広さであり、南側から西側を土塁が覆う。

東側がでっぱり、横矢がかけられるようになっている。
その北が一段、高くなり「屋敷跡」と呼ばれる郭4である。
長さは100m位、幅は40mほど。内部は畑である。
蔵か政庁があった場所かもしれないし、住民の避難スペースであったのかもしれない。
南側に高さ4mほどの大きな土塁があったらしいが、半分削られている。
その南側には堀があったと思われるが、畑にした時に埋められてしまったようである。
東下には帯曲輪が、部分的に2段あるが、そこは凄い竹やぶ状態である。

この郭の北側が一段盛り上がり郭3である。
東側に虎口があり、虎口の左右には横堀Bが巡らされている。
西側に延びる堀底の先は郭3の周囲を覆う帯曲輪に合流する。
この堀は耕地整理で半分程度に埋められているようである。

郭3に入ると南側から西側にかけて高さ3mほどの土塁が周り、曲輪が大きく膨らんでいる。
すぐ北には郭2の塁壁が高さ8mほどに聳え、手前に幅15mほどの堀Aがある。
この堀は東側では曲輪となる。
郭2に上がる部分は、2段の小さな曲輪があり、馬出のようである。
曲輪の両側が堀で抉った感じになっている郭が付属している。

鳥居を潜ると郭2である。70m×30mほどの大きさであり、南側、西側は土塁が覆っている。
先が羽黒神社本殿のある付近が本郭である。
郭2との間には、堀と土塁があったらしいが、堀は失われている。
土塁と堀は食い違い形状になっていたこという。

本殿の建つ境内は30m×20mほどの広さで、一部を除いて、ほぼ全周、土塁が覆っていたようである。
先端の土塁が高いのでここに櫓があったかもしれない。
その先は深さ6mほどの堀切@である。この堀切は東側で帯曲輪となり、仕切り土塁を経て、郭2の東を覆う。
さらにその曲輪の下にも1段帯曲輪がある。
西側、北側は急勾配で帯曲輪はない。

この城は、那須七騎の一人、千本氏の本拠である。
千本氏は那須太郎資隆の十男為隆が興した家という。彼の弟が那須余一であり、義経に従い平家追討軍にも加わったという。
しかし、戦後、何か事件を起こして、信濃に逃亡していたという。

その後、許されて帰郷し、ここ千本の地をもらい、千本を名乗ったという。
この地は那須領の最南端であり、茂木氏、宇都宮氏との境目である。
那須氏は、宿敵、宇都宮氏とは軍事的衝突を繰り返していた。天文17年(1548)、五月女坂の戦いで那須氏は、宇都宮尚綱を討ち取り勝利する。
しかし、那須一族内も分家してからの時が経つと、支族が独立を志向するようになり、対立が起こる。
そこを復讐を狙う宇都宮尚綱に突かれる。

当時の那須総領家は高資と弟の那須資胤が対立、宇都宮尚綱の陰謀で、天文20年1月(1551)、千本資俊は那須高資を千本城に誘い出し、暗殺。那須資胤が那須家の家督を継ぐ。
この功で千本氏は安泰となる。
しかし、今度は逆に千本資俊は大関高増と対立、大関高増にそそのかされた那須資晴に千本資俊が殺され、千本氏は断絶してしまう。
この時、合戦があり、千本城が落城したという話もあるが、詳細は不明である。

千本氏の名跡は、茂木義隆が継ぐが、この時点で千本氏は那須系ではなくなってしまうことになる。
那須一族の最後は、ばらばらであり、小田原の役の対応で、遅参した那須本家は改易されるが、千本、大田原、大関各氏は生き残りに成功。
千本氏はさらに、その後の関ヶ原の戦いでも対応を誤らず、3000石の旗本として幕末まで存続に成功する。
結果としては運の良かった一族と言えるだろう。

この城を根拠にしていた千本氏の軍事力は精々、300人程度の動員兵力であろう。
その兵力で守るには城は大きすぎる。山城は通常は非常時に避難する施設であるが、この城は広大さからして居館、政庁も兼ねており、倉もあったものと思われる。
住民の避難スペースも用意されていたのであろう。
でなければこんな広大なスペースは不要である。
遺構も主要部分は残っており、規模、巧妙かつ豪快で見ごたえがある遺構を持つ城である。

(航空写真は国土地理院昭和49年撮影のものを切り抜いた。)(「芳賀の文化財」参考。)

配水場前から見た主郭部虎口 主郭部前の切通しは堀切C 南端にある堀Dは竪堀となって下る。 主郭部の虎口を入ると郭5、土塁が覆う。
郭5から見た郭4。
一段高く、その間に堀があったらしい
が埋められ、
土塁は崩されている。。
郭4内から見た郭3と2。 郭3の土塁手前には堀Bがある。 郭3内部。周囲を高さ3mほどの土塁が覆う。
郭2に入る手前の小曲輪から見た郭3内。
左下が堀A.
郭2の入り口に建つ羽黒神社の鳥居。
両側に土塁がある。
郭2の東側は土塁が覆う。 郭2内部。けっこう広い空間である。
本郭東側の土塁。 本郭内には羽黒神社が建つ。
周囲を土塁が覆う。
本郭北は堀@で遮断する。 本郭東下の帯曲輪。
さらに1段下にも帯曲輪がある。

千本城出城36.5731、140.1516

千本城から南側に続く山は一旦、堀切Eで鞍部となり、また登りになる。
その登った山の頂上に「芳賀広域消防本部の茂木通信施設」が建つ。
この山が千本城の出城である。

標高は253m、千本城の本郭とほぼ同じ標高である。
通信施設が頂上にあるので主郭部は破壊されているようである。

しかし、東に派生する尾根に約40mにわたり3本の横堀が確認できる。
横堀は尾根部に約20m、南側斜面に竪堀となって約30m残るが、北側斜面には竪堀はない。

また、北側の尾根にも腰曲輪や虎口のような遺構が確認できる。

通信施設がなかったとしてもかなり簡単な構造で、それほど削平もされていない感じだったようである。

@1本目の堀切は2重堀構造になっている。 A2本目の堀切、南側は竪堀になって下る。 B 通信施設北側にも所々に遺構が残る。