西明寺城(益子町益子高館)
益子の市街地から2.5Km南東の高館山(標高302m)の山頂にあり、高館城とも益子城とも言う。
宇都宮氏の重臣、益子氏が築いたことに間違いないが、築城時期としては諸説があり、平安時代康平年間(1058−64)紀権守正隆によると言われる説が有力。

紀氏は益子氏を称し、芳賀氏とともに宇都宮氏の重臣として活躍するが、本城のような山城に居住して領国支配を行うことは不便であり、益子氏の本拠は現益子市街地の陶芸メッセのある地(益子古城)または益子小学校の地であったと言われる。
しかし、逆にこれらの城は政庁として領地支配には適しているが、敵に攻められたら要害性が低く一たまりもない。 
このため、本城は詰めの城、避難城として古くから整備されてきたものと思われる。

築城当時の城は、西明寺の直ぐ裏の山、現在、権現平と呼ばれている曲輪であったという。
この場所は高館山から西に延びる尾根末端が盛り上がった場所であり、高館山方面を掘りきっており、堀切はそのまま存在する。
今残る本格的な城郭は、高館山山頂に主郭を置き、周囲の尾根に曲輪群を展開させる形である。
この整備拡張は、戦国期になってからであろう。
益子氏は同じ宇都宮氏家臣の笠間氏等と抗争を繰り広げるが、天正17年(1589)15代家宗の時、主家宇都宮氏、芳賀氏に攻められ滅亡した。
この時、西明寺城も落城し廃城になったものと思われる。 

城の遺構は開発の波が及ばない山中にあるため、ほぼ完全な状態で残っている。
県道 線が城内を通っており、車で本郭直下まで行ける。
また、城域一帯は高舘山自然公園として保護されているため、自動車道路で多少、遺構は破壊されているが、藪も少なく遺構も見やすい。

主郭部は高館山の山頂部にあり、西を上にしたU型をしており、最高地点の東側に本郭を置く。
西明寺に至る尾根の曲輪は3方の土塁を有し、北東側の尾根上の曲輪も同様である。

山頂から西明寺に至る尾根と本郭北側の尾根、北東側、北西側、南東側の尾根方向に段々状に曲輪が築かれる。
主郭部北側は10mの深さの谷状となり、竪堀で北東側曲輪群と仕切られる。
北東尾根曲輪群は北東側の尾根に沿って数本の堀切で仕切られ、曲輪が展開する。
遊歩道が通っており、遊歩道に沿って遺構が見れる。なかなかのものである。

主郭北の竪堀を北に下ると北曲輪群があり、広大な曲輪はキャンプ場になっている。
この南に駐車場となっている広場のような曲輪があり、井戸がある。
その西は県道を挟んで見晴台となる削平地がある。
この部分も独立しており、出城と言える。

見晴台を西明寺方面に下って行くと曲輪が展開し、堀切を介して権現平と呼ばれる旧城に至る。
また、携帯電話の通信塔がある場所を下って行くとここも曲輪群が展開する。
主郭部から南東に延びる尾根にも曲輪群が展開するが、藪で行けなかった。
この城、城域は広いが、曲輪の規模は一部を除いて、ほとんどが小さく居住を主としたものではない。
また、結構曲輪内が傾斜している。
あくまで詰めの城としての機能と防御性を優先したものと言える。

(鳥瞰図中の数字は写真の撮影位置です。)
@本郭曲輪群の入り口 A 本郭内部 B主郭部北の曲輪
C主郭部北の竪堀 D 北東尾根曲輪群の深さ8mの大堀切 D 左の堀切は竪堀となって斜面を下る。
E 北尾根曲輪群最大の曲輪はキャンプ場 F 主郭群西下の井戸跡 G 主郭部西の見晴らし台と言われる曲輪
H 北西尾根曲輪群の曲輪 I 旧城間の堀切 J権現平と呼ばれる旧城の本郭

西明寺
栃木県益子町と言えば焼き物の町であるが、この寺は市街南の高館山中腹にある。
高館山は宇都宮氏重臣、益子氏の要塞、西明寺城があるが、この寺も城の一部である。
城の一角にあると言ってよい。

寺の場所も鋭い切岸や曲輪が見られ、これらが城郭遺構であることは一目見て分かる。
正式には、手覧獨鈷山普門院西明寺といい、真言宗豊山派に属する。
坂東巡礼第20番、下野第13番の札所でもある。

国の重要文化財級の建築が多く残り、非常に尊厳のある空間が広がっている。ここは素晴らしい。
本尊は十一面観世音菩薩である。天平9年(737)紀有麻呂(益子氏の先祖)によって建立され、天平11年(739)落慶供養が行われたという。
一時は12坊を数えて隆盛を極めたというが、大治2年(1127)に兵火に羅って灰塵に帰したという。(何の戦いだろう?)
治承2年(1178)堂宇宝塔再興、承元3年(1209)宇都宮景房が本堂を修理、建長7年、平時頼によって七堂伽藍が再興されて完全に復興した。
正平6年(1351)には再び兵火にかり焼失。

応永元年(1394)益子勝直に堂宇再建、明応元年(1492)楼門、天文7年(1538)三重塔が益子宮内大輔家宗によって建立。
その後、元禄14年(1701)には平野亦市により本堂の再建、正徳4年(1714)には閻魔堂が建立、享保7年(1722)には鐘楼が再建されて今の姿となる。
本堂の厨子は国指定重要文化財であり、応永元年(1394)の作。
全唐様式で、一間厨子宝形造板葺きである。外部は黒漆塗りで柱上部の金欄巻や唐戸の菱形も特殊な手法である。

