尾羽氏館(益子町上大羽)
益子町の南東部、西明寺城の東、上大羽地区の名刹、地蔵院、綱神社の地付近にあった。
西明寺城に登る県道262号線をそのまま東に下るか、益子市街から県道230号線を東進し、下大羽から県道297号線を南下、大羽小学校を目指し、さらに600mほど南東に走行すると地蔵院に到着する。
この地蔵院と綱神社の謂れ、以下のとおりである。

下野国司藤原行房から建久5年(1194、建久3年説もある。)、宇都宮朝綱が公有の田を私有化した罪で幕府に訴えられ土佐国に流された。
しかし、土佐の加茂明神に願をかけたおかげでその年の内に帰国を許された。
帰国後、家督を孫の頼朝に譲り、この地に隠棲し尾羽寺を建立、(今の地蔵院の地ではなく、宇都宮家墓所の東側という。
なお、地蔵堂は尾羽寺の阿弥陀堂であったという。)して宇都宮家の菩提寺とし、さらに隣地に土佐の加茂神社を歓請し、綱神社を創建したと伝えられている。

その朝綱がここに隠棲する前、宇都宮氏の家臣、益子氏系の尾羽氏がここに館を構えていたといい、それが今の地蔵院、綱神社の地であったのか、北側の尾羽寺跡か分からない。
ただし、地蔵院の北側には土塁が存在する。
でも、これは寺院に伴うものかもしれない。
また、綱神社の参道、これも堀底道のようにも見える。
しかし、こんな田舎に国の重要文化財が3点も。
この益子、西明寺や円通寺など、国の重要文化財が多数。陶芸だけの街じゃない。凄いもんだ。

地蔵院本堂
昭和25年8月29日 国重要文化財に指定)
「側柱は角柱、内部は円柱、阿弥陀堂式の平面を構成する。
柱間寸法8尺4分、斗拱は二手先組、つなぎ虹梁先を肘木に作りだし斗拱を組み込む。
内陣格天井中央一部折上天井、花鳥、飛龍、鳳凰の彩色画が填められており、鏡板長押びわ材彩色仕上げ。
来迎柱2本は後寄りに立て、前方に須弥壇を設け、春日厨子を安置する。
春日厨子は鎌倉時代の作と見られ毛彫り金具等優雅である。 」(益子町HPより)

建築時期についての記録はないが、室町時代の建築様式が見られ、室町時代の建築と考えられる。
地蔵院の北側には高さ4mほどの土塁がある。 国重文の地蔵院本堂
綱神社本殿
(昭和25年8月29日 国重要文化財に指定)
「本殿は、身舎側面一間、正面三間、前面に三間の向拝を設ける。
身舎内は円柱、内部は十六角柱、向拝は面取角柱、柱下に土台を廻している。
斗拱は三斗組で両端は連三斗組、桁行の出組に皿斗を設け、大斗との高さを調整している。
懸魚、向拝中柱上部の手挾、木鼻等素朴で雄健の風を示し、意匠技法とも室町時代の特色をよく表している。 」(益子町HPより)
この建物は応永6年(1399)に再建され、文明4年(1472)に改築したものという。横からみた屋根の曲線が見事な造形美である。
綱神社の参道は堀底道か? 綱神社本殿は屋根の曲線が優美
綱神社摂社大倉神社本殿
(昭和25年8月29日 国重要文化財に指定)
 「身舎は一間四面、前面に一間の向拝を設ける。
向拝柱は面取角柱、身舎は円柱で内部を八角作りにのままにしている。
斗拱は三斗組で向拝中央に蟇股を備える。綱神社と同様に規模は小さいが室町時代の特徴をよく表している。」
(益子町HPより)
この大倉神社は、大同2年(807年)の創建と伝わる古い神社で、大羽小学校に建っていたのを綱神社の境内に移したものであるが、建物は大栄7年(1527)に再建したものという。
綱神社本殿の縮小版といった感じであり、やはり横からみた屋根の曲線が見事な造形美である。
宇都宮氏墓所
宇都宮朝綱は、家督を頼綱に譲り大羽の地に隠凄後、綱神社、尾羽寺(地蔵院)開山後、尾羽入道と改め、初代宗円、二代宗綱の墓を築いてから、この大羽の地は宇都宮家歴代の墳墓の地となった。
そして墓付家老をおいて家臣を住ませ、墓域の管理守護に当たらせた。
しかし、慶長2年(1597)、22代国綱の時に、秀吉に改易され、宇都宮氏は水戸徳川家の家臣となったが、墓所は旧家臣によって保護され続け、歴代の当主がここに葬られている。
<益子町の案内板より>
鶴亀の池
尾羽寺の南にあった浄土庭園の池が鶴亀の池。寺が廃寺になるとこの池も埋没し、水田になっていたという。
それを発掘して復元した。2つの中島があり、宇都宮家墓所付近までの広さがあったらしい。

