益子氏系城郭

村上城(市貝町塙観音山)
市貝町市塙の県道宇都宮茂木線から、田野辺方面へ分かれる道を2kmほど北上すると右手の丘に「村上城趾」の看板がある。
「観音山梅の里」の看板もあり、一帯は梅の里としても知られている。
城は標高172mの観音山の南斜面に築かれた山城であり、県史跡に指定されている。東西200m、南北250mくらいが城域である。
城址に建つ永徳寺には、行基作と伝わる木造十一面千手観音立像がある。
また、本郭や城の南斜面は梅林であり、春は梅の名所として知られる。 

城は、永徳寺境内北側の観音山の山頂から南斜面にかけて築かれており、斜面の杉林の中を3本も走る土塁と堀に見ごたえがある。
郭は斜面に築かれているため、内部に段差がある。
本郭は東西約40m、南北約85mのいびつな三角形の形をしており、斜面であるため中に段がある。
その周囲を土塁と堀が囲んでおり、南東端に入口と階段があるが、これは後世に付けけられたものであり、本来の虎口は南側のみであった。
そこまでの道は観音堂脇の大手口Cから、堀底道を通り、Hの位置から入るようになっていたらしい。
本郭の北側は梅畑になっており、やや南に神社の小さな社が祀られている。
また、北端、Fの位置にも社がある。ここがこの山の最高地点となる。
本郭を中心に同心円状に一の堀が設けてあり、本郭周囲の堀の外側にも土塁が巡っている。
本郭の土塁上からは堀底までは5mほどある。幅は10m程度ある。
この外側が二郭であるが、曲輪と言えるのは観音堂がある付近だけである。あとは山の斜面である。
二郭内は南に向かい数段の曲輪がある。
さらに二郭の外側に二の堀を隔てて三郭が配置されている。
三郭は全て山の斜面であり、実質的な意味はない。
形式的には輪郭式の城郭である。
観音堂の東側は二郭外側の堀と三郭外側の堀が合流し、見事な造形である。
しかし、一の堀以外は埋没が激しく、規模も小さいものである。
二郭に相当する永徳寺境内の南側にもいくつかの曲輪があり、現在道路になっているところ、梅林になっている@も帯曲輪の跡である。
この南に張出した平坦な曲輪@が、城主の平時の生活場であった館があったと言われる。
ここからの眺めは非常に良く、日当たりも良好であり、館を置くには理想的な場所である。
城跡の北西、桜川西側の台地にも切り通しがあり、人工による土塁跡が認められるとのことであるが、そこは工場の敷地となってしまい遺構は残っていなかった。。

村上城は、那須領、千本方面に対する防衛拠点として、永和4年(1378)益子正宗の2男村上丹波守新助藤良により築かれたと言われる。
那須氏への備えという点では、那須領の北方に対して3重の堀を構築していることからも間違いないであろう。
その後、村上氏は益子氏の家臣として三代にわたり居城し、天正11年(1583)の高塩合戦においては「村上丹波・子息弥六左衛門」の名が見える。
益子氏が滅亡した天正17年(1589)頃、廃城となったと思われる。

南西側から見た城址 @南側の張出しも曲輪という。居館跡とも A城址東で二の堀と三の堀が合流 B 二の堀東側
C一の堀(右)と土塁。
ここは本郭の入り口にもあたる。
D一の堀東側、右が本郭 E 一の堀西側、左が本郭 F 本郭最高地点の土塁
F 本郭最高地点下の堀 G 一の堀、西側の終点。 H 一の堀 本郭(左)南側 I 二の堀 西側の終点
J 三の堀東側 K 三の堀北側は埋没している。 L観音堂 西側下にある台地に出城があったという。

 山根城(市貝町市塙)

真岡鐵道市塙駅の東にある丘が城址であり、現在、「記念樹の森公園」となっている。本郭跡には展望台が建っている。
 城は茨城県七会村にある萩原長者屋敷にそっくりである。

本郭は周囲を幅3m程の土塁で囲まれており、東西約55m、南北約70m程の広さがある。
本郭側には土塁はなく、堀の外側に土塁がある。(萩原長者屋敷は本郭側にも土塁がある。)
本郭の周囲は段々状の曲輪があり、北方五段、南方三段がある。
東方には3m以上の堀切があり、二段の土塁で本郭に続いている。
本郭北西に櫓台跡らしきものがあったというが狭く、丸太を組んだ物見台程度のものが建っていたと思われる。
 本郭の東方には深い堀切があり、幅3m程度の堀切道を隔てて葦原城がある。
葦原城は深い山林となっているため遺構は確認できない。
この葦原城に対して、山根城は出丸・出城の役割を担っていたものと思われる。
 館跡は城の南方の山裾に位置し、山根城の本郭と葦原城のほぼ中央部、堀切の突き当たり下の平地とのことである。
館跡の南側はさらに2m程低く、水田地帯となっている。
城の西側山裾、市塙駅との間は低湿地となっているが、ここは水堀であったと言われる。