楼門は純唐様式三間一戸重層入母屋造茅葺きである。柱は32角造り。
また、背面腰組下の蟇股は形態珍奇、彫刻手法細部模様絵など精美であり、柱間を飾る中備(箕束)、勾欄出組の唐様斗拱、頭貫木端の繰形彫刻は特色ある渦形文様で、よく室町時代の特徴を表わしている。
三重塔は益子家宗の建立。和様、折衷、唐様の三様式、三間三層造り、目板打の板屋根銅板葺きである。三層とも柱間が三間である。
(西明寺のHPより抜粋)戦国末期、益子氏は宇都宮氏に攻撃されて滅亡してしまうが、この寺は焼失を免れたようである。

参道の階段、横には曲輪がある。 西明寺本堂 楼門、三重塔、鐘楼、いずれも国重文 国重文の楼門、室町中期の建築

益子古城(栃木県益子町)
益子市街、陶芸メッセ益子のある丘が城址。平山城であり御城とも言う。
益子氏が平時の領国支配を行うための居館であったと思われる。
独立丘であるが比高は20m程度であり、要害性はない。

当然、非常時の詰めの城は西明寺城である。
築城は西明寺城と同時期と思われる。
多くの戦国時代の領主的武家と同じように平時の城(益子古城)と非常時の城(西明寺城)の2つが1組となっていたものであろう。

 廃城も益子氏の滅亡に伴ってのことであろう。
 西明寺城が開発の波が及ばない山にあり、遺構が良好に残っているのに対し、本城は陶芸メッセの建設により、かなりの遺構は失われている。

 明確な遺構は本郭東から北にかけての土塁と堀のみであるが、深さ、幅とも4〜6m程度のそれほど大きなものではない。
 良く観察すると腰曲輪もしっかり残っている。
ただし、堀同様、規模は大したことはない。

 本郭は遺跡公園となっており、発掘で建物跡が発見されている。
二郭の芝生広場はやや西側に傾斜した平坦な郭であるが、本郭との間の堀は隠滅している。
西側、南側に土塁のようなものがあるが、もしかしたら公園化に伴う工事によるものかもしれない。

 
本郭(右)北側の堀 本郭内部 建物は三郭に建つ陶芸館 本郭(左)と三郭間の堀 四郭には陶芸メッセが建つ。
右下に堀跡が見える。

その西の曲輪は観音寺とその墓地となっている。
本郭東の三郭は本郭より5mほど低いが、現在は陶芸館となっている。

 その北側の谷津を挟んだ四郭は陶芸メッセ益子が建っている。
この谷津が城の大手道であったと思われ、現在、門が建てられている。
ただし、この門は当時の門の形式ではなく、江戸時代の城郭の門を模したものである。

富士山城(益子町大下羽)

益子町の七井から県道1号線を笠間方向に約2q。
大羽川の北にある標高180m、比高80mの山が城址。
場所は分かりにくいが、西の麓にカフェレストラン「猫車」があり、案内板が県道沿いに立っているのでその通りに行けばよい。
とは言え、この城、行かない方が良い。行く価値は全くないし、行く道もない。
よく富士山城なんて立派な名前を付けたことに感心する。

ここから本物の富士山が見えるのかどうか分からないが、この「富士」とはどうやら、北に見える「芳賀富士」のことじゃないかとどこかで書かれていた。
まあ、これが妥当なところか?その富士山城に登った。こんな馬鹿たれは管理人くらいだろう。
道のない藪の急坂を西側から比高80m登る。のばら、タラ、倒木、小竹でとんでもない道。
で、肝心の遺構は?西側に半月状に帯曲輪があるだけ。少し横堀状になっているだけ。
右の図のような感じだった。
これは「芳賀の文化財」に書かれていたことと一致する。物見か狼煙台かと書かれていたので妥当なところだろう。
あとはひたすら藪。身動きも取れず。証拠写真を撮ったが、何が写っているのかさっぱり分からない。
南西下から見た城址 帯曲輪なのだが、だたの藪。行った証拠写真。

益子城(益子町益子)

益子小学校が建つ地が益子城という。
益子小学校が山の中心部を占めているため、中心部の遺構はほとんど失われているという。

南西から北東に延びる尾根の北東に延びた尾根に段々に曲輪があるらしい。
小学校敷地の斜面は城の塁壁そのものの鋭さである。
しかし、休日にも係わらず小学校には子供が沢山いる。
他も民家の敷地である。
これじゃどうにもならないので撤退。
北側に居館跡だという平野家の屋敷がある。

益子古城が近くにあり、益子氏が益子古城からここに居城を移したという。
多分、益子古城には、一族の有力者がどちらかに居住していたのではないかと思う。

中城(益子町塙)

真岡鉄道益子駅の西600m、小貝川の低地の西側の台地上にあったという。
城のあった地は南側の谷津状の谷部を国道121号線が走り、東側は小貝川が流れ、川からの比高は数m程度であるが崖状になっている。
肝心の城址は、益子塙ゴルフ練習場からその南側の民家の部分にかけてが城域であったという。
しかし、遺構らしいものは見られない。
地形からして北側と西側に堀と土塁をL形に回したような館ではなかったかと思われる。
「芳賀の文化財」によると宇都宮氏の家臣、塙能登守大善が鎌倉時代に築いたという。
その後、塙氏がどうなったのか分からないが、城の北にある春日神社の本殿再建の棟札に「塙能登守利政」の名があるという。