館坂城(益子町北中)
陶芸の町、益子町の中心部から北の七井方面に国道123号線を1.2q北上すると、芳賀広域農道と交差する北中の交差点がある。
この交差点の北東の山が城址である。
「館宮坂城」「石岡城」とも言う。

交差点から見ると下の写真のように、山麓は畑となっており、頂上部が杉の林、比較的だらだらとした山で林は東に広がる。
しかし、視界に入るこの林の中、全てが城郭遺構なのである。

城には南側の芳賀広域農道から「関東ふれあいの道」が延びているので、そこを上がって行けばよいのであるが、この道は農道のようなもの。
軽トラなら行けるだろうが、普通車はきつい。
ほとんど歩道と考えてよい。

城に行くなら、山の北にまわり、北の谷津部にある円通寺付近に車を置き、谷間を南に延びる「関東ふれあいの道」を行けば良い。
この道を登ると途中で道が交差する。
ここからが本格的な城域である。
この交差点の右がすでに土塁である。
ここを左に行けば巨大な堀Fに出る。
まっすぐ行けば主郭部、右に行けば10m先に堀と土橋@にお目にかかれる。

城のある山の標高は122m、麓が80mなので比高は40m、円通寺が100mくらいの標高である。
岡のような山であり、400m×300mほどの広大な範囲に遺構がある。
しかし、メリハリの効いた部分とだらだらしてただの山としか思えない部分が共存する城である。
ちゃんとした城ではなく、築城途中で放棄された未完成の城ではないかと考えられる。
そう考えた根拠は、堀が埋没しているにしても浅すぎ、山に縄張の「けがき」を入れた程度のものとしか思えないものがあるし、ちゃんと施行され、埋没していない部分も存在する。

また、北側に延びる尾根は広く、緩やかであり、攻撃をこの方向からされやすいのであるが、そこには何の防御施設もなく、その尾根に面する曲輪の堀が小さすぎる、曲輪内部が削平されていない等のことが挙げられる。

城内のほとんどは藪状態であり、歩けないような部分も多く、距離感も掴めない。
掲載した縄張図は大よそのものであり、曲輪の形状等は曖昧なものであるが、この程度しか把握できなかった。

そもそも、この城、主郭がどこなのかがはっきりしない。
多分、曲輪Tではないかと思うが・・あるいは曲輪Uか?
曲輪Tは80m×60mほどの広さがある。

南側の曲輪Xからは切岸は高さ3mほどにすぎない。さらに内部が溝(排水路?)で区画されている。
西側Aと東側には土橋がある。西側の土橋に面して土塁が存在する。
西側の土橋を降りた曲輪Vには、土盛りがあるが、これは古墳という。
曲輪X側Cは堀を置く予定だったのではないかと思われる。(堀を埋めた感じはない。)

この北の曲輪U、この曲輪の方が、標高が高いのでこちらが本郭であるべきと思われるが、曲輪内部は傾斜しており、自然の山状態である。
曲輪の大きさは、どこまでが曲輪なのかはっきりしないため、把握できない。
少なくとも南北100mはある。北側に堀、土塁、土橋@があるが、明確な部分はここだけ。


この北が先に述べた無防備の広い尾根である。
しかし、西に回ると斜面部に横堀が回り、その堀は曲輪T、U間の堀に合流し、曲輪T西側の堀となる。
さらに途中から堀が分岐Dし、1段低い位置する曲輪Vの北西側を回る。
この横堀Eは見事であるが、藪がひどい。