築城年代や築城者は明確ではないが、宇都宮尚綱より天文18年(1549年)頃、市花輪越前守が「地利」つまり城砦を築くのを認める書状があるとのことである。
これから、市花輪越前守が築いたと思われる。

市花輪氏は天正11年(1583年)の「高塩合戦」にも参陣した記録があり宇都宮氏の重臣益子氏の被官であったと思われる。
この地は、烏山、茂木、益子、宇都宮方面に通じる交通の要衝であり、山根城は益子の支城として北の那須氏に対する防御拠点であったと推定される。

城址南側から見る。展望台が本郭。 西側の曲輪下に水堀跡がある。  本郭西側の曲輪
本郭周囲の堀と土塁(東側)右の山林内が葦原城 本郭周囲の堀と土塁(北側) 本郭周囲の堀と土塁(南側)


赤埴城(市貝町赤羽)
赤羽小学校西側が城址である。微高地に築かれた平城である。
かつては東西400m、南北600mもある大きな城であったと伝えられるが、耕地化、宅地化により土塁は崩され、堀は埋められてしまった。
未完成の状態で廃城になったともいう。
それでも小学校西の杉林の中に高さ4m近い巨大な土塁や堀が一部残っている。
築城は益子氏一族赤埴右京之進宗勝、周防守宗重というが確証はなく、不明というのが現状である。

残存する土塁。かなり大きいものである。 土塁南の堀はかなり埋没している。 残存土塁南西側の民家内に残る土塁。


御城(市貝町市塙)

旧市貝町役場、現シルバー人材センター西の山が城址である。
東は水田地帯を経て山根城に対し、北の尾根筋をたどると村上城等を経て烏山に至る。その尾根の末端部に築かれた丘城である。
比高は30m程度であり、南北に3つの主郭が並び、その東西に帯曲輪が築かれる。
旧市貝町役場はその東側の曲輪の一つに建つ。全体としては東西300m、南北400m程度の規模を有し、最南端に本郭を置く。
本郭は東西50m、南北80m程度の大きさであり、北の二郭の間には土塁がある。
二郭は東西90m、南北110mほどの大きさであり、土塁を隔てた北側の北城は東西120m、南北100mほどある。
主郭部は山林であり藪が酷いが遺構は結構残っている。周囲の帯曲輪は畑や宅地となっているが、かろうじて形状は保たれている。
確かな記録はないが、場所からして益子氏の家臣、それも重臣クラスの城であろう。
本郭東の白山神社。この場所も腰曲輪と思われる。 本郭(右)と二郭間の堀跡。二郭側の方が地勢が高い。 本郭(左)と二郭間の堀跡は西側で竪堀となる。この遺構ははっきり残る。 本郭(右の林)南下の曲輪は畑になっている。

市花輪館(市貝町市塙)

市貝小学校の南西にある。桜川と小貝川が合流する地点の台地上にある。
本郭は東西54m、南北65mの長方形であり、断続的に高さ2m程度の土塁が民家の中に認められる。
本郭の周囲には堀があったようであり、その外側にも曲輪があったようである。

築館は貞治年間(1362-68)益子喜太郎勝直と言われるが確証はない。
右の写真は東側に残る土塁の一部である。
民家が郭内にある。堀はなくなっている。

多田羅館(市貝町多田羅字古屋敷)

真岡鉄道の多田羅駅、県道163号線の西側、多田羅の集落全体が館跡であるという。
この地は西側の小貝川に緩やかに傾斜しており、星宮神社から南にかけての一帯が館の中心部であったらしい。
能引寺の東側に低い土塁のようなものが認められたが、どうもこれは本物の遺構のようである。
星宮神社周辺も遺構らしいものは見当たらないが、東側にある沼地が堀のように思える程度である。
ほとんどは宅地化で失われてしまったようである。
伝承では鎌倉時代の居館であったともいう。君島氏関係の館という説もある。
平地にある戦国時代以前の館なら、遺構が失われてしまっても仕方がないのかもしれない。
地名から推察すると製鉄が行われていた場所かもしれない。
能引寺の土塁 この付近が館の中心部だったという。