途中、2か所ほど竪堀になって西下に下る場所がある。
ここには土橋があるので、通路兼用の竪堀ではないかと思われる。
下に示すように非常に面白い構造である。

曲輪Vは南北100mほどあるが、内部はただの山である。
だらだらしていて西に傾斜している。中央部に溝があるが、排水用のものか?そして南西端に馬蹄形をした堀と土塁がある。

この曲輪の南側には道Bがある。「館坂」と呼ばれており、城の名の元となった道である。
おそらく、本来の登城路、大手道ではなかったかと思われる。
この道の南側は畑になっているが、ここも曲輪だったのかもしれない。

再び、曲輪Uに戻るが、実は曲輪Uとその東に位置する曲輪W、それから曲輪Tの南側の曲輪Xはつながっており、明確な境はない。
(だから未完成と考えた。)
曲輪Wは西側の曲輪U側が非常に曖昧であるが、他はきちんとしている。
東側に100mほど張り出し、南北は50mほど。
この部分は土塁と堀がF、G囲む。土塁は堀底から5mほどの高さがあり、堀幅は15mほどある。
この部分のパーツだけを見ると一流の中世城郭の遺構である。

この曲輪Wの南西側、曲輪Tの南側が曲輪Xであるが、曲輪Wの延長でもある。
曲輪Tの南側を2,3段の帯曲輪として覆う曲輪群Hであるが、切岸は明確ではっきりしており、高さは4,5mほどある 。

@曲輪U北側の堀と土橋 A曲輪T西側の堀 B館坂、右側が曲輪V
C曲輪Tの南側の切岸 D 曲輪T北西側の竪堀 E 曲輪V、北側の横堀
F曲輪W北側の堀 G曲輪W南の堀 H段々に重なる曲輪Xの曲輪群

以上のような感じであるが、広い上に藪、遺構も分かったような分からないという感じで、30分も見れば十分と思ったが、長時間、山の中を放浪するはめになった。
しかし、どこが、どうなっているのか、現地では理解はできなかった。

家に帰ってメモを見ながら導いた結論が、未完成城郭説である。
ただし、城としても戦闘要塞ではなく、大型の居館といった感じである。

陣城も考えられる。
ただし、陣城って、誰がどこを攻めるための陣城かという疑問が残る。
攻めるとすれば益子氏の益子古城だろうが、誰がとなると「?」。

この規模から行くとかなりの軍勢が収容可能である。
佐竹氏や宇都宮氏が想定できるが、その史実は存在するのか?
さらに、住民の避難城ということも考えられる。
しかし、岡のような山にあり、あまりにも防御が弱い。
避難城ならもっと険しい山奥に造るように思うが。
この城に関する記録はないようである。
「大沢和泉守」の築城という伝承、「石岡伊賀守」という説もある。

なお、館坂城の北にある「円通寺」、なかなかの名刹である。
浄土宗名越派の寺であり、号は「大沢山」。
応永9年(1402)の開山で学問所として大沢文庫を設け弟子の育生にあたったという。
右の写真、表門は開創当時の建造と伝えられ、国の重要文化財。

この門は、中央の棟通し柱は径30pで、前後の柱はやや細く上下に棕をつけ、柱下には基盤を置いている。
柱上は唐様三斗組で、大斗の下端に皿斗をつけ、肘木は笹繰付である。

軒廻りは二重繁垂木で丸桁には手挾が組み込まれており破風板に繰形をつけ、懸魚は鰭付きの無形である。
構造意匠は大胆、奇抜、独創的であり全体的には彫刻は流麗で特に海老虹梁はみごとで、室町時代の特色をよく表しているという。
寺には阿弥陀如来像、観音菩薩像ほか安置され、県の指定文化財。

また、弘法大師が密教の用具で掘った清水で栃木の名水として有名な独古水がある。
県の重要文化財である円通寺一切経塔は、円通寺四十世良範上人が文化6年(1809)再興したもので、中世より江戸時代まで文化の中心を成した大沢文庫の面影を伝える建物である。
(益子町観光協会HP参考)